金刀比羅宮

以下の続きです。

 

参道口から御本宮まで続く785段もの石段、そして「こんぴらさん」の愛称や有名な金刀比羅宮真言宗象頭山 松尾寺の堂宇の1つで、琴平山こと象頭山の中腹に鎮座する。御祭神は大物主神崇徳天皇

古来より海の神様や五穀豊穰、大漁祈願、商売繁盛などの広範な神様として篤い信仰を集め、今日では年間300万人が訪れる。山号から御本宮までは785段、奥社までが1368段の石段があり、その参道には旧跡や文化財が多数ある。

 

由緒は大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と改称し、永万元年(1165)に崇徳天皇を合祀し現在に至る。

 

境内には金刀比羅宮本殿・幣殿・拝殿・渡殿・神楽殿・大門・三穂津姫者白・神輿庫・奥の院などが並ぶ。

 

金刀比羅宮の「三国志」は絵馬堂に見ることが出来た。

絵馬堂には大小様々な奉納絵馬が所せましと並んでおり、その多くが航海安全を祈願した船が描かれた絵馬や、レリーフ状の船の絵馬、戦艦、スクリューが付いた絵馬などを占める。宇宙〝船〟ということもあってか、宇宙飛行士の秋山豊寛氏の絵馬も懸かるだけでなく、海洋冒険家・堀江謙一さんのモルツマーメイド号も置かれる。

かつては複数の三国志を題材とした絵馬が複数懸かっていたようであるが、参詣した2020年10月当時では関羽周倉を描いた絵馬1点のみ確認することができた。

 

 

関羽周倉」図

大きさは未明。中央には赤兎馬に跨り鳩尾前で髯をしごく関羽と、その右隣には青龍刀を手にする周倉の姿が描かれる。例の如く経年により全体の色彩が退色しており、部分的に下地が見える限りである。制作年や筆者は墨書が見当たらず未明。

 

かつては赤色で着色されていた赤兎馬は、色褪せにより朱色の毛に包まれ、鐙や鞍、杏葉などの馬具が装着される。関羽は幘を被り、赤ら顔に目尻が吊り上がっており、鎖骨を越える鬚髯や鬚を蓄える。首元には布を巻き、鳩尾付近の右手で自身の髯をしごく。首から下は輪郭線を残すものの細部の識別が困難な状態である。おそらく袍を身に纏っていると思われる。一方周倉は、関羽と同様に赤ら顔、また張飛のような丸い眼と虎髭を蓄える。ほっかむりのような形状の盔を被り、両手で青龍刀を抱く。青龍刀、盔、上半身は白く退色、また下半身は完全に消えてしまっており当初の姿は不明である。

 

 

 

 



絵馬堂のその後

絵馬堂は三穂津姫社の南側に二つ南北に並んでいた。共に江戸時代、18世紀中頃に建立したものだと推定される。南の絵馬堂は2002年に、北の絵馬堂は2021年まで存在していた。今回観ることができた絵馬堂は後者であるが、老朽化に伴い先述した2021年10月に絵馬が全て取り外され、2022年のはじめには解体されてしまった。

 

 

2021年10月当時

 

解体され更地に…(2022年8月当時)

 

資料や文化財として貴重な絵馬は、学芸参考館と金毘羅庶民信仰資料収蔵庫にその一部が移され保存・公開されている。三国志関連の絵馬は保存されているかと思われるが、現在は非公開となる。

 

やはり老朽化は回避できない問題である。しかしながら修復、維持・保存される絵馬は多くはない。そのため、いつでも鑑賞できるものではない、ということを念頭に置き、観れるうちに鑑賞すべきだ、と改めて思い知った。

 

 

今回は4ヵ所の寺社を巡り、計3点もの絵馬を見ることができた。香川県内には、他にも塩飽大工が手掛けたと思われる張飛関羽の寺社彫刻や、関羽を描いた掛け軸など一般公開されていない文物を含め様々な作品が今日に伝わる。

また四国全域に目を配ると桃園三兄弟をはじめ、関羽張飛趙雲黄忠を描いた奉納絵馬が現存しており、いずれも共通して同じ場面を取材し、類似した構図で描かれる。今回は作品の元ネタが不明なものが多かったが、今後もこのような当時の三国志受容の一端を窺い知れる作品を通して、引き続き神社仏閣に残る「三国志」作品の調査を行いたい。

 

〒766-8501 香川県仲多度郡琴平町892−1

南鴨加茂神社

久々の更新です。

 

香川の「三国志」探訪3ヶ所目。

JR予讃線 多度津駅より北西に15分ほど歩いた位置に鎮座する家中天満宮多度津駅に戻り、今度はそこから東へ歩くことおよそ25分。

続いては南鴨の加茂神社へ足を運んだ。

 

祭神は加茂別雷神。由緒は不明であるが、かつては下加茂社の御供田が六十町あり、その関係で京都賀茂神社の別宮として勧請されたものといわれる。周囲は田畑が広がっており、大きな社叢がひときわ目立つ。

平安時代末の源平合戦の時、平家を追悼する途上の源義経が暴風雨のため寄港し、武蔵坊弁慶が神の怒りを静めるため、加茂神社に大般若波羅蜜多経を納経したという伝承が残る。

 

一の鳥居、随神門、注連柱、本殿が一直線に連なり、いずれも北東を向く。おそらく賀茂神社に向いているのであろう。また境内には石舞台を有する。

 

賀茂神社の「三国志」は本殿で見ることが出来る。『加茂神社覚書書』に拠れば、1988年の調査当時ではその本殿に2点もの「三国志」が確認できたようである。

いずれも奉納絵馬で、1点は伝「劉備元徳(ママ)乗馬の絵」、そして伝「中国古代武将 槍を携えて馬に乗る絵」が記録される。

 

 

残念ながら今回は、本殿の門扉や窓が雨戸などで完全に覆われており、絵馬どころか内部すらも確認することが叶わなかった。

境内で遊んでいた地元の子供たちに、いつ本殿が開くのか聞いたところ、祭事の際には開かれる、と教えていただけた。

 

今回は『加茂神社覚書書』の記録や図像を基に、2枚の三国志な絵馬を見ていきたい。

 

伝「劉備元徳(ママ)乗馬の絵」

所謂、檀渓図を彷彿とさせるタイトルが与えられているが、左より順に張飛関羽劉備の3人が馬に跨る姿が描かれる。これまで多くの三国志な奉納絵馬を見てきたが、このように描かれる3人の絵馬は初めてである。

 

 

記録に拠ると、拝殿西側の幣殿への扉の上に懸かり、額の左右には「維時元治二歳在/丑十一月陽月吉良日」が、下辺には奉納者の名前が連なる。

このことから元治二年(1865)11月に、伊勢参宮のために結成した17名もの集団によって奉納されたようである。ちなみに元治二年は4月に慶應改元された年である。

大きさは未明、画は雪溪。仲多度郡郡家村出身の大西雪溪(1814~1892)で、彼は円山派の中島来章に師事し、人物画を得意とした絵師である。

 

 

伝「中国古代武将 槍を携えて馬に乗る絵」

入口扉の上部に懸かり、槍を手に馬に跨る人物の姿が描かれる。懐に子供の頭部が見えることから、この人物は趙雲劉禅で、「長坂坡趙雲救幼主」の場面をモチーフである。額の左右には「明治第十三歳在庚辰/夏七月穀旦」、下部に先の絵馬と同様に14名の伊勢講集団の名が記される。

こちらは明治十三年(1880)七月に伊勢講によって納められた絵馬である。

 

胸元には子供の頭部が!阿斗だ!!

 

今回取り上げた奉納絵馬を実際に目にすることが出来なかったが、ここにも素晴らしい三国志な絵馬が納められている、と分かっただけでも成果として十分であったと思う。

やっぱり見たかった…という悔しさは少しあります。

 

〒764-0026 香川県仲多度郡多度津町南鴨384

 

家中天満宮

先の記事で取り上げた塩屋別院を後にし、続いては家中天満宮に向かった。

 

 

最寄りはJR予讃線 讃岐塩屋駅から1駅隣の多度津駅。そこ北西方向に15分歩くと、周囲は塩屋別院と同様に閑散な住宅地の中に家中天満宮が鎮座する。

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この地域は江戸時代、多度津藩の家臣が住む武家屋敷や長屋など、城下町だったそうで、その名残がこの天満宮の周辺に今も観ることができる。

 

天満宮なので、祭神は菅原道真。境内には第一の鳥居、随神門、注連柱、本殿が一直線に連なり、いずれも南を向く。その参道の西側の脇に小さな3つの祠が並ぶ。

 

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一の鳥居と随神門

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参道と注連柱

 

境内の隅には1992年に設置された天満宮修復記念碑が置かれている。それに拠ると、天満宮の由緒は以下のように記録される。※判別できない文字を■とした。

由緒

古くは堀江村に鎮座ありしや、寛永十二年九月十三日(1635)此の地に遷座せりといふ。勉強の神様、書道の神様(■■■■)古くから近郷近在の方々の信仰あつく、地区の産上(■■■■)多度津藩主、京極家の崇敬もあり、石灯籠一対を奉納(■■■■)

  明治五年九月二十一日(1872)本殿再建

  明治二十九年九月(1896)拝殿の修復

  明治三十五年五月(1902)随神門の新築、道真公一千■祭記念

  平成四年八月(1992)本殿、拝殿、随神門の屋根(■■■■)

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さて天満宮の「三国志」はその拝殿部に見ることが出来る。大きさは未明であるが、「三顧の礼」を取材した奉納絵馬が懸かる。

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拝殿

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木枠から拝殿内を覗くと…

 

 

この絵馬は板材に直接描かれているのではなく絹本着色で、左より順に草盧で筆を握る諸葛亮童子張飛関羽、騎乗する劉備の5人が描かれる。

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真っ赤な衣服を纏う諸葛亮

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にくたらしい表情の童子

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張飛関羽

赤味がかった顔色の方が張飛で、白面の方が関羽。ややこしい…

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劉備。特徴はない…

 

かつて参詣した平野神社(福岡県大野城市)の絵馬堂に懸かる奉納絵馬「三顧の礼」図と同様に、この絵馬のモチーフは月岡芳年(1883)の浮世絵『玄徳風雪に孔明を訪る』が題材であろう。唯一、左右を反転した構図で描かれる。

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牛頸 平野神社

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月岡芳年「玄徳風雪に孔明を訪る」

 

額の上辺には「奉獻寳前」、右辺には「明治十一年戊寅九月吉祥旦」、左辺には「願主 未ノ年某 南町西岡佐平 神原亀造/■■■治 宮本幸治 高橋文吉 森伊平」と彫られる。このことから明治十一年(1878)に6名の連名に寄って納められたようである。

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右辺

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左辺

となると、1点矛盾が生じる。月岡芳年の浮世絵の方が、この絵馬よりも5年遅れることとなる。

一体どういうことなのだろうか…

 

絵馬の左下には「絵馬堂 夢樂」の墨書と落款が見える。

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それを手掛かりに検索すると下記の有限会社絵馬洞が該当した。

絵馬製作なら 絵馬・天神様 製作工房 絵馬洞

 

この会社は、絵馬などの作成や修復なども行っており、2016年にこの絵馬を修復したと紹介される。

 

 

かつては、この絵馬は著しく傷んでおり、状態は劣悪。絵馬全体の退色はもちろん、全体の三分の二以上を、特に童子より右側の布地を逸していたことが触れられている。

また絵馬洞のサイトに拠れば、修復する際に「「三顧の礼図」右部分は浮世絵の資料を参考にし」た、と言及されていることから、月岡芳年の画が参照されたようである。

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修復前の状態。

何という事でしょう!

大きく欠落してしまい、

目も当てられない状態ではないでしょうか!!

http://www.enmado.com/Enmado/news/detail.php?4

画像は上記サイトより引用

 

経年とともに、ゆっくりと消えつつある奉納絵馬。この天満宮のものは人知れず朽ち果てる前に、修復という形で救済された。自分のことながらにとても嬉しく思う。

 

〒764-0003 香川県仲多度郡多度津町家中7−26

 

浄土真宗本願寺派眞照山 塩屋別院

JR予讃線 讃岐塩屋駅より北東に歩くことおよそ10分。香川県丸亀市の北部の閑静な住宅密集地に、その巨大な伽藍がひっそりとたたずむ。

巨大な山門に、巨大な本殿…

 

浄土真宗本願寺派西本願寺)に属する塩屋別院である。

 

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山門(表門)

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本殿

 

山号は眞照山。その創建は新しく、慶長二十年(1615)に播州赤穂の教法寺とその門徒が、塩田開墾のために移住し、教法寺道場として開いたことが始まりとする。本尊は阿弥陀如来像を祀る。

 

ベートーベンの『交響曲第9番』が、第一次世界大戦の際に収容したドイツ兵俘虜の楽団によってアジアで初めて演奏された「第九」ゆかりの地として今日知られている。

 

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境内には本堂や書院、奥座敷、学寮、講堂、山門などが置かれ、その山門に「三国志な彫刻がある」という情報を得ていたので今回参詣することとした。

 

さてくだんの山門であるが、高さはおよそ10mほどか。北野天満宮の楼門よりもやや低い高さであるものの、周囲に住宅が密集していることもあり、実際以上の大きくがあるように感じる。

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入母屋造りの四つ脚門で、南側を向く。屋根には鈍く輝く青銅色の銅板を葺く。天保十年(1839)より建設が始まり、嘉永七年(1854)に落成。棟梁は飛坂恒次郎、彫刻工は北山藤斎と伝えられる。

 

左右の控柱~本柱、本柱~控柱の間には、地上から2mほどの位置に少し見上げるような形に縦2m、横1.8mの羽目板が4枚はめ込まれてる。

いずれも3枚の板材で構成されており、それぞれに中国の古典を題材とした彫刻が以下のように施される。

 

北西部には「鯉仙人 琴高」が、北東部に「亀仙人 黄安(盧敖)」、南西部には「黄石公と張良」、そして南東部には今回の目的である「三国志」と伝わる三顧の礼をの彫刻が配される。

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北側の彫刻2点は、門扉が内側に開きく都合のためか表面が外側に向けてはめられる。残念ながら背面は門扉によって覆われてしまうため、参拝時間中は鑑賞することができない。

幸運なことに南側2点は、門扉に隠れないどころか、時間外であってもいつでも観ることが出来る。やったね!!

 

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北西「鯉仙人 琴高」

 

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北東「亀仙人 黄安」(武天老師さまじゃないよ)

 

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南西「黄石公と張良

 

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南東「三顧の礼

 

 

三顧の礼」(伝「三国志」)

三顧の礼」こと三顧草廬を取材としたこの彫刻には、左より順に童子劉備関羽張飛、左上部の草廬には諸葛亮の姿が表される。

緻密で写実的に表現されている人物や、その周囲の情景は裏面も惜しむことなく透かし彫りで丁寧に表現されている。木目さえも利用されているように思えるほど凝った造形で、西日本の三国志な寺社彫刻の中でも非常に優れた作品である。

 

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童子劉備 童子「Fxxk!!」

 

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関羽。青龍刀はもちろん、頭からつま先までの衝撃クオリティ。

どこからどう見ても我々がイメージする関羽その人である。

 

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張飛 どんぐり眼がかわいい

 

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貫禄のある諸葛亮芭蕉扇タイプの羽扇を握る

 

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しっかりと細部まで彫りこまれている背面も見応え十分!

 

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こんな角度から諸葛亮の廬は見れるのはここだけ

 

 

この彫刻を手掛けたのは一体誰なのだろうか。

全体をよく見わたすと、童子の左横に「勝元」という刻銘と、篆書体のような「北山勝元」の刻印が見える。

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刻銘と刻印

 

また「黄石公と張良」の彫刻の右下部にも同様の刻銘・刻印を確認することが出来る。おそらく4点の胴羽目彫刻は彼によるものだと思われる。

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刻銘と刻印

 

丸亀市史4』や三宅邦夫『塩飽大工』に拠ると「北山勝元」という人物は、名を北山助四郎勝元といい、丸亀市本島町生ノ浜の塩飽大工の家系に生まれた人物のようである。

塩飽大工とは、塩飽諸島を中心に古くより廻船・海運・造船業で活躍した塩飽水軍が、江戸中期以降に廻船業が衰退したために、船大工の技術を寺社や民家などの建造物に活かした大工集団である。

 

勝元の詳しい略歴は不明であるが、天保六年(1835)34歳の時に三所神社丸亀市本島町)の本殿彫刻を、嘉永七年(1854)53歳の時には塩屋別院表門の彫刻を、明治六年(1873)72歳の時に正覚院客殿の彫刻を、そして明治十六年(1883)82歳の時には下坂神社(丸亀市飯山町)社殿の計4ヵ所を手掛け、明治二十年(1887)11月に86歳で死没したことが明らかとなっている。

 

 

塩屋別院の彫刻は脂が乗りに乗った時期に作成されたもののようである。彼が作成するにあたり、何らかの三国志作品を参照したのであろうか。

 

細部まで丁寧に作りこまれている三国志を題材とした彫刻は、国内でも非常に貴重である。しかも見応えも十分にある。参拝時間に関わらず、いつでも間近で好きなだけ好きな角度から彫刻を観れる寺社はここ以外あるだろうか。

 

三国志好きにとっては非常にたまらない三国志スポットだと思う。もちろん寺社彫刻愛好家にとっても最高のスポットの1つになりうるだろう。

 

 

今回アップした画像で見るよりも大きいので、香川を訪れた際は是非とも参詣することを勧めます。本当に素晴らしい寺院でした。

門をくぐる前で満足感で胸がいっぱいです。

 

参詣された夏侯蒼さん(@Kakousou3594)も、ブログにて塩屋別院について紹介されています。ぜひこちらもチェックしてみてください!

kakousou.hatenablog.com

 

〒763-0065 香川県丸亀市塩屋町4丁目6-1

 

【告知】三国志研究会(全国版)第10回オンライン例会で発表します

今週7月10日(土)16時半より、龍谷大学竹内真彦教授が主催される三国志研究会 オンライン例会にて発表いたします!

今回は雷蔵関帝像について」と題しまして、大阪府の最南端の市である阪南市に鎮座する台湾系の新興宗教 真佛宗雷蔵寺さんにてお祀りされている関帝像についてお話いたします。

 

今回もフィールドワーク時に撮影した画像を交えてながらご紹介したいと考えてます。

 

 

三国志が好き」「三国志について知りたい」「三国志について語りたい」方であれば、どなたでも自由にご参加いただけます。また参加費や資料代など無料ですので、興味がある方はぜひご参加ください。よろしくお願いします!

 

詳しくは以下のサイトをご覧ください。

御香宮神社

以下の記事の続き。

海寶寺の西側、南北に横たわる国道24号線に沿って10分ほど南下すると、右手に石垣と白い築地塀が見える。続いての三国志スポットは御香宮神社である。

御香宮と書いて「ごこうのみや」と読む。初見では読めない名詞だ。

 

 

御香宮神社は国道24号線大手通りの交差点北西部に鎮座する。大手筋通りに面して窮屈そうに構える御香宮神社表門は、旧伏見城の大手門と伝わる。

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表門

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この表門の蟇股には中国二十四孝のうち4つの彫刻が施されている。向かって左より順に、孟宗、唐夫人、郭巨、楊香。うち孟宗は三国時代の呉の人物である。

 

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孟宗

真冬に筍が食べたいという母の為に、泣きながら掘っていたら雪の下から筍が生えて来た、というお話。

 

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唐夫人

歯がなく食べ物を噛む事が出来ない姑に自らの乳を吸わせ親孝行をした、というお話。

 

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郭巨

極貧にあえぐ郭巨夫婦は、母親が食を減らすのを見て、口減らしに赤ん坊を埋めようと決心し、山で穴を掘ると金のお釜が出てきた、というお話。

 

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楊香

山で虎に出くわして、楊香が「私を食べて父を助けて」と天に祈ったら虎はどこかへ行ってしまった、という話。

 

 

御香宮神社の由緒や創建などは未明。社伝によれば、はじめ「御諸神社」と称したが、貞観四年(862)に境内より香気漂う清泉が湧き出て、その水を飲むとたちまち病が癒えたため「御香宮」と賜り、以後、伏見の安産神として人々の信仰を集めた、とされる。

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由緒

 

本殿は南を向き、神宮皇后を主祭神に、仲哀天皇応神天皇などを祀る。境内には拝殿や本殿、能舞台、絵馬堂などを有する。御香宮神社の「三国志」は上述した表門の彫刻の他に、例に漏れずやはり絵馬殿でも見ることが出来る。

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本殿前(七五三の儀式が執り行われていた)

 

絵馬殿は境内奥の拝殿の東側にたたずみ、桁行四間、梁間二間、屋根は切妻造りの桟瓦葺で、建立は宝暦五年(1755)十二月と伝わる。藤森神社の絵馬舎と比べると、桁行が一間だけ大きく、北野天満宮のように所狭しと数多もの奉納絵馬を掲げる。その中に、関羽周倉が描かれた絵馬が見える。

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絵馬殿

 

七五三の撮影時期に参詣したため、境内各所でその撮影が行われており、絵馬殿ではその家族の休憩スペース兼荷物置き場兼機材の準備などが展開されていた。

 

関羽周倉図」

大きさは未明。縦1.2m、横1.8mはあろうか。全体的に酷く退色しているものの、はっきりと輪郭線が残っており、漠然とであるが関羽周倉の2人の姿は確認することが出来る。三国志好きでも、すぐに彼らだと判別が難しい状況である。

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関羽周倉図」

 

よく目を凝らしてみると、関羽は緑の幘、緑の袖口の袍を纏い、赤い卓子に右肘を預け、右手で髯をしごく。一方左手は左膝に置き、胡坐を崩したような恰好で座する。卓子の上に置かれる巻物は『春秋左氏伝』であろうか。この関羽は鎌倉~戦国時代の出家した武士のような印象を受ける。

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関羽

 

またその右後ろには鎧を身に着け笠形盔を被り、青龍刀を右手で握りって侍る周倉が描かれる。

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周倉

 

絵馬の右下部には筆者の号「■南」と号と思しき墨書が記される。落款や刻印はない。■部は擦れてしまっており判別することが叶わなかった。

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墨書

 

額上辺には右書きで「永代御神樂」、右辺には嘉永元年戊申(1848)四月吉日 取次伏見 吹田屋~/竹屋~」、左辺には「正月 五月/九月 十一月 京都 石川屋儀~/元~」と彫られる。

他の絵馬との配置の問題により、額面の文字を全て確認することが出来なかったが、この「石川屋儀~」とは瀧尾神社の「関羽周倉図」を奉納した石川屋儀兵衛その人であろう。意外な繋がりが見つかり嬉しいばかりである。

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右辺

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左辺

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瀧尾神社「関羽周倉図」

 

屋外に懸かる絵馬はどうしても退色や損傷など避けることが出来ない。ここの絵馬殿にも比較的新しい絵馬がいくつか懸かっていたため、どうやら古い絵馬は降ろされているようである。この「関羽周倉図」もある日突然…という可能性はゼロではないため、拝観できなくなる前に、是非とも鑑賞していただきたい一枚である。

 

 〒612-8039

京都府京都市伏見区御香宮門前町174

 

『三国志 趙雲無双伝』入手

6月2日(水)にリリース・レンタルが開始となった映画『三国志 趙雲無双伝(原題:趙雲傳之龍鳴長坂坡)』のDVDを入手しました!

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本作は2020年11月6日(金)より中国で公開された叶青云 監督による映画で、原題で分かるように、演義の名場面の1つ「長坂の戦い」における趙雲の活躍が原案になっています。あらすじ、キャストは以下の通りです。

 

曹操軍83万 vs 趙雲の決戦! !
後漢末期。丞相の曹操は、劉備らと呂布のいる下邳城を包囲していたが、赤兎馬に乗る呂布に苦戦していた。だが、貂蝉と酒に溺れる呂布張遼に裏切られ、敗れてしまう。
その頃、趙雲の故郷の趙家村が曹操軍の兵によって襲われ、趙雲は惨殺された家族や村人の仇を討つも毒矢を受けて気を失ってしまう。
だが偶然にも劉備の妻、糜夫人に助けられた趙雲は、恩義を感じ劉備と共に行動をすることに。
北を統一した曹操は宿敵となる劉備を追い南下する。83万の曹操軍から逃げる劉備軍だったが、途中、夫人と嫡子の阿斗が敵軍に追いつかれてしまう。趙雲はふたりを救うため、関羽から借り受けた赤兎馬に乗り、単騎で引き返すが、夫人はすでに絶命。
だが、傍に赤子の阿斗を見つけた趙雲は、阿斗を胸に抱えながら、赤兎馬を駆るが曹操率いる83万の軍勢に囲まれてしまう。

【出演】

梅洋(趙雲)、王韜(呂布)、于彦凱(曹操)、沈雪煒(劉備)、葉新宇(関羽)、侯楽(張飛)、祝寿(張遼)、李倩倩(貂蝉)、他

 

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趙雲の映画…と言えば、2008年4月(日本では2009年2月)に公開されたアンディ・ラウ主演『三國志(原題:三國之見龍卸甲)』以来、およそ12年ぶりとなる映画です。

この映画は趙雲劉備に仕える以前から散る場面まで、彼の生涯にスポットが当てられています。全体的に泥臭く埃っぽい世界観に、 華やかさはないものの、堅実で無骨さもある渋くてカッコいい趙雲三国志好きについオススメしたくなるようなとても見応えのある作品でした。

 

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さて、本作は趙雲劉備に仕官する前から長坂での戦いまでが描かれており、『三國志』と比べると時系列的には短いものの、丁寧に『三国志演義』を取材をして描写や演出がされていて面白かったです。

ここ数年に公開された福田雄一 監督(2020)『新解釈・三國志』や姜炫亦 監督(2020)『三国志周瑜孫策~(原題:江東戦神少年周瑜』、回宇 監督(2018)『三国志黄巾の乱~(原題:魔國志之黄巾之乱)』といった映画と比べると、ぶっ飛んだ解釈や改変などがなく、かなり忠実に三国志三国志していたのもポイントでした。

 

個人的には『三国志演義』を読んでいれば、より広い視野で台詞や演出など細部まで物語が楽しめるかと思いました。また『軍師連盟』で印象的な高い壁の通路やあの場所やあの部屋なども映るので、ドラマも完走しているとさらに面白く感じるかと思います。

 

先の『三國志』とはテイストがかなり異なりますが、それにはない面白さや魅力が詰まっていますので、三国志ファンの方には是非とも楽しんでいただきたいなと思います。

 

日本のお家芸といいますか、邦題とメインビジュアルが説明的になりすぎてダサくなってしまうのは悪い文化ですよね…

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黄檗宗福聚山 海寶寺

以下の記事の続き。

藤森神社の参道を抜けて、そのまま南に直進することおよそ10分。距離にして700メートルの位置に、海寶寺が閑静な住宅地の中にひっそりと佇む。

黄檗宗の寺院で、山号は福聚山。三国志ツアー2日目初の寺院である。

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山門

 

海寶寺は10mにもおよぶ伊藤若冲(1716~1800)晩年の水墨画の襖絵「群鶏図」で知られる非公開寺院で、観音菩薩像を本尊に祀る。本殿は西を向く。

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本殿

 

その由緒は享保年間(1716~1736)に黄檗宗 萬福寺12代・杲堂元昶 こうどうげんちょう 禅師が創建した開寶寺がはじまりとされ、後に仙台藩 17 代当主・伊達政宗の伏見屋敷跡に移り「海寶寺」と改められた。

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由緒

 

境内には豊臣秀吉の手水鉢や、「伊達政宗お手植え」と伝えられる樹齢約 400年の木斛の木があり、本殿内には彼の位牌が祀られる。

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位牌(表面)

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家紋 「仙台笹」

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位牌(裏面)

 

さて海寶寺の「三国志」は、その本殿の左須弥壇上、白矢印部に見ることが出来る。

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本殿 内陣

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本尊

 

筆者や題は未明。首には瓔珞を下げ、右手には錫杖が、左手には宝珠を持つ地蔵菩薩を中心に、その左右には「武聖」として中華圏の寺廟などで祀られる岳飛関羽が侍る姿を描いた掛け軸が懸かる。

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掛け軸「地蔵三尊図(仮題)」

 

岳飛は赤系を基調とした戦袍に身を包み、右手には穂先が三叉状の「丈八鐵槍」*1を握り、左手は後ろに回す。

関羽は緑色の幘を被り、戦袍に身を包む。その右手には青龍刀を、左手には数珠を持つ。関羽の持物は青龍刀もしくは『春秋』の一方を手にすることがほとんどであるが、数珠を持つ姿で表されている関羽は、管見の限り初めてであり、特筆すべき点であろう。

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「地蔵三尊図(仮題)」

 

やはり経年のためによるものか、全体的に色がくすんでしまっており当初の状態を想像することが難しい。また表装も含め全体的に折れやヤケ、汚れが目立つことが悔やまれる。

 

※原則、本殿内には立ち入る事が出来ず、また本殿内には照明の類がないため、正面開口部の自然光を頼りに鑑賞することとなる。本殿外からでは肉眼だとほとんど掛け軸が見えないため、単眼鑑や双眼鏡、デジカメなど望遠機能を有する道具をあらかじめ用意しておくことを強くすすめたい

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この桃扉前から頑張って見るしかない。

 

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桃扉前から。デジカメをもってしても光量不足で鮮明に撮れない。

 

 〒612-0856

京都府京都市伏見区桃山町正宗20

 

*1:『宋史』巻三百六十五 岳飛傳に「居數日,復遇敵,飛單騎持丈八鐵槍,刺殺黑風大王,敵衆敗走」とあることから、持物として鐵槍が描かれると思われる。

藤森神社

以下の記事の続き。

 

瀧尾神社を後にし、続いては藤森神社へと向かった。

藤森と書いて「ふじのもり」と読む。これは一発で読めない…

 

瀧尾神社の最寄り駅であるJR奈良線東福寺」駅から南に2駅下った「JR藤森」駅が最寄りで、そこから徒歩2~3分の所に鎮座する。東側には京都教育大学のキャンパスが広がる。

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一の鳥居

 

藤森神社の由緒は、社伝によれば神功皇后摂政三年(203)に、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、藤森に武具などを納め、塚を作り、祭祀を行ったのが発祥とされる。

また菖蒲の節句が発祥とされており、菖蒲が勝負に転じて、勝運や馬の神さまとして競馬関係者や競馬ファンからも篤い信仰を集め、近年では刀剣乱舞鶴丸国永」の縁の地としても広く知られる。

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解説札

 

本殿は南を向き、祭神に素盞嗚命や日本武命、応神天皇神功皇后などを祀る。境内には本殿、拝殿、神楽殿、参集殿、宝物殿、絵馬舎、大小様々な社を有する。藤森神社も例の如く絵馬舎に「三国志」を観ることが出来る。

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拝殿

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本殿

 

絵馬舎は桁行が三間、梁間が二間の切妻屋根桟瓦葺で、境内参道の西側、社務所兼宝物館の正面に建つ。正徳二年(1712)頃に旧拝殿を改造したとも伝わるが、正確なところは不明である。現在は灰皿やいくつものベンチが並べられ、参拝者たちの休憩スペースに活用されている。

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絵馬舎

 

絵馬舎内外には大小様々な奉納絵馬が懸かっているが、近年納められた競馬関係の絵馬を除いては、全体的に剥落や欠損など保存状態はよろしくない古絵馬が混在する。また梁間には金網が張り巡らされており、鑑賞にはなんとか耐えうるものの、撮影には不向きであった。

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絵馬舎内

 

さて例によって今回も題名が不明のため、便宜上「仮題」を付けて以下に見ていきたい。

 

「馬上関羽図」

大きさは未明。縦 1m、横 1.5m はあろうか。緻密な描写で赤兎馬に跨る関羽の姿が描かれるが、八坂神社の「馬上関羽図」と同様に著しく退色しており、何とか関羽と認識することができるような状態である。おそらく一般の方からすれば、何が描かれているか検討すらつかないであろう。

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「馬上関羽図」

 

関羽は袖口や裾が黄色(当初は金色か)の袍に身を包んでいるが退色のため全体的に白い。右手に提げる青龍刀は消えてしまっているが、刃を呑む龍が描かれていたと何となく判別は分かる程度である。

一方赤兎馬は緑色で着色された馬具以外を残し、ほとんど消失する。近い将来、この関羽までも消失してしまうであろう。

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関羽赤兎馬

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青龍偃月刀

 

絵馬の右下部には署名の痕跡が見えるが「~人中」の 2 文字のみ確認することが出来たが、奉納年などのその他の情報は視認することが出来なかった。

京都市文化観光局保護課の調査に拠れば、墨書は「寺木■楽圖」「願主 当社御造営世話人方」「安永五年丙申(1776)八月」と記録が残る。

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墨書

 

先の瀧尾神社と同様に、あまりよろしくない状態のため、伏見稲荷や宇治方面へ足を伸ばされる際には、こちらも是非立ち寄っていただきたい。

 

 〒612-0864

京都府京都市伏見区深草鳥居崎町609

瀧尾神社

久々の更新です!

 

今回は以下の記事の続き。 

京都の寺社に現在も伝わる三国志の文物を巡る「京都三国志ツアー」。開催2日目の最初は三十三間堂東福寺の中間に鎮座する瀧尾神社へと向かった。

 

瀧尾神社はJR東福寺駅より北に徒歩の3分ほどの所に位置する。創建年や由緒は不明。天正十四年(1586)十月、豊臣秀吉方広寺大仏殿建立に伴い、当地に移ってきたと伝えられる。祭神に大国主命・弁財天・毘沙門天を祀る。

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一の鳥居

 

江戸時代後期になると、呉服商人の下村彦右衛門が行商の行き帰りに瀧尾神社に詣で、商売繁盛を祈願したと言われている。この商人こそが、現在の大丸百貨店の創業者その人であった。祈願の甲斐あってか商売繁盛した下村彦右衛門は、天保十年(1839)より境内の整備を行った。本殿や拝殿、絵馬舎、手水舎など一連の社殿が現在も境内にまとまって現存し、江戸時代後期の中規模神社の形態を知るうえで貴重な建築物として京都市指定有形文化財に指定される。

 

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解説札

 

本殿は「北山貴船奥院御社」旧殿を移建、一部改築したもので、その前に幣殿、拝所、東西廊が並ぶ。各社殿に施された豊富な彫刻装飾は、京都市内はもちろん関西でも非常に珍しい。

瀧尾神社の「三国志」は、境内の南西隅にたたずむ絵馬舎で観ることが出来る。

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拝殿

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本殿

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 絵馬舎

 

例によって瀧尾神社の「三国志」も題名が今日には伝わっていないため、今回も便宜上「仮題」を付けて以下に見ていきたい。

 

関羽周倉図」

大きさは縦およそ1.8m、横およそ1.3m。大丸に関する数々の絵馬が懸かる中、関羽周倉が描かれたこの絵馬が懸かる。

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関羽周倉図」

 

関羽は緑の幘を被り、金の鎧の上から雲の模様が施される白い袍に包む。右手には巻物状の『春秋』を、左手は左腿の上に置き、赤い椅子に腰掛ける。

その左側に侍る周倉は、やはり肌は浅黒い色で表され笠形盔を被る。袍は青が基調となっており、両手で青龍刀を抱く。

 

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関羽周倉

 

全体的に退色や板材が劣化してたわんでいるものの、大きな欠損はないようである。絵馬の右上部には「東居」と落款「梅川之印」が残る。この署名より梅川東居 (1828~1869)の筆と分かる。

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下から見ると板材がかなりたわんでいる…

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梅川東居の署名と落款

 

額の上辺には右書きで「奉納」、右辺には「嘉永二年己酉(1849)正月吉日 松榮講」、左辺には「油小路通山田町  石川屋儀兵衛」と奉納年および奉納者名が記される。

 

絵馬舎内に懸かる絵馬はいずれも剥落と退色が著しいものばかりであり、何とか鑑賞に耐えうる状態というのがまだ救いであろうか。今しか拝観することの出来ない1枚なので、京都へ観光などで足を運ばれた際は、是非とも瀧尾神社へ詣でてはいかがだろうか?

 

〒605-0981

京都府京都市東山区本町11丁目718