新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。謹んでみなさまに新年をお祝い申し上げます!

 

今年の干支は子年ですが、三国志でネズミと言えば誰を思い浮かべますか?

ネズミの齧り痕の話で有名な曹沖でしょうか?それとも「鼠輩」と罵られた劉備関羽孫権たち英雄でしょうか?私は「おじぎネズミ」です。(知っている人はかなりコアな三国志ファンだと思います!!)

 

2020年は曹魏建国1800周年の節目の年。昨年は様々な三国志な活動を行ってまいりましたが、本年は昨年よりも三国志を盛り上げれるような1年にしたいです。
みなさま、本年もよろしくお願いいたします!

 

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九州三国志忘年会2019(2019年12月28日)

北九州市黒崎の居酒屋「兀突骨」さんにて、毎年末に実施している三国志忘年会。2019年を締めるべく今年も開催してきました。
例のごとく今回も三国志な話題を肴に、美味しい肉料理やお酒で酒池肉林となりました。

様々な話題が文字通り書ききれないくらい次から次へと俎上に登ったため、今回はいただいた料理について触れていきたいと思います。

 

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今年リニューアルされた通りの看板。

 

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暖簾の「兀突骨」の文字に期待が高ぶります!

 

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1品目「公孫瓚イナゴの佃煮」

元々の形が分かるので見た目のインパクトが強い。味は蜂と同様にエビ。

 

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2品目「馬のアキレス腱」

普段なかなか流通しない希少な部位だそうです。見た目に反して全く脂感を感じることがなく、また筋っぽさや癖もなく、非常にあっさりとして食べやすい。

 

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3品目「ラム肉のたたき」。

ラム肉の脂とスパイシーなソースが相性抜群。

 

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4品目「ワニ肉の塩焼き(?)」

部位は腕の付け根らしいです。豚バラのような食感に、ササミのようなあっさりとした味。レモンや塩コショウで変わる表情も楽しめます!

 

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5品目「トリ刺しの盛り合わせ」

左よりレバー、砂肝(端)、砂肝、たたき。砂肝の端の部位が兀突骨の店長の清水さんのオススメ!甘めの九州の醤油で。

 

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美味しいだけでなく盛り方も非常に綺麗!!

 

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6品目「焼き牡蠣」

 

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7品目「焼き鴨ロース」

鴨の甘みがたまらない!

 

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 8品目「馬刺しと鳥刺しの盛り合わせ」

左より馬のタン、はらみ、鳥のハツ、鳥のたたき。馬のタンもアキレス腱と同様になかなか出回らない部位だそうです。タン、はらみともに非常にあっさりとしており食べやすく、そして美味しい。

 

みなさんの三国志な話題を肴に、上述した様々な料理に舌鼓をうちつつ、今年も兀突骨さんにて楽しい濃厚なひと時を一時を過ごすことができました。

来年もまた、三国志が好きな方々と兀突骨さんにて酒池肉林を楽しみたいです。

 

改めまして、今回ご一緒したみなさま本当にありがとうございました!また来年もよろしくお願いします。

 

〒806-0021

福岡県北九州市八幡西区黒崎1丁目13−7 栄町ビル103

『晉書』卷十二 天文中に関するメモ(2)

まずは「月變」について。意味は月の変化。この項は他の項目と比べ、掲載されている事象が少ないため、範囲は設けず全て列挙する。

 

月變

魏文帝黃初四年十一月,月暈北斗。占曰:「有大喪,赦天下。」七年五月,帝崩,明帝即位,大赦天下。

孝懷帝永嘉五年三月壬申丙夜,月蝕,既。丁夜又蝕,既。占曰:「月蝕盡,大人憂。」又曰:「其國貴人死。」

 

黃初四年十一月=223年11月(西暦221年12月11日~224年1月8日)

永嘉五年三月壬申丙=311年3月15日(西暦311年4月19日)

 

海西公太和四年閏月乙亥,月暈軫,復有白暈貫月北,暈斗柄三星。占曰:「王者惡之。」六年,桓溫廢帝。

安帝隆安五年三月甲子,月生齒。占曰:「月生齒,天子有賊臣,羣下自相殘。」桓玄篡逆之徵也。

義熙九年十二月辛卯朔,月猶見東方。是謂之仄匿,則侯王其肅。是時劉裕輔政,威刑自己,仄匿之應云。

十一年十一月乙未,月入輿鬼而暈。占曰:「主憂,財寶出。」一曰:「月暈,有赦。」

※太和四年の閏月は一月。

太和四年閏一月乙亥=369年閏1月24日(西暦369年2月16日)

隆安五年三月甲子=401年3月19日(西暦401年4月18日)

義熙九年十二月辛卯=413年12月1日(西暦414年1月7日)

義熙十一年十一月乙未=415年11月16日(西暦416年1月1日)

 

 

続いては「月奄犯五緯」について。

凡月蝕五星,其國皆亡。五星入月,其野有逐相。

概要を意訳すると、月が五星(水星・金星・火星・木星土星)を犯すと、それが見える国は皆滅びる。また五星が月に入ると、その分野の相が追放される。といったところだろうか。

 

こちらも例の如く光熙年間までの記述を以下に記載してみていきたい。

魏明帝太和五年十二月甲辰,月犯填星。

龍二年十月乙丑,月又犯填星。占同上。戊寅,月犯太白。占曰:「人君死,又為兵。」

景初元年七月,公孫文懿叛。

二年正月,遣宣帝討之。

三年正月,天子崩。

四年三月己巳,太白與月俱加景晝見,月犯太白。占同上。

太和五年十二月甲辰=231年12月6日(西暦232年1月16日)

龍二年十月乙丑=234年10月14日(西暦234年11月22日) 

龍二年十月戊寅=234年10月27日(西暦234年12月5日)

景初三年一月に正始へと改元。景初四年は存在せず。

景初四年三月己巳=正始二年三月己巳(?)=241年3月26日(西暦241年4月23日)

 

景初元年十月丁未,月犯熒惑。占曰:「貴人死。」二年四月,司徒韓暨薨。

齊王嘉平元年正月甲午,太白襲月。宣帝奏永寧太后廢曹爽等。

惠帝太安二年十一月庚辰,歲星入月中。占曰:「國有逐相。」十二月壬寅,太白犯月。占曰:「天下有兵。」

三年正月己卯,月犯太白,占同青龍元年。七月,左衞將軍陳眕等率眾奉帝伐成都王,六軍敗績,兵逼乘輿。後二年,帝崩。

景初元年十月丁未=237年10月13日(西暦237年10月19日) 

※正始十年四月に嘉平に改元

嘉平元年正月甲午=正始十年正月甲午=249年1月6日(西暦249年2月5日) 

太安二年十一月庚辰=303年11月10日(西暦303年12月5日) 

太安二年十二月壬寅=303年12月3日(西暦303年12月27日) 

※太安三年正月に永安と改元

永安元年正月は朔日が己亥のため「己卯」は存在せず。乙卯の誤りか。

太安三年正月己卯=永安元年正月乙卯=304年1月17日(西暦304年3月9日) 

 

『晉書』卷十二 天文中に関するメモ

前回に引き続き、今回は天文志 中の「日蝕」の項に見える三国時代に関する事象の記述を見ていきたい。天文志 下と同様に範囲は光熙年間までをとする。

 

魏文帝(曹丕)の時代

魏文帝黃初二年六月戊辰晦,日有蝕之。有司奏免太尉,詔曰:「災異之作,以譴元首,而歸過股肱,豈禹湯罪己之義乎!其令百官各虔厥職。後有天地眚,勿復劾三公。」

三年正月丙寅朔,日有蝕之。十一月庚申晦,又日有蝕之。

五年十一月戊申晦,日有蝕之。

黃初二年六月戊辰=221年6月29日(西暦221年8月5日)

黃初三年正月丙寅=222年1月1日(西暦222年1月30日)

黃初三年十一月庚申=222年11月30日(西暦223年1月19日)

黃初五年十一月戊申=224年11月29日(西暦224年12月27日)

 

明帝(曹叡)の時代

明帝太和初,太史令許芝奏,日應蝕,與太尉於靈臺祈禳。帝曰:「蓋聞人主政有不德,則天懼之以災異,所以譴告,使得自修也。故日月薄蝕,明治道有不當者。朕即位以來,既不能光明先帝聖德,而施化有不合於皇神,故上天有以寤之。宜敕政自修,有以報於神明。天之於人,猶父之於子,未有父欲責其子,而可獻盛饌以求免也。今外欲遣上公與太史令俱禳祠之,於義未聞也。羣公卿士大夫,其各勉修厥職。有可以補朕不逮者,各封上之。」

太和五年十一月戊戌晦,日有蝕之。

六年正月戊辰朔,日有蝕之。見吳曆。

青龍元年閏月庚寅朔,日有蝕之。

太和五年十一月戊戌=231年11月30日(西暦232年1月10日)

太和六年正月戊辰=232年1月1日(西暦232年2月9日)

※青龍元年において閏月は五月。原文は「五」を欠く。

青龍元年閏月庚寅=233年5月1日(西暦233年6月25日)

 

少帝(曹芳)の時代

少帝正始元年七月戊申朔,日有蝕之。

三年四月戊戌朔,日有蝕之。

四年五月丁丑朔,日有蝕之。

五年四月丙辰朔,日有蝕之。

六年四月壬子朔,日有蝕之。十月戊申朔,又日有蝕之。

八年二月庚午朔,日有蝕之。是時曹爽專政,丁謐、鄧颺等轉改法度。會有日蝕之變,詔羣臣問得失。蔣濟上疏曰:「昔大舜佐治,戒在比周。周公輔政,慎於其朋。齊侯問災,晏子對以布惠;魯君問異,臧孫答以緩役。塞變應天,乃實人事。」濟旨譬甚切,而君臣不悟,終至敗亡。

九年正月乙未朔,日有蝕之。

嘉平元年二月己未朔,日有蝕之。

正始元年七月戊申=240年7月1日(西暦240年8月5日)

正始三年四月戊戌=242年4月1日(西暦242年5月17日)

※正始四年五月の朔日は丁丑ではなく「壬戌」

正始四年五月丁丑=243年5月16日(西暦243年6月20日

正始五年四月丙辰=244年4月1日(西暦243年5月24日)

※正始六年四月の朔日は壬子ではなく「辛亥」

正始六年四月壬子=245年4月2日(西暦244年5月15日)

正始六年十月戊申=245年10月1日(西暦244年11月7日)

正始八年二月庚午=247年2月1日(西暦247年3月24日)

正始九年正月乙未=248年1月1日(西暦248年2月12日)

※正始十年四月に嘉平元年に改元

※正始十年二月の朔日は己未ではなく「戊午」

嘉平元年二月己未=正始十年二月己未=249年2月2日(西暦249年3月2日)

 

高貴鄉公(曹髦)の時代

高貴鄉公甘露四年七月戊子朔,日有蝕之。

五年正月乙酉朔,日有蝕之。京房易占曰:「日蝕乙酉,君弱臣強。司馬將兵,反征其王。」五月,有成濟之變。

甘露四年七月戊子=259年7月1日(西暦259年8月6日)

甘露五年正月乙酉=260年1月1日(西暦260年1月30日)

 

元帝(曹奐)の時代

元帝景元二年五月丁未朔,日有蝕之。

三年十一月己亥朔,日有蝕之。

 景元二年五月丁未=261年5月1日(西暦261年6月15日)

 景元三年十一月己亥=262年11月1日(西暦262年11月29日)

 

ここで曹魏が滅亡し、晉へ

 

武帝司馬炎)の時代

武帝泰始二年七月丙午晦,日有蝕之。十月丙午朔,日有蝕之。

七年十月丁丑朔,日有蝕之。

八年十月辛未朔,日有蝕之。

九年四月戊辰朔,日有蝕之。又,七月丁酉朔,日有蝕之。

十年正月乙未三月癸亥,並日有蝕之。

泰始二年七月丙午=266年7月30日(西暦266年9月16日)

泰始二年十月丙午=266年10月1日(西暦266年11月15日)

泰始七年十月丁丑=271年10月1日(西暦271年11月20日

泰始八年十月辛未=272年10月1日(西暦272年11月8日)

泰始九年四月戊辰=273年4月1日(西暦273年5月4日)

泰始九年七月丁酉=273年7月1日(西暦273年8月1日)

泰始十年正月乙未=274年1月2日(西暦274年1月26日)

泰始十年三月癸亥=274年3月1日(西暦274年4月24日)

 

咸寧元年七月甲申晦,日有蝕之。

三年正月丙子朔,日有蝕之。

四年正月庚午朔,日有蝕之。

太康四年三月辛丑朔,日有蝕之。

七年正月甲寅朔,日有蝕之。

八年正月戊申朔,日有蝕之。

九年正月壬申朔,六月庚子朔,並日有蝕之。

永熙元年四月庚申,帝崩。

咸寧元年七月甲申=275年7月30日(西暦275年9月7日)

咸寧三年正月丙子=277年1月1日(西暦277年2月20日

咸寧四年正月庚午=278年1月1日(西暦278年2月9日)

※太康四年三月の朔日は辛丑ではなく「庚子」

太康四年三月辛丑=283年3月2日(西暦283年4月15日)

太康七年正月甲寅=287年1月1日(西暦287年2月11日)

太康八年正月戊申=287年1月1日(西暦287年1月31日)

太康九年正月壬申=288年1月1日(西暦288年2月19日)

太康九年六月庚子=288年6月1日(西暦288年7月16日)

※永熙元年四月は庚寅が朔日のため庚申は存在せず。

永熙元年四月=290年4月

 

惠帝(司馬衷)の時代

惠帝元康九年十一月甲子朔,日有蝕之。十二月,廢皇太子遹為庶人,尋殺之。

永康元年正月己卯四月辛卯朔,並日有蝕之。

永寧元年閏月丙戌朔,日有蝕之。

光熙元年正月戊子朔,七月乙酉朔,並日有蝕之。十一月,惠帝崩。十二月壬午朔,又日有蝕之。

元康九年十一月甲子=299年11月1日(西暦299年12月10日)

永康元年正月己卯=300年1月17日(西暦300年2月23日)

永康元年四月辛卯=300年4月1日(西暦300年5月5日)

※永康二年四月に永寧と改元

※永寧元年(4月~12月)には閏月が存在せず、改元前の永康二年に閏三月が存在する。

永寧元年閏月丙戌=永康二年閏三月丙戌=301年閏3月1日(西暦301年4月25日)

※永興三年六月に光熙に改元

光熙元年正月戊子=永興三年正月戊子=306年1月1日(西暦306年1月31日)

光熙元年七月乙酉=306年7月1日(西暦306年7月27日)

光熙元年十二月壬午=306年12月1日(西暦307年1月20日

 

日蝕に関する記述を拾ってみたが、感覚的な所感であるが、日蝕が発生する頻度が非常に高すぎるように思う。これらの日蝕のうちどれが実際に起こり、どの日蝕が偽りなのかもし可能であれば明らかにしてみたい。

『晉書』卷十三 天文下に関するメモ(3)

前回に続いて、今回は司馬炎の咸寧年間から光熙元年九月(306年9月)までを見ていく。

武帝咸寧四年九月,太白當見不見。占曰:「是謂失舍,不有破軍,必有亡國。」是時羊祜表求伐吳,上許之。

五年十一月,兵出,太白始夕見西方。

太康元年三月,大破吳軍,孫皓面縛請罪,吳國遂亡。

※咸寧四年は278年。咸寧六年(280年)三月に呉を滅ぼし、三国を統一したことにより太康へと改元

 

太康八年三月,熒惑守心。占曰:「王者惡之。」

太熙元年四月乙酉,帝崩。

司馬炎崩御。命日が分かる例の1つです。

※太熙元年四月は朔日が庚寅のため、乙酉は存在せず。武帝・惠紀は「己酉」と作る。

太熙元年四月己酉=290年4月20日(西暦290年5月16日)

 

惠帝元康三年四月,熒惑守太微六十日。占曰:「諸侯三公謀其上,必有斬臣。」一曰:「天子亡國。」

是春太白守畢,至是百餘日。占曰:「有急令之憂。」一曰:「相死。」又為邊境不安。後賈后陷殺太子。

司馬炎崩御し、惠帝 司馬衷の年代となる。

元康三年は西暦293年

 

六年十月乙未,太白晝見。

元康六年十月乙未=296年10月14日(西暦296年11月26日)

 

九年六月,熒惑守心。占曰:「王者惡之。」

八月,熒惑入羽林。占曰:「禁兵大起。」

其後,帝見廢為太上皇,俄而三王起兵討趙王倫,倫悉遣中軍兵相距累月。

占星で司馬衷の廃位と禁軍の反乱を予見。その後に三王(司馬冏・司馬穎・司馬顒)が挙兵する。この頃より西晋の崩壊が進んでいく…

 

永康元年三月,中台星坼,太白晝見。占曰:「台星失常,三公憂。太白晝見,為不臣。」是月,賈后殺太子,趙王倫尋廢殺后,斬司空張華。

其五月,熒惑入南斗。占曰:「宰相死,兵大起。斗,又吳分野。」是時,趙王倫為相,明年,篡位,三王興師誅之。太安二年,石冰破揚州。

其八月,熒惑入箕。占曰:「人主失位,兵起。」明年,趙王倫篡位,改元

二年二月,太白出西方,逆行入東井。占曰:「國失政,大臣為亂。」是時,齊王冏起兵討趙王倫,倫滅,冏擁兵不朝,專權淫奢,明年,誅死。

永康元年は300年。翌永康二年に恵帝が復位し、永寧に改元

 

永寧元年,自正月至于閏月,五星互經天,縱橫無常。星傳曰:「日陽,君道也;星陰,臣道也。日出則星亡,臣不得專也。晝而星見午上者為經天,其占『為不臣,為更王』。」今五星悉經天,天變所未有也。石氏說曰:「辰星晝見,其國不亡則大亂。」是後,台鼎方伯,互執大權,二帝流亡,遂至六夷更王,迭據華夏,亦載籍所未有也。

其四月,歲星晝見。五月,太白晝見。占同前。七月,歲星守虛危。占曰:「木守虛危,有兵憂。虛危,齊分。」一曰:「守虛,饑;守危,徭役煩多,下屈竭。」辰星入太微,占曰「為內亂」,一曰「羣臣相殺」。太白守右掖門,占曰:「為兵,為亂,為賊。」

かなりカオスな状況に…

 

八月戊午,填星犯左執法,又犯上相,占曰「上相憂」。熒惑守昴,占曰「趙魏有災」。辰星守輿鬼,占曰「秦有災」。

九月丁未,月犯左角。占曰:「人主憂。」一曰:「左衞將軍死,天下有兵。」

永寧元年八月戊午=301年8月6日(西暦301年9月24日)

永寧元年九月丁未=301年9月25日(西暦301年11月12日)

 

二年四月癸酉,歲星晝見。占曰:「為臣強。」初,齊王冏定京都,因留輔政,遂專慠無君。是月,成都、河間檄長沙王乂討之。冏、乂交戰,攻焚宮闕,冏兵敗,夷滅。又殺其兄上軍將軍寔以下二十餘人。

太安二年,成都攻長沙,於是公私饑困,百姓力屈。

永寧二年四月癸酉=302年9月24日(西暦302年6月6日)

 

太安二年二月,太白入昴。占曰:「天下擾,兵大起。」

七月,熒惑入東井。占曰:「兵起,國亂。」是秋,太白守太微上將。占曰:「上將以兵亡。」是年冬,成都、河間攻洛陽。

八月,長沙王奉帝出距二王。

三年正月,東海王越執長沙王乂,張方又殺之。三年正月,熒惑入南斗,占同永康。

七月,左衞將軍陳眕率眾奉帝伐成都,六軍敗績,兵偪乘輿。是時,天下盜賊羣起,張昌尤盛。

 太安二年は西暦303年。なぜか「三年正月」が重複する。

 

永興元年七月庚申,太白犯角、亢,經房、心,歷尾、箕。九月,入南斗。占曰:「犯角,天下大戰;犯亢,有大兵,人君憂;入房心,為兵喪;犯尾箕,女主憂。」一曰:「天下大亂。入南斗,有兵喪。」一曰:「將軍為亂。其所犯守,又兗、豫、幽、冀、揚州之分野。」是年七月,有蕩陰之役。九月,王浚殺幽州刺史和演,攻鄴,鄴潰,於是兗豫為天下兵衝。陳敏又亂揚土。劉元海、石勒、李雄等並起微賤,跨有州郡。皇后羊氏數被幽廢。皆其應也。

※永安二年正月に永安と改元。また同年7月には元号建武と改め、さらに同年11月に永安に復元する。そして同年12月に永興と改号…。中平六年の時のように非常にせわしない年である。

永興元年七月庚申=建武元年七月庚申=304年7月25日(西暦304年9月10日)

 

二年四月丙子,太白犯狼星。占曰:「大兵起。」九月,歲星守東井。占曰:「有兵,井又秦分野。」

是年,苟晞破公師藩,張方破范陽王虓,關西諸將攻河間王顒,顒奔走,東海王迎殺之。

 永興二年四月丙子=305年4月15日(西暦305年5月24日)

 

 光熙元年四月,太白失行,自翼入尾、箕。占曰:「太白失行而北,是謂反生。不有破軍,必有屠城。」

五月,汲桑攻鄴,魏郡太守馮嵩出戰,大敗,桑遂害東燕王騰,殺萬餘人,焚燒魏時宮室皆盡。

 ※永興三年六月(306年)に光熙と改元。光熙元年四月のタイミングでは永興三年である。

 

其九月丁未,熒惑守心。占曰:「王者惡之。」

己亥,填星守房、心。占曰:「填守房,多禍喪;守心,國內亂,天下赦。」是時,司馬越專權,終以無禮破滅,內亂之應也。十一月,帝崩,懷帝即位,大赦天下。

※光熙元年9月は朔日が甲寅のため、丁未および己亥は存在せず。後者は「乙亥」の誤りか。

光熙元年九月己亥(乙亥)=306年9月22日(西暦306年11月14日)

 

司馬衷崩御し、この後ますます泥沼化し西晋が滅亡し、五胡十六国へと移行する。

 

まだまだ天文志 下は続くが、この巻はこれで一旦終わりとしたい。順番が前後したが、今度は天文志 中に見える三国時代に関する記述をピックアップしたい。

『攝津名所圖會大成』卷之六「關帝堂」翻刻

四天王寺の東側、大阪市天王寺区勝山の住宅地に大阪 関帝廟こと、黄檗宗白駒山 清寿院(通称:南京寺)が鎮座する。関帝廟ということで、本尊は例にもれず関帝像である。その左右は関平周倉が侍る。

 

清寿院の関帝像は古く、おそらく清寿院が浄土宗から黄檗宗に改宗し、中興開山した明和元年(1764)以降のタイミングで将来し、祀られたものだと思われる。清寿院の歴史を調べる上で縁起は必読である。

 

暁鐘成 著,松川半山・浦川公佐 画『攝津名所圖會大成』卷之六に清寿院の縁起は記録される。今回はそれに記される該当箇所(清寿院に関するもの)を以下に翻刻していきたい。

關帝堂

 右同所の北淸壽院あり當寺開山大成和尚唐土より將來の靈像なりとぞ

 且什寶に聖德太子御自作の十一面観觀世音あり長凡六寸五分許

 

本尊 關聖帝君

 長凡二尺餘唐作一木を以て彫刻する所なり

 例年五月十三日祭祀執行伶倫奉納の音樂あり

 

 頂下有赫大成筆

 

 無忠義心何勞景仰有丈夫氣方可瞻依 大成筆

 

 關帝堂 江元燨筆

 

 香(草冠に熱)爐中思漢鼎

 桃閑樹上想名圓 沈草亭筆

 

以下は清寿院の縁起について。句読点等は適宜補った。また片仮名表記は平仮名に改めた。

 抑 關聖帝君と號し奉るは前將軍漢壽亭侯荊州王關羽のことなり。關は姓、名は羽、字は雲長。始は壽長と號す。河東蒲州解梁又は解良とも書といへる所にて誕生あり。其始め、桃園に義を結びてより身を皇叔に委ね、義心忠情 天を貫き、雄略智謀 地を動かし、呉魏と戰ふては、敵將を殺す事 芥蔕の如く五關を屠り、七軍を溺し襄陽を抜て樊城を圍み、天下に横行して周雄艱險を避ず、其 大節江南の諸郡を収め取り、前將軍に拜せられ世に虎臣と稱す。目に呉魏を見下し、漢室を輔け興して天下を漢の一統と爲の中世なりしに、漢の運數盡極るの時なりしや、遂に呂蒙が爲に欺かれ、孫権が前に到といへども、忠節を守りて薨ず。是時後漢献帝建安二十四年巳亥十月某日にして、本朝十五代神功皇后御宇十九年巳亥に相當れり。已に臨沮に身は亡ぶといへども、神靈は四海に彌綸し、天地と共に盡る事なく、千萬年の後も神靈煌々明々とぢて、日月の如く世界を照臨し、上天子より下萬民の善悪を照察し天下國家を守護し靈應利生日々に炳然が故に、漢土にては諸州諸縣諸官所に神廟を建て恭敬し尊信すされば、明の謝肇淛が五雑爼に曰く、今天下の神廟の多き中に於て、諸萬人の皆歸依し、信仰尊信し諸願を祈りて其靈験の炳然なるは、關聖帝君の神廟に勝りたるはなし。其威靈験感應ありし事は、諸の傳記に載せ、及び諸人の耳目に見聞する所の者あきらかにして的據あり、と記せり。右の五雑爼に限らず、諸子百家の書は勿論、石點頭平妖録等の諸の小説に載て、其神験靈應を尊び稱す。夫此關聖帝君の尊號は明の英宗皇帝の勅封にして、猶又三界伏魔大帝と勅封ありし事は、皇明實記に見ゆ。又明の穆宗皇帝は關帝を何曲協天上帝と勅封し給ひ、宋の眞宗皇帝は關公を義勇武安王に封せらる。宋の徽宗皇帝は關公を崇寧眞君と勅封あり。蜀漢の昭烈皇帝は關公を荊州王に封せらる。 是の如く歴代の帝王より下萬民に至るまで、其神靈を尊仰して、或は天尊と稱し、又は關聖或は關帝、關爺々と尊み稱し、漢土四百餘州の各國諸官府・安南・琉球・女眞・朝鮮・呂宋暹羅等の諸外國までも、盡く神廟を建て祭祀尊信す。今の淸朝の天下萬民ことごとく歸依信仰し、天子も猶更尊敬し給ふが故、毎歳の二月と八月には、吉日を擇びて祭り給ふ故に、呉興の沈亮巧が通德類情に曰く、二月擇日祭関帝廟致齋一日と記す。八月も同じ。又清朝の暦五月十三日を關帝暴と記せしは、蓋此日も關帝の祭日ならん。夫神は祈るに應じ、信ずるに験ありて、私なし故に日本にて信じ祈れば、本朝に降臨し漢土外國にて祈り信ずれば、其所に出現すて天下泰平、五穀成就ならしめ、其信仰尊敬し祭る人には、富貴萬福・長命延壽・子孫繁榮・家業繁盛・諸々の災難・重病・横死を除滅さしめ種々の靈験利生あること疑ひ、更に有べからずと云々。

『晉書』卷十三 天文下に関するメモ(2)

昨日に続き今回は正始元年から景元五年まで、曹芳から曹奐が統治した時代までの事象について見ていく。

 

少帝正始元年四月戊午,月犯昴東頭第一星。十月庚寅,月又犯昴北斗四星。占曰:「月犯昴,胡不安。」

二年六月,鮮卑阿妙兒等寇西方,敦煌太守王延破之,斬二萬餘級。

三年,又斬鮮卑大帥及千餘級。

※正始元年四月は庚辰が朔日のため戊午は存在せず。

※正始元年四月戊午=240年4月??日(西暦240年5月頃)

 

二年九月癸酉,月犯輿鬼西北星。

正始二年九月癸酉=241年9月3日(西暦241年10月24日)

 

三年二月丁未,又犯西南星。占曰:「有錢令。」一曰:「大臣憂。」

三年三月,太尉滿寵薨。

四年正月,帝加元服,賜羣臣錢各有差。

四年十月、十一月,月再犯井鉞。是月,宣帝討諸葛恪,恪棄城走。

五年二月,曹爽征蜀。

正始三年二月丁未=242年2月9日(西暦242年3月27日)

 

五年十一月癸巳,填星犯亢距星。占曰:「諸侯有失國者。」

正始五年十一月癸巳=244年11月11日(西暦244年12月27日)

 

七年七月丁丑,月犯左角。占曰:「天下有兵,左將軍死。」

七月乙亥,熒惑犯畢距星。占曰:「有邊兵。」一曰:「刑罰用。」

※正始七年七月は甲戌が朔日のため丁丑は存在せず。正始七年六月丁丑の誤りか。

正始七年六月丁丑=246年6月24日(西暦246年7月24日)

正始七年七月乙亥=246年7月2日(西暦246年8月1日)

 

九年正月辛亥,月犯亢南星。占曰:「兵起。」一曰:「將軍死。」

七月癸丑,填星犯楗閉。占曰:「王者不宜出宮下殿。」嘉平元年,天子謁陵,宣帝奏誅曹爽等。天子野宿,於是失勢。

正始九年正月辛亥=248年1月17日(西暦248年2月28日)

正始九年七月癸丑=248年7月22日(西暦248年8月28日)

 

嘉平元年六月壬戌,太白犯東井距星。占曰:「國失政,大臣為亂。」

四月辛巳,太白犯輿鬼。占曰:「大臣誅。」一曰:「兵起。」

嘉平元年六月壬戌=249年6月6日(西暦249年7月3日)

※「嘉平元年六月壬戌」の出来事と時系列が入違っているため、「四月辛巳~」の記述は嘉平元年ではなく嘉平二年の事象か。

嘉平元年四月辛巳=249年4月24日(西暦249年5月23日)

嘉平二年四月辛巳=250年4月1日(西暦250年5月18日)

 

二年三月己未,太白又犯井距星。

三年七月,王淩與楚王彪有謀,皆伏誅,人主遂卑。

嘉平二年三月己未=250年3月8日(西暦250年4月26日)

 

吳孫權赤烏十三年夏五月,日北至,熒惑逆行,入南斗。

秋七月,犯魁第三星而東。漢晉春秋云「逆行」。案占:「熒惑入南斗,三月吳王死。」一曰:「熒惑逆行,其地有死君。」

太元二年,權薨,是其應也,故國志書於吳。是時,王淩謀立楚王彪,謂「斗中有星,當有暴貴者」,以問知星人浩詳。詳疑有故,欲悅其意,不言吳有死喪,而言「淮南楚分,吳楚同占,當有王者興」,故淩計遂定。

※ここで呉の事象(赤烏十三年の星占とその結果)が挿入される。

 

嘉平二年十二月丙申,月犯輿鬼。

 

嘉平二年十二月丙申=250年12月19日(西暦251年1月28日)

 

三年四月戊寅,月犯東井。

五月甲寅,月犯亢距星。占曰:「將軍死。」一曰:「為兵。」是月,王淩、楚王彪等誅。

七月,皇后甄氏崩。

四年三月,吳將為寇,鎮東將軍諸葛誕破走之。

嘉平三年四月戊寅=251年4月3日(西暦251年5月10日)

嘉平三年五月甲寅=251年5月10日(西暦251年6月15日)

 

其年七月己巳,月犯輿鬼。

九月乙巳,又犯之。

十月癸未,熒惑犯亢南星。占曰:「臣有亂。」

嘉平三年七月己巳=251年7月26日(西暦251年8月29日)

嘉平三年九月乙巳=251年9月3日(西暦251年10月4日)

嘉平三年十月癸未=251年10月11日(西暦251年11月11日)

 

四年十一月丁未,月又犯鬼積尸。

※嘉平四年十一月は丙寅が朔日のため丁未は存在せず。

 

五年六月戊午,太白犯角。占曰:「羣臣有謀,不成。」庚辰,月犯箕星。占曰:「將軍死。」

七月,月犯井鉞。丙午,月又犯鬼西北星。占曰:「國有憂。」

嘉平五年六月戊午=253年6月26日(西暦253年8月7日)

※嘉平五年六月は癸巳が朔日のため庚辰は存在せず。

※嘉平五年七月は癸亥が朔日のため丙午は存在せず。

 

十一月癸酉,月犯東井距星。占曰:「將軍死。」

正元元年正月,鎮東將軍毋丘儉、揚州刺史文欽反,兵俱敗,誅死。

二月,李豐及弟翼、后父張緝等謀亂,事泄,悉誅,皇后張氏廢。

九月,帝廢為齊王。蜀將姜維攻隴西,車騎將軍郭淮討破之。

嘉平五年十一月癸酉=253年11月13日(西暦253年12月20日

 

高貴鄉公正元二年二月戊午,熒惑犯東井北轅西頭第一星。

※嘉平六年十月に正元元年に改元

正元二年二月戊午=嘉平六年二月戊午=254年2月30日(西暦254年4月4日)

 

甘露元年七月乙卯,熒惑犯東井鉞星。壬戌,月又犯鉞星。

八月辛亥,月犯箕。

 ※甘露元年七月は乙亥が朔日のため乙卯および壬戌は存在せず。

甘露元年八月辛亥=256年8月7日(西暦256年9月13日)

 

吳廢孫亮太平元年九月壬辰,太白犯南斗,吳志所書也。占曰:「太白犯斗,國有兵,大臣有反者。」

其明年,諸葛誕反。

又明年,孫綝廢亮。吳魏並有兵事也。

※ここで再度孫呉の記述が挿入される。

※五鳳三年十月に太平元年に改元

太平元年九月壬辰=五鳳三年九月壬辰=256年9月19日(西暦256年10月24日)

 

甘露元年九月丁巳,月犯東井。

※本文が魏の「甘露元年」の記述に戻る。呉の年号「甘露」ではないので注意。

※甘露元年九月は甲戌が朔日のため丁巳は存在せず。

 

二年六月己酉,月犯心中央大星。

八月壬子,歲星犯井鉞。

九月庚寅,歲星逆行,乘井鉞。

十月丙寅,太白犯亢距星。占曰:「逆臣為亂,人君憂。」景元元年五月,有成濟之變及諸葛誕誅,皆其應也。

甘露二年六月己酉=257年6月10日(西暦257年7月8日)

甘露二年八月壬子=257年8月14日(西暦257年9月9日)

甘露二年九月庚寅=257年9月22日(西暦257年10月17日)

甘露二年十月丙寅=257年10月29日(西暦257年11月22日)

 

二年三月庚子,太白犯東井。占曰:「國失政,大臣為亂。」是夜,歲星又犯東井。占曰:「兵起。」

至景元元年,高貴鄉公敗。

※時系列的に甘露二年三月ではなく、甘露三年三月の誤りか。

甘露二年三月庚子=257年3月29日(西暦257年4月30日)

甘露三年三月庚子=258年3月6日(西暦258年4月25日)

 

三年八月壬辰,歲星犯輿鬼鑕星。占曰:「斧鑕用,大臣誅。」

甘露三年八月壬辰=258年8月30日(西暦258年10月14日)

 

四年四月甲申,歲星又犯輿鬼東南星。占曰:「鬼東南星主兵,木入鬼,大臣誅。」

景元元年,殺尚書王經。

甘露四年四月甲申=259年4月26日(西暦259年6月3日)

 

元帝景元元年二月,月犯建星。案占:「月五星犯建星,大臣相譖。」是後鍾會、鄧艾破蜀,會譖艾。

二年四月,熒惑入太微,犯右執法。占曰:「人主有大憂。」一云:「大臣憂。」

四年十月,歲星守房。占曰:「將相憂。」一云:「有大赦。」明年,鄧艾、鍾會皆夷滅,赦蜀土。

五年,帝遜位。

 ※遂に蜀漢鍾会と鄧艾によって陥落。また元帝 曹奐が司馬炎に帝位を譲ったことにより魏も滅亡する。晋による三国統一もまもなくといったところである。

 

まだまだ天文志は続くが、次回は光熙元年九月(306年9月)までを見て一旦終わりとしたい。

『晉書』卷十三 天文下に関するメモ

恥ずかしながら中華書局の『晉書』を持っていないため、『晉書』を読むにあたり、中央研究院の「漢籍電子文獻資料庫」と、維基文庫の晋書、そして中國哲學書電子化計劃が公開する影印本(ハーバード燕京図書館蔵)を参照した。

また天文に関する知識や用語等は専門外のため、今回は原文を引用し、記述される日干支を旧暦と新暦に変換し記載する。

まずは曹丕曹叡までの期間の事象を見ていきたい。

 

魏文帝黃初四年三月癸卯,月犯心大星。占曰:「心為天王位,王者惡之。」

六月甲申,太白晝見。案劉向五紀論曰:「太白少陰,弱,不得專行,故以己未為界,不得經天而行。經天則晝見,其占為兵喪,為不臣,為更王;強國弱,小國強。」是時孫權受魏爵號,而稱兵距守。

十二月丙子,月犯心大星。占同上。

黃初四年三月癸卯=223年3月15日(西暦223年5月2日)

黃初四年六月甲申=223年6月27日(西暦223年8月11日)

黃初四年十二月丙子=223年12月22日(西暦224年1月30日)

 

五年十月乙卯,太白晝見。占同上。又歲星入太微逆行,積百四十九日乃出。占曰:「五星入太微,從右入三十日以上,人主有大憂。」一曰:「有赦至。」

七年五月,帝崩,明帝即位,大赦天下。

黃初五年十月乙卯=224年10月6日(西暦224年11月4日)

 

六年五月壬戌,熒惑入太微,至壬申,與歲星相及,俱犯右執法,至癸酉乃出。占曰:「從右入三十日以上,人主有大憂。」又曰:「月、五星犯左右執法,大臣有憂。」一曰:「執法者誅,金、火尤甚。」

十一月,皇子東武陽王鑒薨。

黃初六年五月壬戌=225年5月16日(西暦225年7月9日)

黃初六年五月壬申=224年5月26日(西暦224年7月19日)

 

七年正月,驃騎將軍曹洪免為庶人。

四月,征南大將軍夏侯尚薨。

五月,帝崩。蜀記稱明帝問黃權曰:「天下鼎立,何地為正?」對曰:「當驗天文。往者熒惑守心而文帝崩,吳、蜀無事,此其徵也。」案三國史並無熒惑守心之文,疑是入太微。

八月,吳遂圍江夏,寇襄陽,大將軍宣帝救襄陽,斬吳將張霸等,兵喪更王之應也。

※この箇所は日付の記述はなく、表記は年月のみ。

 

明帝太和五年五月,熒惑犯房。占曰:「房四星,股肱臣將相位也,月、五星犯守之,將相有憂。」

其七月,車騎將軍張郃諸葛亮,為亮所害。

十二月,太尉華歆薨。

十一月乙酉,月犯軒轅大星。占曰:「女主憂。」

太和五年十一月乙酉=231年11月17日(西暦231年12月28日)

※この箇所では熒惑が房を犯した星占の結果が、先に記されているため、11月の事象が12月よりも後に記される。少しややこしい。

 

六年三月乙亥,月又犯軒轅大星。

十一月丙寅,太白晝見南斗,遂歷八十餘日,恒見。占曰:「吳有兵。」

明年,孫權遣張彌等將兵萬人,錫授公孫文懿為燕王,文懿斬彌等,虜其眾。

青龍三年正月,太后郭氏崩。

太和六年三月乙亥=233年3月9日(西暦233年4月16日)

太和六年十一月丙寅=232年11月4日(西暦232年12月3日)

※太和五年の星占の「女主憂」の結果が、記述の直後ではなく、この箇所で触れられる。

 

龍二年三月辛卯,月犯輿鬼。輿鬼主斬殺。占曰:「人多病,國有憂。」又曰:「大臣憂。」是年夏及冬,大疫。四年五月,司徒董昭薨。

五月丁亥,太白晝見,積三十餘日。以晷度推之,非秦魏,則楚也。是時,諸葛亮據渭南,宣帝與相持;孫權寇合肥,又遣陸議、孫韶等入淮沔,天子親東征。蜀本秦地,則為秦魏及楚兵悉起矣。

七月己巳,月犯楗閉。占曰:「有火災。」三年七月,崇華殿災。

龍二年三月辛卯=234年3月7日(西暦234年4月22日)

龍二年五月丁亥=234年5月3日(西暦234年6月17日)

※いよいよ諸葛亮最後の北伐「五丈原の戦い」が始まります。

※青龍二七月は甲申が朔日のため己巳は存在せず。乙巳の誤りか。

※青龍二年七月乙巳=234年7月22日(西暦234年9月3日)

 

三年六月丁未,填星犯井鉞。戊戌,太白又犯之。占曰:「凡月、五星犯井鉞,悉為兵災。」一曰:「斧鉞用,大臣誅。」

七月己丑,填星犯東井距星。占曰:「填星入井,大人憂。」行近距,為行陰。其占曰:「大水,五穀不成。」景初元年夏,大水,傷五穀。

其年十月壬申,太白晝見,在尾,歷二百餘日,恒晝見。占曰:「尾為燕,有兵。」

十二月戊辰,月犯鉤鈐。占曰:「王者憂。」

※青龍三年六月は戌申が朔日のため丁未、戊戌は存在せず。

青龍三年七月己丑=235年7月12日(西暦235年8月13日)

青龍三年十月壬申=235年10月26日(西暦235年11月24日)

青龍三年十二月戊辰=235年12月23日(西暦236年1月19日)

 

四年閏正月己巳,填星犯井鉞。

三月癸卯,填星犯東井。己巳,太白與月加景晝見。

五月壬寅,太白犯畢左股第一星。占曰:「畢為邊兵,又主刑罰。」

九月,涼州塞外胡阿畢師使侵犯諸國,西域校尉張就討之,斬首捕虜萬計。

其年七月甲寅,太白犯軒轅大星。占曰:「女主憂。」

景初元年,皇后毛氏崩。

青龍四年閏正月己巳=236年閏1月25日(西暦236年3月20日

※青龍四年三月は乙亥が朔日のため癸卯は存在せず。

青龍四年三月己巳=236年3月26日(西暦236年5月19日)

※青龍四年五月は乙亥が朔日のため壬寅は存在せず。

青龍四年七月甲寅=236年7月13日(西暦236年9月1日)

 

景初元年二月乙酉,月犯房第二星。占曰:「將軍有憂。」

其七月,司徒陳矯薨。

二年四月,司徒韓暨薨。

其七月辛卯,太白晝見,積二百八十餘日。時公孫文懿自立為燕王,署置百官,發兵距守,宣帝討滅之。

※青龍五年三月に景初元年四月に改元

景初元年二月乙酉(青龍五年二月乙酉)=237年2月17日(西暦237年3月31日)

景初元年七月辛卯=237年7月26日(西暦237年8月4日)

 

二年二月己丑,月犯心距星,又犯中央大星。

五月乙亥,月又犯心距星及中央大星。案占曰:「王者惡之。犯前星,太子有憂。」

三年正月,帝崩。太子立,卒見廢。

其年十月甲午,月犯箕。占曰:「將軍死。」

正始元年四月,車騎將軍黃權薨。

其閏十一月癸丑,月犯心中央大星。

※景初二年二月は壬戌が朔日のため己丑は存在せず。乙丑の誤りか。

景初二年二月乙丑=238年2月3日(西暦238年3月6日)

景初二年五月乙亥=238年4月15日(西暦238年5月15日)

景初二年十月甲午=238年10月6日(西暦238年10月1日)

景初二年閏十一月癸丑=238年11月26日(西暦238年12月19日)

 

次回は少帝 曹芳の正始年間より引き続き見ていきたい。

祭りの中の「三国志」

日本では古代から感謝や祈り、慰霊などのために神仏や祖先を祀る行為として祭りが執り行なわれてきた。今日では地域ごとに多様化した様式の「祭り」が伝わり、今日もまたどこかで行われている。

 

今回はそんな「祭り」の中に息づく「三国志」に注目したい。日本では『三国志演義』(李卓吾本)を翻訳した『通俗三国志』が江戸時代に刊行され、後にそれに挿絵を付けた『絵本通俗三国志』が登場した。それを機に日本では爆発的な人気を博し、広く読まれることとなった。

既に多くの先生方が論文や書籍などで述べられているように、歌舞伎や浄瑠璃、パロディ本、川柳などの最先端の流行にも「三国志」の要素が取り込まれ受容された。

もちろん「祭り」も例外ではない。例えば山車に乗る人形が三国志の人物であったり、山車に施される彫刻が三国志演義を題材にされていたりする。三国志がどのように受容されていたのか、また三国志の人物を当時の人はどのように捉えていたか…垣間見ることができよう。

 

前置きが少し長くなってしまったが、今回は現代に伝わる当時の人々の三国志「愛」がどのような形で残っているのか、以下に列挙していきたい。なお郷土資料にアクセスできないため、リストアップする程度にとどめる。

 

凡例

祭りの名称(開催日程)

三国志の見える山車など」(所有町村名)

 人形作成年:元号(西暦)

 人形作者:名前

※備考

 

とちぎ秋まつり(隔年11月中旬)

劉備玄徳」人形山車(万町一丁目)

 人形作成年:明治二十六年(1893)

 人形作者:三代目原舟月

 

関羽雲長」人形山車(万町二丁目)

 人形作成年:明治二十六年(1893)

 人形作者:三代目原舟月

 

張飛翼徳」人形山車(万町三丁目)

 人形作成年:明治二十六年(1893)

 人形作者:三代目原舟月

 

寄居秋まつり(例年11月第1日曜と前日の土曜)

関羽」人形山車(栄町)

 人形作成年:明治二十六年(1893)

 人形作者:初代原舟月

関羽人形は経年劣化のため、祭りの際は山車には乗せず寄居会館ホールにて展示される。

 

桶川祇園祭(例年7月15日~16日)

関羽人形」鉾山車(榮町)

 人形制作年:明治二十五年(1892)六月

 人形作者:松本喜三郎

※かつては山車に人形を載せていたが、大正十二年頃より電線などの接触を避けるため現在は山車から降ろされ祭期間中は会館にて展示される。山車に乗せていたこともあり、少しうつむき気味に作られる。

 

佐倉の秋祭り(10月三連休)

関羽」人形山車仲町

 人形制作年:不明

 人形作者:三代目原舟月

備考:明治十二年(1879)に人形を購入。

 

佐原の大祭秋祭り(例年10月第2土曜を中日とする金~日曜)

仁徳天皇」人形山車(南横宿)

 人形作成年:大正十四年(1925)

 人形作者:三代目安本亀八

※山車は明治八年(1875)創建。明治九年~十九年(1876~1886)の10年もの歳月をかけて彫り上げた「桃園結義」をはじめとする三国志の名場面の彫刻を有する。

 

ところざわまつり(10月第2日曜)

関羽周倉」人形山車御幸町

 人形制作年:江戸後期(文化~天保年間頃か)

 人形作者:二代目原 舟月

備考:かつて周倉人形は張飛と思われていた。5年に1度披露される。

 

塩尻祭り(毎年7月第2日曜と前日の土曜)

関羽」人形舞台(上町)

 人形制作年:天保三年(1832)

 人形作者:指物屋「久次郎」

※初代の舞台(山車)は江戸時代後期頃の作。老朽化などにより彫刻や飾り金具を残し、平成七年(1995)6月に復元。関羽人形は当初のもので2017年より1年の歳月をかけて修復修理。

 

城端曳山祭(例年5月4日~5日)

関羽周倉」人形曳山(大工町)

 人形制作年:寛政八年(1796)

 人形作者:荒木和助

備考:荒木和助が「主従二体様式」で作成。

 

新湊曳山まつり(例年10月1日~2日)

諸葛孔明」人形曳山(古新町)

 人形制作年:文政五年(1822)

 人形作者:辻丹甫(1722~1805)

 

関羽張飛」人形曳山(法土寺町)

 人形制作年:文政五年(1822)

 人形作者:辻丹甫(1722-1805)

※明治末期に劉備人形を欠き、現在の二体のみとなった。

 

越中八尾曳山祭(例年5月3日)

在原業平と供女」人形曳山(上新町)

 人形制作年:未明

 人形作者:未明

※富山2代目藩主前田正甫より雛人形を拝受。それを御神体として使用する。曳山の彫刻(大彫)に「関羽書を読むの図」(彫師:田村与八郎、彩色:永信斉藤原良得)、明治七年(1874)作を有する。

 

石動曳山祭(石動愛宕神社の春季祭礼)(例年4月29日)

関羽」人形曳山(北上野町)

 人形制作年:寛政十年(1798)

 人形作者:未明

 

氷見祇園祭(例年7月13日~14日)

「布袋和尚」人形曳山(御座町)

 人形制作年:未明

 人形作者:未明

※「布袋和尚」人形曳山の後屏(鏡板)に劉備関羽張飛像の彫刻を施す。

 

尾張西枇杷島まつり(例年6月第1土曜と翌日曜)

紅塵車(西六軒町)

 人形制作年:文政十年(1827)

 人形作者:三代目玉屋庄兵衛

※人形のからくりは「華陀の舞」と言います。大将の関羽が戦で毒矢を受け華陀と言う医者が治療をしている時、どこからともなく鳥が飛んできて舞いを舞い、痛みを和らげたという「三国志演義」の故事によるものです。

 山車の名の「紅塵」とは、「太陽に反射して塵があかね色に輝く様子、栄えた町に起こるチリ・ほこり」の意味で、町内がますます繁栄するようにと名付けられた、とのこと。関羽の顔が由来ではない。

 

尾張津島秋まつり(例年10月第1日曜と前日の土曜)

関羽」人形山車(上町)

 人形制作年:未明

 人形作者:未明

※大将座には中国三国時代の蜀の武将関羽。中山のからくりは小唐子が大唐子に肩車されて横棒にぶら下がり、お囃子に合わせて前回転したり後回転したりしてまた元に戻る動作をする。

 

半田春の山車祭り(乙川地区)(例年3月第3日曜と前日の土曜)

浅井山「宮本車」

安政六年(1859)建造、昭和二十五年(1950)に改造。壇箱には立川和四郎冨重 作「竹林の七賢人」の彫刻が、蹴込彫刻には初代彫常(新美常次郎)による「桃園結義」などの三国志の名場面計10種もの彫刻を有する。

 

南山「八幡車」

天保年間(1830~1844)建造。壇箱に初代彫常(新美常次郎)作「桃園の三傑」の彫常を有する。なお劉備は未確認。

 

半田春の山車祭り(亀崎潮干祭)(例年5月3日~4日)

田中組「神楽車」

※元禄~享保年間(1688~1736)創建。現在の山車は天保八年(1837)に再建。前山蟇股に「桃園結義」の彫刻が、脇障子には「阿斗を抱く趙雲張郃」の彫刻が施される。いずれも立川常蔵昌敬 作。

 

半田春の山車祭り(協和地区)(毎年4月第2日曜と前日の土曜)

砂子組「白山車」

※大正三年(1914)建造。脇障子には初代彫常(新美常次郎)の「関羽張飛」大正二年(1913)作を有する。また壇箱の彫刻は初代彫常(新美常次郎)の「三国志」されているが、樊噲がいることから題材は「鴻門之会」

 

大津祭(第2月曜の前前日土曜と翌日曜)

孔明祈水山(中堀町)

 人形制作年:享保五年(1748)頃か?

 人形作者:未明

※元禄七年(1694)創建、万延元年(1860年)に福聚山から現在の「孔明祈水山」へと名称を変更する。

 

日野祭(馬見岡綿向神社の春の例祭)(例年5月2日~3日)

蘭香閣 曳山(河原田町)

※創建宝暦年間(1751~1763)以前。元治元年(1864)再建。大工は清雲仁兵衛。平成六年(1994)に復元新調された見送り幕「三國志」は、劉備から届いた書簡を関羽張飛が拝読中の図が刺繍される。

 

亀岡祭(山鉾行事:例年10月23日~25日)

翁山鉾三宅町

※文政十二年(1829)再興。西陣大型綴錦の前懸幕には「桃園結義図」を描く。

 

射和祇園祭(例年7月中旬頃の土・日)

三栗組「関羽山」(中之町)

 人形制作年:安永九年(1780)~天明元年(1781)頃

 人形作者:未明

※中の人形は関羽張飛、とされているが、「張飛」人形が青龍刀を手にすることから、おそらく関羽周倉人形のように思われる。

 

天神祭り(毎年7月24日が宵宮、25日が本宮)

御迎え人形「関羽

 人形制作年:元禄頃

 人形作者:未明

※人形の題材は歌舞伎十八番『閏月仁景清』より。かつて船に高く人形を掲げて神霊を迎えた御迎え人形。当初は44体以上存在したが現在は15体を残すのみとなった。天神祭りの開催に伴い、7月1日~25日まで一部の人形を会場周辺の施設に特別展示される。

 

田辺祭(闘鶏神社例大祭)(例年7月24日~25日)

関羽・神宮皇后」笠鉾(片町)

 人形制作年:未明

 人形作者:未明

関羽人形は24日の宵宮に、神功皇后は25日の本祭に飾られる。

 

以上、23ヵ所の「祭り」をリストアップしてみた。時間を許す限り調べると他にもまだまだ見つかりそうである。

さて上述した「祭り」の会場と、その「祭り」で観ることが出来る「三国志」の画像を以下の地図に落とし込んでみた。もし興味がある方は参考にしていただければ幸いである。

それにしても改めて日本人は三国志が好き、ということを認識した。

drive.google.com

第13回三国志祭

2019年11月3日(日)に神戸市新長田地区で開催された「第13回三国志祭」および「六間道三国志祭」に参加してきました。今年も会場内に設けられた特設ステージではトークショー三国志を題材として演劇などが行われ、また三国志グッズや切り絵などをはじめとする物販のブースも複数出店され、今年は例年以上に国内外の英雄たちが集い会場が非常に賑わってました。写真は…すっかり夢中になってしまい撮り忘れてしまいました。

いつもは携帯やカメラを片手に会場の様子やステージイベント等を取るのですが、今回は数枚程度しか撮っておらず、自分でも驚くほど撮影をしていなかったです。

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今年も過密なスケジュールが設定されていましたが、今回は箱崎みどりさんのトークショー、竹内先生の三国志講座「孟獲をめぐって」、英傑ナイトに参加できたら…程度しか考えておらず、状況に応じて行動しようと予定していました。

会場に入ると関東の三国志仲間に、約5年ぶりにお会いする東海の三国志仲間と遭遇。積もる話をしながら三国志祭を一緒に満喫しました。

 

今回はブースを巡ったり、ステージを楽しむ時間的余裕はたくさんあったものの、三国志トークに夢中になりすぎてほとんど見れなかった事実に終わってから今気づき…せめてブースだけでも一通り回って挨拶をすればよかったと猛省。

ですが、箱崎さんのトークショー→横山『三国志』ビンゴ大会→三国志像巡り→中国武術演武会→三国志講座→小休憩→英傑ナイト→2次会、と当初の目的は全てこなせたので無問題でしょう。特に三国志仲間と濃厚すぎる楽しい時間を共に過ごせたのはとても代えがたいです。

 

毎年J:COM三国志祭を取材されており、今年はたまたま取材に応じたのですが、まさかがっつりと放送されるとは思いもしませんでした。ある意味いい思い出になりました。

 

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三国志仲間と一緒に。

 

今年の三国志祭にご参加されたみなさまお疲れ様でした。そしてありがとうございました。

来年も参加したいです!