清水寺

「清水の舞台」で名高い清水寺は、先の八坂神社と同じく東山を代表とする名所のひとつである。寺伝に拠れば、由緒は霊帝の子孫と伝わる坂上田村麻呂によって宝亀九年(778)に清水山(音羽山)の中腹を拓き創建したと伝わる。かつては法相宗であったが1965年に離脱し、北法相宗として独立する。山号音羽山。十一面観音菩薩像を本尊に祀る。

 

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仁王門・三重塔

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三重塔・経堂

 

境内には仁王門、西門、鐘楼、三重塔、経堂、本殿、奥の院などが置かれ、その多くが重要文化財に指定される。清水寺の「三国志」は本殿(礼堂)にて観ることが出来る。関羽を描いた奉納絵馬である。

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本殿

 

清水寺の絵馬群は本殿内に掛けられており、先の八坂神社の記事でも触れたように、八坂神社の絵馬群とともに広く知られていたようである。やはり合川珉和,北川春成 画『扁額軌範』(文政二年(1819)序)にも清水寺の数々の絵馬が収録される。

 

清水寺の「三国志」も題名が今日には伝わっていないため、例によって今回も便宜上「仮題」を付けて以下に見ていきたい。 

 

「馬上関羽図」

大きさは縦 1.8m、横 2.9m。礼堂内南側の梁部(礼堂の廊下を上がった真後ろ)に懸かる。

金地の大絵馬には赤兎馬に跨り青龍刀を提げる関羽が描かれる。管見の限り関羽を描いた奉納絵馬の中で恐らく国内最大の巨大な絵馬である。

北野天満宮や八坂神社をはじめとする寺社では、奉納された絵馬はいずれも絵馬殿や雨風に晒される場所に懸かることが多いため、退色や剥落などによって図様を失うことが多い。しかしながら清水寺の場合は、雨風どころか直射日光も当たらない場所に懸かっているため、退色や剥落に傷むや劣化はほとんど見えず、とても色彩が鮮明に残る。

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「馬上関羽図」

 

関羽は例の如く緑の幘を被り、緑の袍を観に纏う。その下にはYを逆さまにしたテトラポットのような形状をした金属片が施された鎧(山文甲)が覗く。やはり「面如重棗,唇若抹朱,丹鳳眼,臥蠶眉」とあるように、この関羽も目尻が吊り上がり、眉は太く、長い鬚髯を蓄える。右手は青龍刀を提げ、左手で赤兎馬の手綱を引く。

赤兎馬は茶褐色の毛で表されており、鐙や鞍、杏葉など色鮮やかな馬具が装着される。他の絵馬で描かれる赤兎馬とは異なり、関羽に跨れているのではなく、躍動感のある姿で描かれる。

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関羽

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赤兎馬

 

絵馬の右下部には墨書で「法眼周山門人/摂江田島甚蔵泰寛圖」と記され、そのすぐ下には朱文方形印が見える。法眼周山とは大坂画壇で活躍した絵師 吉村周山(1700~1776)で、彼の弟子の田島甚蔵泰寛による筆だと分かる。

その左下には「願主/大和屋弥一郎/同 長四郎/増屋平次郎/大和屋三十郎/伏見屋長二郎/万屋六兵衛/澤屋巳之助/越中屋三之助」と8名もの願主名が連なる。屋号が記されていることから、彼らは商屋であると思われる。関羽にどのような願いや想いを込めたのだろうか…

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墨書(書名・願主)

 

左上部には「延享二年乙丑(1745)八月穀旦」、その下部には「宿坊正官目代慈心院」と記されていることから、1745年8月に上記8名の願主によって清水寺に奉納されたようである。

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墨書(奉納年月)

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墨書

 

 

堂内は本殿前に置かれた香炉の線香の煙が立ち込めやすく、また日が傾くと逆光になってしまうため、もし観賞や撮影をされる場合は遅くとも14時頃までには訪れるといいだろう。個人的には午前中に参詣されることを強く勧めたい。

※上の絵馬を撮影するために、後日再訪問しました。

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撮影失敗例

 

 

〒605-0862

京都府京都市東山区清水294

 

八坂神社

北野天満宮を後にし、続いては八坂神社へ参詣しに向かった。

八坂神社は京都東山を代表とする観光地として、国内外から多くの参拝者が訪れる。主祭神素戔嗚尊を祀り、全国の八坂神社の総本社とされる。旧称は祇園社。夏には日本三大祭りのひとつに数えられる祇園祭や、大晦日には 白朮祭をけらさい などが行われ、今もなお篤い信仰を集める神社である。

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西楼門

 

社伝に拠ればその由緒は斉明天皇二年(656)に創祀、貞観十八年(876)に建立されたと伝わる。境内には南楼門や西楼門、本殿、舞殿、絵馬堂、末社が置かれる。承応三年(1654)に徳川家綱によって再建された社殿は、拝殿と本殿を大屋根で覆った「祇園造り」と呼ばれる独特な建築様式となっており、重要文化財に指定される。現在は重要文化財から国宝指定に向けて調整がされているそうである。

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社殿

 

さて八坂神社には先の北野天満宮と同様に、2点もの「三国志」作品が伝わっており、やはりいずれも絵馬堂に観ることが出来る。 

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絵馬堂

 

絵馬堂は西楼門を入って北側に位置する。建立年は未明であるが、正保三年(1646)から遅くとも安永九年(1780)までには建立されたと思われる。その大きさは桁行七間、梁間三間で屋根は入母屋造りの桟瓦葺。大小様々な絵馬がその内外に懸かるが、外側だけでなく内部も金網が張り巡らされている。また絵馬堂内に立ち入ることが禁止されているため、残念なことに絵馬群の半分すら目にすることが叶わない。

また八坂神社の絵馬は清水寺の絵馬と並んで広く知られていたようで、合川珉和,北川春成 画『扁額軌範』(文政二年(1819)序)に多くの作品が収録される。

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絵馬堂外壁

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絵馬堂内部

 

八坂神社の「三国志」は残念ながらいずれも題名が不明であったため、今回も便宜上「仮題」を付けて順に見ていきたい。

 

 

関羽周倉図」

絵馬堂内に懸かる。大きさは不明。縦長で横幅が狭い小さめな絵馬に、関羽周倉の二人の姿が描かれる。全体的に退色しており、加えて木目に沿って塗料が剥落してしまっているものの、まだ鑑賞に堪えうる状態である。

関羽はお馴染みの像容で、緑の幘と緑の袍を纏い、右手には『春秋』と思われる経文を手にする。左手は自身の髯をしごき、椅子に腰を掛ける。『演義』に「面如重棗,唇若抹朱,丹鳳眼,臥蠶眉」とあるように、この関羽も目尻が吊り上がり、眉は太く、髯は腹部にまで届く長さで表される。その左側には、顔や手は浅黒い色で表され、赤い房がついた笠形盔を被り両手で青龍刀を抱く周倉が侍る。

絵馬の右側には「寶暦九己卯歳(1759)正月吉日」、その下に「西本■之■」と個人名が記される。おそらく願い主の名であろうか。また左下部には「高清」と名が見える。落款は欠く。

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関羽周倉図」

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関羽

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周倉

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墨書

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墨書「西本■之■」

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墨書「高清」

 

先述したように絵馬堂内に立ち入ることができず、その内部は金網が張り巡らされているため、丹眼鏡などの望遠できるものがあることが好ましい。

撮影するにあたり、絵馬ではなく金網にピントが吸われてしまうため、こちらも要注意である。

 

 

「馬上関羽図」

こちらは絵馬堂北側(円山公園側)の後壁部に掲げられる。こちらも距離があり正確な大きさは不明であるが縦 2m、横 1.5m はあろうか。やはり全体を金網に覆われる。

青龍刀を手に赤兎馬に跨る関羽が描かれるが、屋外に懸かり雨風にさらされていたこともあり、色彩はおろか図様を完全に損失しているため、関羽が描かれていることすら気が付かないほど劣化している。

この絵馬の赤兎馬は手綱や馬具しか残っておらず、関羽ですら上半身が何とか分かる程度である。何とか輪郭線は見えるものの、着色されていた部分は白く退色してしまっている。また板材の木目が強く出てしまっているため、本来描かれていたシルエットすら不明瞭。

関羽の左肩部には緑色が見えることから当初はやはり緑の袍に身を包んだ関羽が描かれていたものと思われる。右下部に落款が 2 つ彫られ、その上部には墨書らしき痕跡は見えるが判読不明。

額の上辺には「奉納」、右辺には「日■丸壽組/講元 ○大 市兵衛 越後屋吉兵衛 布屋嘉兵衛 ■■/市田屋忠右衛門 岡 利三郎 大丸/世話方 二文字屋佐兵衛 日和田屋新七目 常 七近江/近江屋利助 大坂屋嘉兵衛 ■」と奉納者の名が連ねられ、左辺には「安政六年未(1858)春 宿坊 寶壽■」と彫られる。

先の「関羽周倉図」と同様に、望遠できるものがあれば細部まで楽しめよう。

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外観

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「馬上関羽図」

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落款

 

京都観光などで東山地区や八坂神社を訪れられた際は、絵馬堂にも足を延ばしてはいかがだろうか。

 

〒605-0073

京都府京都市東山区祇園町北側625

北野天満宮

北野天満宮は学問の神さまとして菅原道真主祭神として祀り、梅や紅葉の名所としても有名な京都を代表する神社の1つである。旧称は北野神社。京都市上京区に鎮座する。

 

由緒は定かではないが、天暦元年(947)に開創し、社殿が造営されたと伝わる。文安元年 (1444)の文安の麹騒動により焼失するが、慶長十二年(1607)に豊臣秀頼によって再建された社殿は、絢爛豪華な桃山文化を造営当時のまま今に伝え、国宝に指定される。

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三光門
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社殿(拝殿)

 

境内には楼門や三光門、宝物殿、社殿、絵馬所、回廊をはじめ、大小様々な社を配する。 さて北野天満宮には2点もの「三国志」を題材とした作品があり、いずれも絵馬所で観ることが出来る。

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絵馬所

 

絵馬所は楼門を入った西側に位置し、桁行六間、梁間二間の入母屋造りで桟瓦葺となっている。絵馬所については次の説明がされる。

北野天満宮絵馬所

 北野天満宮の本殿を始めとする主要な社殿は慶長十二年(1607)に再建されたもので、その後、元禄十三年(1700)から翌年にかけて大修理が行われている。現在の絵馬所は、元禄の大修理の際に建て替えられたものである。建築当初は、現在の位置より北に、棟を南北に通して建ち、また、屋根も現在は浅瓦葺であるが、当初は木の板で葺いた木賊葺であった。 この絵馬所は、規模が大きく、京都に現存する絵馬堂の中で最も古いものであり、江戸時代中期の絵馬堂の遺構として貴重である。

昭和五十八年六月指定 京都市

 

京都の寺社などを紹介する現在で言うガイドブックとして、安永九年(1780)に刊行された『都名所圖會』を見ると、かつては絵馬所が棟を南北に向いていたことが確認できる。(赤矢印部

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『都名所圖會』北野天満宮 挿絵より

 

時代が少し下り、大正十年(1921)には絵馬所南側に桁行三間が増築された。その結果、京都市の絵馬殿の中で最も大きい規模となり、また少しいびつな形状となった。北野天満宮に奉納された絵馬のほとんどがこの絵馬所に掛けられているが、その多くが雨風に晒されていたり経年による劣化のため図様が損失していたり状態が芳しくない絵馬が多々見える。

 

さて少し前置きが長くなってしまったが、「三国志」作品を順に見ていきたい。残念ながらいずれも題名が不明のため便宜上「仮題」を付ける。

 

 

三顧の礼図」

縦およそ 1.2m、横およそ 2m。左より順に童子劉備関羽張飛の4人が描かれる。言わずもがな諸葛亮の草廬を訪ねるお馴染みの場面である。著しい退色や損傷はなく、全体的に色彩が残るが全体的に白っぽい印象を受ける。

左側には草盧が見えるものの、諸葛亮の姿はない。赤い袍に身を包み烏帽子のような形状の冠を戴く劉備と、緑の幘を被り緑の袍を纏う関羽。そして茶色が基調の袍を身に纏う張飛の姿を観ることが出来る。

署名や落款は見えず筆者は不明。関羽張飛の頭上には右書で「奉納」の二字が、また右端には「寶暦二壬申年(1752)二月吉」と記す。

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三顧の礼図」 
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童子 
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劉備 
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関羽張飛

 

「馬上関羽図」

縦およそ 1.8m、横およそ 0.9m。赤兎馬に跨り青龍刀を手にする関羽が描かれる。先の「三顧の礼図」と比べると著しく退色しており、赤色で着色されていたと思われる箇所は白っぽく、また緑色だった箇所は赤茶色っぽく変化している。幸いなことにまだ輪郭線が薄っすらと見えるため、関羽赤兎馬の表情をはじめとする細部が何となく認識することが可能である。

当初の状態を想像することが難しく、注視しなければ関羽と気付かないであろう。絵馬や額には署名や落款、奉納年などが見えず、詳細は一切不明である。

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「馬上関羽図」

 

〒602-8386

京都府京都市上京区馬喰町

 

【告知】三国志研究会(全国版)第2回オンライン例会で発表します

今週末10月3日(土)16時より、龍谷大学竹内真彦教授が主催される三国志研究会 オンライン例会にて発表いたします!

今回は「寺社に見える「三国志」(2)」と題しまして、福岡県那珂川市、大阪府松原市京都市伏見区奈良県大和郡山市の計4ヵ所の寺社の「三国志」作品についてお話する予定です。

 

今回もネット上にほとんど情報が出回っていない文物について、フィールドワーク時に撮影した画像を交えてながらご紹介したいと考えてます。

三国志が好き」「三国志について知りたい」「三国志について語りたい」方であれば、どなたでも自由にご参加いただけます。また参加費や資料代など無料ですので、興味がある方はぜひご参加ください。よろしくお願いします!

 

詳しくは以下のサイトをご覧ください。

厳島神社/豊国神社(千畳閣)(2)

以下の記事の続き。

 

関羽周倉図」

絵馬の大きさは縦およそ2m、横およそ1m。関羽周倉の2人の姿を描く。彼らの像容は、関羽は緑の幘を被り赤系が基調とした戦袍に身を包む。左手に持つ『春秋』を座りながら読んでおり、右手は右腹部あたりで袍をわずかにたくし上げる。関羽は幘・袍ともに緑色で表さることがほぼほぼであるが、なぜかこの絵馬は赤で表される。

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一方、そのそばに侍る周倉は、お馴染みの笠形盔を被り両手で青龍刀を抱く。関羽と同様に赤系が基調の袍を纏う。両者ともに色彩が退色しているため、元来の色彩は不明である。

 絵馬上部の中央よりやや左に「威霊■美照■■■■/■■■髯絶倫/■■■■■■■/■■■■■/■■■■■」と銘が記されているが、そのほとんどが擦れて判別が出来ず。また右下には「願主■眞與」と墨書で記される。額には奉納年などの記述はない。

豊国神社の一部の関係者のうち、この絵馬を「天書を読む宋江」と認識されているようである。なぜ『水滸伝』の宋江と認識されているのか、その理由は不明である

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劉備躍馬跳檀渓図」

縦およそ1m、横およそ1.8m。モチーフは『演義』第34回「玄徳躍馬跳檀渓」。これまで言及した絵馬3点と比べると状態は非常に良好で、退色や破損などはほとんど見受けられない。赤い袍に身を纏い右手には鞭を握り、左手で手綱を操る劉備が、壇渓の急流を黒い的盧に跨り越える場面が描かれる。

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右上には「平安/楠亭」の墨書と落款が見える。楠亭とは西村楠亭(1755~1834)の号で、彼は円山応挙の門人で江戸時代後期に活躍した絵師である。

額には奉納年などの記述は見えないが『厳島絵馬鑑』 に拠ると、文化八年(1811)十一月に楠亭が描き、その後に京都宮島講中講元の若狭屋七兵衛により奉納されたようである。題は「玄徳之圖」。かつては厳島神社の西回廊に南向きで掲げられていたようである。

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〒739-0588

広島県廿日市市宮島町1-1

厳島神社/豊国神社(千畳閣)

瀬戸内海に浮かぶ宮島の北東部に、朱塗りの大鳥居と大伽藍を構える厳島神社が鎮座する。祭神は市杵島姫命田心姫命湍津姫命で、創建は推古天皇元年(593)と伝わる。*1

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厳島神社の大伽藍は、大鳥居・客神社・厳島神社・高舞台・大国神社・天神社・能舞台能楽屋などから構成される。

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かつては奉納された数多くの絵馬が厳島神社内に掲げられていた。しかしながらこれらは潮風に吹き曝されて退色や破損などを被るため、そこから北北東に150mの位置に鎮座する末社の豊国神社(千畳閣)へと移された。幕末から明治期にはこれらの絵馬を後世に伝えていくため、また案内書を兼ねて『厳島絵馬鑑』『厳島絵馬帖』が刊行された。厳島神社の絵馬は当時は観光名物であったと思われる。

厳島神社から絵馬が移された豊国神社は、経堂が畳857枚分の広さがあることから「千畳閣」とも呼ばれる。創建は豊臣秀吉が千部経読誦するために天正十五年(1587)に発願したことに始まる。秀吉の没後、天井の板張りや建造物の外構など完成を見ないまま現在に至る。御祭神は豊臣秀吉霊神・加藤清正霊神。

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豊国神社には弁財天が描かれた「しゃもじ」や、馬や鹿などの動物、巴御前や弁慶などの絵馬が掲げられる。その中に三国志を題材にした4点もの絵馬を有する。いずれも題名は不明だ。今回はうち2点について見ていきたい。

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「桃園三英傑図」

縦およそ3.5m、横およそ2m。左より張飛劉備関羽が描かれる。関羽が手にする巻物のようなモノは春秋だろうか。桃の花が咲く枝を手にする劉備はエモい!

彼らは太い黒線で輪郭が引かれており、全体的に鮮やかな色彩が施されたと思われる。経年のためか劉備の衣服を除いて、全体的に退色している。絵馬には落款はなく、右上には「狩野氏門人/宗真齋信廣 筆」の署名が見える。どうやら狩野派の人物のようであるが、該当する人物は見付けれなかった。

また額には右辺には奉納年「文化十五歳次戌寅五月吉日」、左辺には「當郡白砂邑 澳八郎治光成」の名前が見える。狩野派の某信廣により描かれたこの絵馬は、文化十五年(1818)年五月に安芸国佐伯郡白砂邑(現:広島市佐伯区湯来町大字白砂)の澳氏が顧主となり奉納されたようである。

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関羽図」

縦およそ3m、横およそ1.5m。赤兎馬に跨る関羽が左の人物が持つ緑衣を青龍刀で受け取る場面が描かれる。彼らは緻密で写実的に描かれており、表情もまるで生きているようである。

部分的に鮮やな色彩が確認できるものの、全体的に色が落ちており、塗料の下から絵馬の木目が覗く。

左上には「七十八肖學𠎣寫(七十八肖学仙写)」とタイトルと思われる墨書が見える。額の上辺には「御寳前」、右辺には「明治三十年第二月吉日 愛知縣名古屋市職主 齋藤岩太郎」、左辺には「願主 筑前國若松藩 瓜生佐四郎以政敬白」と彫られる。

中村 修身(2011)「北九州市金石文集成 若松区篇」*2に拠ると、北九州市若松区浜町1丁目2に鎮座する恵比寿神社の境内に、海上安全を願い天保八年(1837)十一月に奉納された常夜灯が置かれる。この右面に「船支配 瓜生佐四郎」と名前が見える。彼に関する詳細は未明であるが、おそらく同一人物だと思われる。

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次の記事で残る2つの奉納絵馬について言及したい。

 

〒739-0588

広島県廿日市市宮島町1-1

*1:御由緒 拝観 嚴島神社【公式サイト】(http://www.itsukushimajinja.jp/history.html)より

*2:別府大学史学研究会『史学論叢(41)』,pp.12-26,2011-03

日吉神社

以下の記事の続き。

平野神社を後にしファミレスで朝食を摂った後、続いては日吉神社へ向かった。

 

那珂川市のほぼ中心に位置する日吉神社は、市の中央を南北に貫流し流れる那珂川のほとりに鎮座する。特筆すべき点として村で最も低い位置に祭られていることであろうか。多くの寺社は平地か、むしろ周囲より一段高いところに建っているが、日吉神社はその真逆で低い位置に配置することで結界を作っているようである。

 

国道385号から西へ一直線上に伸びている参道は長さがおよそ150mもあり、その途中には第一、第二の鳥居が配置される。第二の鳥居より先が低地となっており、境内には社殿、絵馬殿他などが点在する。

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一の鳥居

 

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二の鳥居

 

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社殿

 

日吉神社の由緒は以下の通りである。

祭神

天御中主神 大己貴神 彦火々出見命

大山祇神・八雷神・菅原神・埴安神・宇賀魂神・高淤加美神闇淤加美神田心姫命迦具土神手力雄命表筒男命底筒男命中筒男命須佐之男命・天照大御神

 

由緒

不詳。正徳三年(1713)十月神殿、拝殿改造。

明治五年(1872)十一月に村社に定めらる。

 

猿田彦命は乞食の天尊降臨の条に最初に現れる国津神であります、天照大神から授けられた斎庭の稲穂を育てるべき水田を開拓して待ち給うた神と語られます。〝さるた〟とは今も津島と種子島に僅かに保存されている陸稲の一品種なる赤米のことであります。春に浅瀬の多い皮を留めて湖を作り、これに苗を植え夏の日照時に水を引いて秋の収穫まで欲し挙げる古式栽培のことでもありました。

弥生より後の氏神の鎮守の社は部落を見わたす高台にあるのが普通でありますが、本社が低い川原にあるのは、日夜田廻りに生きてきた古代の農耕の本質を今に伝えているからであります。祭日は四月三十日の水籠、八月三十一日の風籠、十二月三十一日の大晦がありました。氏子一同が神前で会食する式例で、一年を三季に分ける珍しい暦法の名残でありますが、縄文時代の冬のない亜熱帯気候の風土もよく忍ばせます。これに一月一日の年始祭、七月三十一日の輪越祭、十一月二十三日の注連縄祭が加えられております。猿田彦を祭神とする社は、伊勢二見の興玉神社で、夏至にするが藤の朝日を配するところから、伊勢暦の編纂をもあつかった神であります。本社の拝殿の天井に描かれた十二月十二支に方位月日の神としての一面をうかがうことが出来るかもしれません。伝教大師最澄は、延暦二十四(八〇五)年唐から帰朝の折に筑紫で最初の天台宗派寺院たる背振山東門寺を会期いたしました。そして、これを比叡山延暦寺に遷したときに、その守護神としてここの山王神猿田彦命を勧請して彼の地に日枝神社を創建したと言う伝説が残っております。

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今回参詣したのが年末ということもあり、日吉神社を管理する地元の方々が新年を迎える準備を行っていた。その作業の合間にお邪魔したため、写真はあまり撮れなかった。

 

さて日吉神社の「三国志」は拝殿に見ることが出来る。社殿は拝殿~幣殿にかけて四方に壁板が設けられておらず、まるで神楽殿のような板間造りになっている。

その内部に大小様々な奉納絵馬が掲げられるが、そのほとんどは環境と経年により割れや、顔料の剥離もあり酷い損傷が著しい状態であった。

境内には絵馬殿もあったが、そこに掲げられる絵馬の状態は拝殿のものより良くなく、文字や画が認識できなかったり、額下辺のみが額受けに引っかかっていたりという有様であった。

 

さて本題へ。日吉神社の「三国志」絵馬の大きさは縦およそ2.5m、横およそ3mの巨大なもので、先の平野神社とほぼ同様のサイズである。

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額の左右には「明治廿七(1894) 南畑村/午四月吉日 大字市ノ瀬」、下辺には真鍋や神代などの15名の姓名が彫られていた。地元の方にお話を伺ったところ、この当時の村の有権者の名前で、特に真鍋姓は名士的な家であったそうだ。

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この絵馬は三つの場面採られており、右上、左上、下半分に描き分けられていた。三国を上下逆さにした配置である。 

各場面の近くには例の如く題字が、また絵馬の右下には筆者の署名と落款が記される。なんとこの絵馬も平野神社を手掛けた「龍雲」によるものであった。

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以下、順にそれぞれの場面を見ていきたい。剥離により欠落している文字は( )で補う。

 

 

右上(ピンク)「玄徳 天地(を)祭(りて)桃園に義(を結ぶ)圖」

お馴染みの名場面。左より順に張飛劉備関羽、侍女の四人が描かれる。名前は「張(飛)字翼(徳)」「蜀帝劉備字玄徳」「關羽字(雲長)」と正しく当てられているが、色彩や文字などが剥離により読めなくなりつつある。

この場面は劉備がしっかりと描かれており、また侍女の姿も見える。そのため『絵本通俗三国志』初編巻之二「祭天地桃園結義」の挿絵と、嘉永六年(1853)三月に刊行された一勇斎国芳歌川国芳)画「通俗三国志之内 桃園義結図」を組み合わせて描かれたのではないかと考える。 

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一勇斎国芳歌川国芳)画「通俗三国志之内 桃園義結図」

 

 

左上(黄緑)「玄徳 風雪訪孔明

左より順に「諸葛亮孔明」、童子、「蜀帝(劉備)字玄徳」、「關羽字雲(長)」「(張)飛(字)翼徳」の計五人が描かれる。上の「桃園結義」の場面に描かれる三人の姿と比較すると、容姿等の描かれ方に揺らぎはない。

人物の配置や構図より、こちらも嘉永六年(1853)四月に刊行された一勇斎国芳歌川国芳)画「通俗三国志之内 玄徳三雪中孔明訪図」が参照にされたのではないかと思われる。

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一勇斎国芳歌川国芳)画「通俗三国志之内 玄徳三雪中孔明訪図」

 

 

下(水色)「(趙)雲 孫夫人を(追うて)幼(主を奪)圖」

左の小舟には「張飛字翼徳」とその周りには三人の兵士が、中央部には「趙雲字子龍」「阿斗君」「周善」、中央部から右側にかけて四人の侍女と兵士、孫夫人の計十三人が描かれる。

国芳 画の浮世絵や、他の浮世絵作家の作品、そして『絵本通俗三國志』などの絵馬の制作年以前に登場した作品を確認したが、この場面のみ何が参照されたのか特定するに至らなかった。

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今回忘年会翌日に平野神社日吉神社に納められる「三国志」を題材にした絵馬を巡り、幸運なことに実物を間近で拝観することができた。

3点のうち2点が龍雲の手によるものであり、彼は制作時に『絵本通俗三國志』と浮世絵などのを参照に描いていたことが分かった。しかしながら、この龍雲は出自や手掛けた作品等についての情報はほとんど残されておらず、謎の多い人物である。おそらく活動時期と活動地域より龍雲は石橋龍雲であると思われる。

 

龍雲は短い期間で2点もの巨大絵馬を描き奉納した。共通する題材を描いたためなのか、参照する資料に恵まれたからためかその要因は推測の域が出ないが、彼の画風は目を見張るほどの変化を遂げる。少なくとも人物の名前を誤ることなく記したのは紛れもない事実である。博多南周辺地域には他にも彼が手掛けた奉納絵馬が眠っている可能性が極めて高い。加えて絵馬を通して当時の三国志受容の一端を窺い知れる資料になり得るため、引き続き神社仏閣に見える「三国志」の調査を行いたい。

 

 〒811-1233

福岡県筑紫郡那珂川市大字市ノ瀬441−1

平野神社(2)

以下の記事の続き。

 

さて平野神社には月岡芳年「玄徳風雪に孔明を訪る」を取材した『三顧の礼』絵馬の他に、三国志関連の絵馬がもう1点奉納されており、同じく絵馬堂にて見ることができる。

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全体
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USHISUKEさんと比較

 

こちらの絵馬にもラミネートが施された解説文が掲示されており、次のように説明がされていた。

「通俗三國志」 制作 明治24年9月(1891年)

三国志』の中から四つの場面を抜粋した絵馬です。市内に残る絵馬の中ではもっとも大きく、色彩も豊です。以下それぞれ画に書かれている文章と説明( )内を書いています。

 

右上――『通俗、三国志 季儒並びに帝王何皇后に毒酒を進める図』

(絵では左から 袁紹 薫卓 紹蝉? 恊皇子とあります。後漢の逆臣 薫卓 が皇帝と皇太后に背き、ついに毒酒を飲ませて暗殺してしまう場面。絵馬の中の曹卓とあるのは「薫卓」の誤りではないかと思われる)

右下――『玄徳天地を祭して桃園に義を結ぶ図』

劉備 張飛 関羽の三人が『桃園の義盟』で義兄弟の誓いを立てている場面。向かって左から劉備 翼徳(張飛段珪関羽)と思われる)

左下――『玄徳 曹操に揣泰 韓逞?の首を見せている図』

(絵では左から曹操 薫卓袁紹 玄徳(劉備)下は張譲と首は陳横 張英の名が見える)

左上――『趙雲 孫夫人を嶋に流す図』

(絵では左から何太后雲長皇子下には段園?張譲の名がある)

※絵馬の中の人名は判然としないものがあります、誤りのある場合はお許しください

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解説文に気になる箇所が多々あるが、後ほどそれぞれの場面と合わせて順に触れていきたい。

 

この絵馬は縦およそ2.5m、横およそ3mもある大作である。額の左右の辺には「明治廿四辛卯年/九月吉日 胴元」と書き入れられることから、明治24年(1891)9月に平野神社に納められたようである。

先の絵馬は浮世絵を参考に描かれたと触れたが、この絵馬は天保七~十二年(1836~1841)に刊行された池田東籬亭,葛飾戴斗 画『絵本通俗三國志』に掲載されている挿絵より、四つの場面が描かれる。それぞれの場面の近くには題字が、また絵馬の右下には描かれた年と署名「辛卯季秋/龍雲 画」が記される。

場面ごとに塗り分けるとこのようになる。

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署名 龍雲

 

左上(黄色)「季儒並びに帝王何皇后に毒酒を進める図」

楼閣上には人物が五人(左より順に無名、袁紹、無名(女性)、曹卓、恊皇子)、そこから落下する一人の女性(貂蝉)の計六人が描かれる。この場面は『絵本通俗三国志』初編巻之三「廃漢帝董卓弄権」 の挿絵が参照されおり、構図は共通するが人物の配置が変更され、また背景や欄干などの細部の描写が簡略化される。

題字横にこの絵馬自体の題「通俗三國志」が記されているが、解説文ではこの場面の題字と混同する。

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題字は「李儒并ニ帝王 何太后に毒酒を進むる圖」とあり解説文の題と異なる。題字を文字通り理解するならば、李儒と恊皇子が何太后に毒殺を謀るという意となる。劉協が李儒と結託すること自体どうかしているが、そもそもこの絵馬には何太后がいない。

『絵本通俗三國志』を基に題字を改めるならば「李儒 帝ならびに何太后に毒酒を進むる図」である。

またこの場面の登場人物は正しくは以下の通りである。

  1. 無名→李儒配下の兵士
  2. 袁紹李儒配下の兵士
  3. 女性(無名)→唐貴姫
  4. 曹卓→李儒
  5. 協皇子(劉協)→少帝 劉弁
  6. 貂蝉→何太后

 

右下(ピンク)「玄徳天地を祭て桃園に義を結ぶ圖」

お馴染みの桃園結義の場面。劉関張の三人が描かれるが、なぜか左より順に劉備、翼徳、段珪と名前が充てられる。先の解説文では「向かって左から劉備 翼徳(張飛段珪関羽)」と推測がされているが、宦官の段珪と誓いを結ぶのはともかく、どこから「段珪」という単語が出てきたのか不思議でならない。こちらも『絵本通俗三國志』初編巻之二「祭天地桃園結義」の挿絵が参照されていると思われる。しかしながら劉備のみ挿絵と容姿などが異なるため、他の通俗系の作品も併用して描かれたと考える。

f:id:kyoudan:20200816015152j:plain関羽張飛の像容や円卓の形状などが類似する
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この場面の登場人物は正しくは以下の通りである。

  1. 劉備張飛
  2. 翼徳→劉備
  3. 段珪関羽

 

左下(黄緑)「玄徳曹操に揣泰 韓遂が首を見せてる圖」

袁術の皇帝僭称と曹操張繍討伐(南陽の戦い)の間の物語。上列には七人(左より順に無名、曹操、曹卓、袁紹、無名、玄徳、無名)、中央部には陳横と張英の首、下列には三人(無名、無名、張譲)の計十二人が描かれる。「劉備曹操に揣泰と韓逞の首を見せている」が、披露している首級は陳横・張瑛のモノである。この二人はこの場面直前の孫策の江東平定の際(厳白虎戦の直前)にほぼ同時に登場する。解説文の「韓遂」は韓暹を読み誤ったものであろう。

こちらは『絵本通俗三國志』二編巻之三「曹操會兵伐袁術 参照元である。上の「桃園結義図」とのスペースの兼ね合いもあってか、ここでは右端の人物一人を中央部へ配置が変えられる。なぜか宦官の張譲の名前も出ており、段珪といい宦官が好きなのだろうか?

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曹操」と名前が振られる関羽。これには曹操もニッコリするだろう

 

この場面の登場人物は正しくは以下の通りである。ことごとく誤っており、ここまで来ると逆にすがすがしい。

  1. 無名 →劉備

  2. 曹操関羽
  3. 曹卓→張飛
  4. 袁紹→典満
  5. 無名→曹操軍兵士
  6. 玄徳→曹操
  7. 無名→曹操軍兵士
  8. 陳横(首)→楊奉(首)
  9. 張英(首)→韓暹(首)
  10. 無名→曹操軍兵士
  11. 無名→曹操軍兵士
  12. 張譲夏侯惇

 

左上(水色)「趙雲孫夫人を嶋に流す」

龐統定計取西蜀」と「曹操興兵下長江(魏公就任)」の間の物語。劉備と政略結婚をさせられた孫夫人が、呉へ劉禅を連れて帰ろうとする場面が描かれる。船上には四人の女性(うち一人が何太后)と雲長、皇子が、その右下には水に落ちる段圓と船上には張譲と二人の兵士、そして左下の小船上に一人の計十一人の人物が描かれる。ここでは『絵本通俗三國志』四編巻之九「趙雲截江奪幼主」の挿絵が基になっている。

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早々に物語を退場した何太后と、なぜかここでも張譲の名前が出ている。

この場面の登場人物は正しくは以下の通りである。

  1. 太后 →孫夫人
  2. 女性(無名)→孫夫人の侍女
  3. 女性(無名)→孫夫人の侍女
  4. 女性(無名)→孫夫人の侍女
  5. 雲長 →趙雲
  6. 皇子 →阿斗(劉禅
  7. 段圓 →周善
  8. 張譲張飛
  9. 兵士(無名)→張飛配下の兵士
  10. 兵士(無名)→張飛配下の兵士
  11. 兵士(無名)→張飛配下の兵士

 

これまで国内各地で掲げられている「三国志」を題材とした奉納絵馬を目にしてきた。管見の限りであるが、解説文も含め、人名のほとんどをこれほど盛大に間違えている絵馬はこれが初めての例である。間違い方が特殊すぎるため、制作した龍雲が三国志に疎かったのか、絵馬の依頼主が疎かったのか…ますます謎が深まるばかり。

 

内容が凄まじく、大きさも合わさり非常にインパクトの強い絵馬であった。USHISUKEさんと「あの場面は~」「あの人物は~」と様々な角度から考察しながら意見を述べ合っていたら、気付けば1時間が過ぎ。

 

今回は知識で何とかすることができたが、このような普通に鑑賞できない頭を使う作品には出合いたくないものである。もし福岡へ行かれる機会があれば、ぜひ平野神社への参詣していただきたい。

 

 

〒816-0971

福岡県大野城市牛頸3丁目14

 

東京「媽祖廟」参詣(5)

2020年8月2日(日)13時より田町に所在する中華料理屋「三国軒」にて開催される第59回「三国志義兄弟の宴」に参加すべく上京した。今回の宴のテーマは大好きな人物の1人である「兀突骨」についてである。これは問答無用で参加するしか選択肢はなかった。

 

宴当日は午前中に若干の時間があったため、久々に大久保に鎮座する東京「媽祖廟」へ参詣しに足を延ばした。2019年3月21日(木)に訪れて以来なので、およそ1年半ぶりである。

 

さまざまなビルが並ぶ雑多な路地に突如現れる極彩色の廟は、極彩色の外観に加えて威圧感を覚えるほどの巨大な施設である。いつまでたっても周囲の景色に溶け込んでおらず、違和感しかない。そこだけ異国の地のようである。

 

今回は普通にお参りしに行ったのだが、廟に入る前に些細な違和感を覚えた。線香を手に、香炉に線香を供えるため、2階に足を踏み入れた時、その違和感の正体を理解した。

またもや廟内でお祀りされている神仙像の配置が替わっているのである。これで2度目である。

 

  

今回はどのように配置が変化したのか、①開廟時と②1回目の配置替え後、③今回の配置替え後の像やその位置を比較しながら1階から順に見ていきたい。

 

1階】五營將軍祠

①開廟時:五營將軍

②配置替後:五營將軍

③再配置後:五營將軍→3階媽祖殿へ*1

 

【2階】名称:朝天宮→関帝殿→関帝殿

①開廟時

 須弥壇:順風耳・媽祖(北港朝天宮)・千里眼

 大壇:なし

②配置替後

 須弥壇:月下老人・福徳正神・関帝・済公禅師・武財神(趙公明

 大壇:九龍太子・初代関帝

③再配置後

 須弥壇:月下老人・福徳正神・関帝・済公禅師・武財神(趙公明

 大壇:九龍太子*2・済公禅師*3

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【3階】名称:本殿→媽祖殿→媽祖殿

①開廟時

 須弥壇:武財神(趙公明*4・順風耳・媽祖(泉州天后宮)・千里眼・初代関帝*5

 大壇:九龍太子*6・媽祖(小)

②配置替後

 須弥壇:金面媽祖(台湾・南天宮)・粉面媽祖(泉州・天后宮)・黒面媽祖(台湾・北港朝天宮)・順風耳・千里眼・媽祖像(小)×2躯・観音

 大壇:順風耳・千里眼・媽祖像(小)

③再配置後

 須弥壇:金面媽祖(台湾・南天宮)・粉面媽祖(泉州・天后宮)・黒面媽祖(台湾・北港朝天宮)・順風耳・千里眼・媽祖像(小)×2躯・観音

 大壇:順風耳・千里眼・媽祖像(小)・媽祖像*7・五營將軍

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【4階】名称:観音殿(変更なし) 

①開廟時

 須弥壇準提観音観音菩薩(小)・観音菩薩地蔵菩薩孔雀明王

 須弥壇:虎翁将軍

 大壇:なし

②配置替後

 須弥壇準提観音観音菩薩(小)・観音菩薩地蔵菩薩孔雀明王

 須弥壇下:虎翁将軍

 大壇:薬師如来*8

③再配置後

 須弥壇準提観音地蔵菩薩観音菩薩薬師如来地蔵菩薩孔雀明王

 須弥壇下:虎翁将軍

 大壇:観音菩薩(小)

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以上、これまでの変遷である。新たに済公像と媽祖像を1躯ずつ迎えられており、開眼供養と御靈入れの儀式が完了すれば正式にお祀りされることになろう。一方で、開廟時からお祀りされていた初代関帝像の姿が見えず、その行方が分からなくなってしまった。台湾に帰ったのか、廟の事務所等にてお祀りされているのか定かではない。

前回参詣した時と比べ、配置替えに伴い参拝手順のルートの変更も行われており、配布されているリーフレットにも若干の変化が見受けられる。些細ではあるが目に見える変化が各所にあったのは、この廟に信仰が息づいている表れであると考える。

次回はどのような変化がこの廟で起こるのか非常に楽しみである反面、馴染みの像が消えてしまう可能性があることも胸に刻みつつ、次回訪れる時も、廟内外に些細な変化がないか注視しつつ、お参りしたい次第である。

 

【参詣日】

・2014年12月13日(土)、2015年7月11日(日)、2016年4月4日(金)、2019年3月21日(木)、2020年8月3日(日)

 

【寺院情報】

・建立年:2013年10月13日

・本尊:媽祖像

・所在地 東京都新宿区百人町1丁目24−12

〒169-0073

 

東京都新宿区百人町1丁目24−12東京都新宿区百人町1丁目24−12

*1:祠は撤去か

*2:リーフレットでは尊名を「中壇大元帥」とする

*3:開眼供養前

*4:2階関帝殿へ

*5:2階関帝殿内大壇へ

*6:2階関帝殿へ

*7:開眼供養前

*8:開眼供養前

消えた「関帝廟」

福岡「関帝廟」の再来か。

2002年5月に千里中央すぐそばにオープンした商業施設 千里セルシー大阪府豊中市新千里東町)。その5階には中華街をコンセプトに、20店ほどの中華料理を提供する飲食店が軒を連ねていた。ワンフロアが疑似的な中華街で、細部にまでこだわっていたようで、店舗の壁や床などは赤を基調にしており、提灯や龍などの装飾で中華街のような雰囲気がつくられていた。その一角には中華街には欠かせない関帝廟も置かれていた。 

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しかしながらオープン以降、客足が徐々に遠のいてしまったそうで、2007年1月末にこの千里中華街が営業終了してしまう。

 

その後(直後?)、中国食料品や衣料品、日用品、書籍、酒類等の輸入品を主に扱う商業施設 上海新天地大阪市中央区日本橋)にその関帝廟が移された。

 

詳しくは以下の記事に譲りたい。

 

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廟は個室になっており、参拝スペースは非常に狭く1人分の幅しかない

 

長くなってしまったが本題へ。

今年の2月8日(土)よりLaoxが経営する上海新天地の1~3階の一時閉店する。この中2階に難波「関帝廟」が設置されていた。上海新天地店頭に掲示されていた張り紙によると「改装に伴う」閉店との。このタイミングでは4階の中華レストランや、6階の中国の食材を扱うスーパーも営業していた。改装に至るまでの経緯は不明であるが、漠然と閉店前後の動向は拾うことができた。確認できた範囲となるが、閉店までの流れは次の通りである。

 

・3月末:6階のスーパーが浪速区下寺へと移転する旨がアナウンスされる

・4月11日(土):スーパーが「Asia Mart新天地」としてリニューアルオープン

・4月13日(月)までに建物内の商店の営業が全て終了

・5月13日(水):上海新天地の解体工事のニュースが報じられる

・6月1日(月):足場の組み立てが始まり、解体工事が開始される

 

さて千里中華街から上海新天地に移された関帝廟であるが、今回の閉店に伴い新天地に再度移転されたのか、またはどこかで保管されているのか、今後関連施設に置かれるのかなどの情報を確認できなかった。おそらく情報発信されておらず、その足取りは完全に不明である。先述したように難波「関帝廟」は上海新天地の中2階に設置されており、Laoxが経営するフロアに置かれていため、所有権はLaoxにあると思われる。

 

そんな中、道頓堀のFOREVER21が店を構えていた跡地に、Laox道頓堀店が6月18日(木)にグランドオープンした。この新店舗は上海新天地から徒歩10分ほどの位置に所在する。開店したタイミング的にも、距離的にも非常に近いため、ここに移されたのではないかと推測し、先日6月27日(土)に足を運んだ。

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上海新天地Laox道頓堀店の位置は地図の通り
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Laox道頓堀新店

 

1~3階まで各フロア全体を確認したところ、北海道物産コーナーや家電製品コーナーなど上海新天地と非常に近い(ほぼ同じ)商品が店頭に並んでいた。淡い期待を抱いて店内を見渡したが、その中に廟はもちろん関帝像の姿はなかった。検討が見事に外れてしまい、また手掛かりすら得ることが出来なかった。果たして関帝廟の行方はどこであろうか…

 

かつて福岡「関帝廟」が姿を消したが、後に福岡空港へと寄贈され、国際ターミナルに置かれた。今回もどこかで再び姿を見せることを願いつつ、引き続きこの関帝廟の行方を探したい。