2015-01-01から1年間の記事一覧

三国志ファンミーティングに参戦して

朝から快晴とまではいきませんでしたが、外出するのに過ごしやすい落ち着いた天気となった11月22日(日)に、福岡県福岡市早良区のももちパレスにて開催された「三国志ファンミーティング」に参戦してまいりました。このイベントは三国志や、あらゆるジャン…

黄檗宗葉室山 浄住寺

浄住寺は阪急電鉄嵐山線上桂駅より西へ10分程歩いたところに位置する。山号は葉室山、本尊は釈迦牟尼仏坐像する。1200年以上もの歴史を持ち、太平記巻第八にも登場するほど。 寺伝によると、810年(大同5年・弘仁元年)に嵯峨天皇の勅願により、慈覚円仁が天…

黄檗宗瑞雲山 大龍寺

JR石切駅より北へ15分程度、坂道を下ったところにある。ベットタウンの中に位置しているということもあり、非常に粛然としていた。 山門をくぐると、境内には寺務所兼斎堂、開山堂、行者堂、仏殿(本堂)、経王塔がある。開山堂は門扉が閉められていたが、障…

黄檗宗 東大寺

弁天塚古墳は小字名の山ノ中より山ノ中古墳とも呼ばれ、現在その墳丘上に東大寺が建ってある。江戸時代の『東摂陵墓図誌』に拠ると「古塚 在住吉郡住吉村 字辨天塚 立木雑樹少ヽアリ由緒 不明」と記されており、この当時まだ東大寺は建立されていなかった。…

福岡「関帝廟」のその後

国内でも数少ない独立型の関帝廟のひとつである福岡「関帝廟」が消滅したという情報が、北伐さんが2015年6月29日(日)に投稿された以下の記事により発せられた。・福岡関帝廟が… 北伐ブログ:力漲る三国志手ぬぐい・Tシャツ http://hokubatsu.blog.fc2.com/b…

張飛睨返八十万勢

張飛八十万の勢を睨み返す魏の大将文聘兵を卒ひ趙雲を追いかけ長坂橋に進み、見れは張飛只一人橋のうえに馬をたて、丈八の矛を横たへ、髪の毛は倒さまにたち、眼さかたち怒れる。鬼髯左右にわかれ立ちたるにかさね、悪鬼羅利もこれには、いかでかなふまじ、…

孔明焼新野城

孔明新野城を焼くここに又荊州の劉表病死し劉蒴国主となり、つひに曹操に降参せしかば、玄徳おおひにおどろき、且つなげき孔明に計ごとをとひ玉ふ。孔明もふしけるは「関羽千余騎をひいて白河の水上に埋伏し布の袋に砂を盛り流れをせきとめ、敵敗軍のとき水…

孔明博望波尓焼屯

孔明博望波に屯を焼く曹操は玄徳が新野に在って、孔明をもちひ兵士を調練するよしをききて心悪くおもひ、諸大将をあつめ、玄徳征討のことを議しけるに、夏侯惇討手をこひける。戦いまけなば、それがし首をたてまつらんと謹んで軍令状をたてまつり、于禁・李…

玄紱三訪草蘆

玄徳 三たび草蘆を訪れる玄徳は司馬徽に別れ新野の城に帰りけるが、劉表襄陽のことをききて嫡子劉蒅をかって詫謝につかわしける。玄徳は此の程より単福といえる道士、穎上の徐庶を得て軍師となし、度々曹仁が大軍を掛け破りけるまえ、曹仁、程碰と相談して曹…

玄紱跳馬越壇渓

玄徳 馬で壇渓を跳び越える劉玄徳は汝南没落の後は、劉表を頼みておわせしけるに、劉表が大将張虎・陳生の二人反逆を企てければ、玄徳・関羽・張飛とか馳せ向かい打ち亡ぼせしおり、張虎がのりたる馬千里の駿足なりと玄徳称嘆しければ、趙雲ききもあわず鎗を…

玄紱敗走荊州

玄徳 荊州に敗走すさて玄徳は曹操が袁紹をせむるまに、虚にのりて都を襲わんと打ちたちければ、曹操大軍をひいて、逆か寄せに来たりける。玄徳兵を三手に分け東南には関羽、西南には張飛、南のかたには玄徳・趙雲備えをたてて待ちけたり。去るもとに曹操がか…

曹操官渡破袁紹

曹操 官渡袁紹を破るここに呉の孫策、于吉仙人の霊が為に狂死す。孫権家臣とともに厚く吊らい、孫策が死を奏しければ、曹操孫権を討慮将軍に封じける。去るもとに袁紹は七十五万の兵を引き、曹操を亡ぼさんと都をさして攻め上がる。曹操これを聞きおどろき、…

関羽五関斬五将

関羽 五関五将を斬る去る程に関羽は、劉皇叔の冀州に身を寄せあるを知り、都を立つぬく用意なし。是れまで曹操より贈りたる品は皆札をつけ、蔵へ納め書簡を添え置き三十人に夫人の車をおさせ、己は赤兎馬に乗り官道さして打ち立ちける。曹操之をきき五、六騎…

関羽斬顔良文醜

関羽 顔良・文醜を斬る関羽は下邳の城を守りて在りけるが、曹操計ごとを以ておびき出だし大軍にて追っ取り囲み、張遼を使いとして利害を説いて降参を進めしかば、関羽答えて曰く「玄徳が是れまで給せし程夫人へ俸禄を給し、玄徳が在所聞かば曹操に告げずして…

関羽張飛擒刘岱王忠

関羽・張飛 劉岱・王忠を擒にす去る程に玄徳は親友公孫瓚、袁紹に打ちれぬと聞きて、仇を報報わんと五万の兵を曹操に借り徐州の城へぞ入にける。後郭嘉申しけるは「玄徳は恐るべき雄才なり。雷を恐れしなどは詐りの計ごとなり。早く之を討ちたまえ」と云いけ…

曹操許田射鹿

曹操 許田に鹿を射るかくて曹操は勝ち戦を治め、玄徳と共に許都に帰りけるが、ある日曹操己の威勢を試みんと天子に田猟を進めけるに、帝・玄徳・関羽等を引き具し出御ありしに、曹操は帝と馬の轡をならべ郊野のほとり迄進みけるに、一匹の大鹿飛び出だしける…

白門樓尓曹操斬呂布

白門樓に曹操 呂布を斬る去る程に袁術は徐州を攻めしかども、玄徳の加勢にて散々に敗北をぞなしにける。また曹操は張繍を打たんと打ち立ちけるに、袁紹都へ攻めのびぼると聞く。忙てふためきて兵をおさめて遷りければ、袁紹も引き退ぞく。ここに於いて曹操評…

袁術七路攻徐州

袁術七路 徐州を攻むここに淮南の袁術は玄徳を攻めんとせしを、呂布轅門に戟を射て和睦せしめる。此の時曹操は宛城の張繍を伐たんと打ち立ちけるが、張繍はやくも降参しければ、張繍の亡き叔父張済の妻鄒靖氏をうばって、日夜酒色にふけりけりを張繍いかりて…

孫策大尓戦大史慈

孫策 大いに太史慈と戦う暫くあって、帝洛陽へ還幸ありしが、宮殿は焼け亡びける故、仮皇居へぞ入られける。曹操は荀紣がすすめにより、此の時に乗じ天子を挟みて四海に令せば「天下は掌ろの中にあり」と、上洛して李傕・郭艴を打ち払い、帝を許昌に遷し奉り…

楊奉董承救御駕

楊奉 董承御駕を救う曹操は詔を奉じて青州の賊を平らげし功にて鎮東将軍に封ぜらる。荀紣・程碰・典韋等いえる者を得て勢い遠近に振るい、徐州の陶謙を攻めんとしけるゆえ、陶謙大いに驚き諸所に救いを求めけるを、玄徳の仲裁にて和議ととのい、玄徳はそのま…

放反問計王允討董卓

反問の計を放ち王允 董卓を討つ華雄已に討たれければ、董卓自ら呂布・李儒を従え、虎牢関を固めける。袁紹方にも公孫瓚・陶謙など八ヵ国の大名代々戦えども、呂布が驍勇に敵しがたくもてあましたる所へ、虎鬚倒しまに立ち、丈八の矛を回して「燕人張飛なり」…

呂布刺殺丁建陽

呂布 丁建陽を刺し殺す董卓は大軍を率いて洛陽に入り、帝を廃し陳留王を建てんと計れども、並州の刺史丁原(建)陽、其の儀を非とし意に任せざりしかば、ついに丁原(建)陽の家臣呂布と云える英雄に赤兎馬と金千両を与えて味方となし、丁原を殺して遂に何太…

何進謀十常侍

何進 十常侍を謀るここに大将軍何進と云える人ありけるが、此の人もとは肉を商い賎しき者なりしが、一人の妹あり。天子の寵愛を受けしより、斯に立身し光和三年、妹何貴太子劉弁を産み奉り、皇后となりしより威権盛んなりしに、王美人と云える貴人にも劉協と…

劉玄紱破黄巾賊

劉玄徳 黄巾の賊を破る玄徳は五百余騎にて大奥山の麓まで攻め寄するに、賊の副将蠟茂と云う者打ち出でければ、張飛丈八の矛を提げ是れと渡り合い、只一合に馬より下へ突き落としければ、大将軍程遠志大いに怒り、馬を飛ばして打ってかかる。関羽側より跳り出…

祭天地桃園義尓結義

天地を祭りて桃園に義を結ぶ漢の霊帝の御宇さしも栄大なりしが、十常侍政権を専らにせしより、天下鼎の沸くが如くに乱れ、三國鼎立の乱世となる。其の濫觴を尋ぬるに、鉅鹿郡という所に張角・張梁・張宝と云う三人の兄弟ありて、南華老仙より妖術を授かり、…

義傳序・人物傳・義傳前

三國志銘々義傳自序そもそも 三國志の記著なる漢の霊帝 庸愚にして四海壊乱し 蜀に劉備 魏に曹操 呉には孫権 掎角して互いに 争ふこと 是れこの冊子の基礎たる 普様て軍記に 記されども いまこの一冊は其の英名を稚女幼童の為に 解しやす哉をむねとして 銘々…

『三国志銘々義傳』目次

鳥越安久里之助(1883年)『三国志銘々義伝1』東洲堂*1【三国志銘々義傳序・人物傳】【三国志銘々義傳】 祭天地桃園義尓結義 劉玄紱破黄巾賊 何進謀十常侍 呂布刺殺丁建陽 放反問計王允討董卓 楊奉董承救御駕 孫策大尓戦大史慈 袁術七路攻徐州 白門樓尓曹操…