臨済宗東福寺派霊芝山 大興寺

京阪本線出町柳」駅より京都市営バスで揺れること10分。「錦林車庫前」で下車し、西に10分ほど歩いた住宅地にひっそりと大興寺が佇む。

本寺は鎌倉時代に、女人禁制の比叡山延暦寺に代わり、宮中の女人のために後鳥羽上皇が創建したことに始まる。建久八年(1197)に鎮護国家祈願寺として後鳥羽上皇勅願寺となる。当初は天台宗の寺院であったが、後に臨済宗に改宗した。室町時代に応仁・文明の乱で西軍の山名宗全がここに本陣を敷くが、攻め込まれ焼失。安土桃山時代では織田信長の兵火により再度焼失する。江戸時代寛文二年(1662)に再興されるも、3年後に焼失。元禄五年(1692)にも焼失した。その後現在の地に移り、山門と住居兼本堂だけを構える。住職さんによると、かつては他の寺院のように本殿があったが本堂は倒壊の恐れがあったため17〜8年前に取り壊し、本尊をはじめとする諸像を現在の場所に移して本堂にしている、とのこと。


拝観料を納め本殿に通していただくと、須弥壇ではなく畳の上に本尊の薬師如来像や、その左右には四天王像が侍り、寺伝・運慶作とする十二神将像(うち10躯)が安置されていた。そして今回の目的である非公開の関帝像(以下、大興寺像)が高さ40cm、幅60cm 程の厨子の中に関平周倉ではなく関平関興像とともに置かれていた。なお彼らの手には寿亭侯印と青龍刀ではなく、うち一躯はアイテムを散逸しているがそれぞれ長モノを握っていた。そのため関帝信仰における周倉はこの時期はまだ固定化されていなかったのでは、と考えさせられたりもする。


像の撮影が禁止だったため古都の春、新たな出会い 特別公開19社寺をご紹介より画像を引用

さて、本寺が配布するリーフレットにこの像について次の解説文を載せる。

 関帝像は、三国志演義関羽その人であり、関帝聖君ともいいます。中央には玉座に坐す関羽、左右の脇士は子の関平と関與(周倉)です。像高さは約八寸でいずれも玉眼入りの彩色木造です。
 作年代および作者は不詳ですが、関帝と刻まれた額には、南宋武幹謹書とあります。縁起に尊氏はこの像を寺の一宇に祀るとあり、いわゆる関帝廟であったと考えられます。関帝廟は中国では商業や財力の神でありますが、当寺の関羽像は寺院を守護する伽藍神です。なお関羽は薬師を信仰していたと云うことから、関羽像は薬師如来を祀る寺に置かれることが多いようです。

まず住職さんが丁寧に大興寺像について数々の興味深いお話をされた。その内容を簡単にまとめると、1.関帝像は足利尊氏が戦の守り神として中国から取り寄せ、戦場に出る際も常に携行していた、2.作者、年代ともに不詳の「関帝」「南宋武幹謹書」と刻まれる扁額があり、像とともに中国から取り寄せた、3.像の右手が右腿につかずにやや浮いているのは関羽華佗に矢傷を手術させたことに由来(右腕が左腕よりも不自由だから)、4.江戸時代には関帝籤を置いた時期があった、とのことだ。

関羽の容姿は『正史三国志関羽伝にて諸葛亮の書状に「猶未及髯之絕倫逸羣也」と表現し、『三国志
義』では彼の容姿を「身長九尺,髯長二尺。面如重棗,脣若塗脂,丹鳳眼,臥蠶眉」とされる。今ではすっかりテンプレ化しているお馴染みの姿である。しかしながら大興寺像の髯は決して長くはなく、ただ細い鬚が一筋あるも我々の知っているようなモノとは大きく異なる。顔は赤く塗られていることが確認することができた。また目は切れ長ではあるが、そこまでつり上がってはおらず、眉は見方によってはやや太めに表現されていた。輪郭は教科書に掲載されているフビライ・ハンの肖像を彷彿させるような丸顔であった。


現存する関羽像・画のほとんどは関帝進仰が盛んになっていく明代以降に造られたり描かれたモノが多い。それ以前のモノでは元代(1271〜1368年)成立の『三国志平話』の挿絵や、現存最古の関羽像とされている金代(1115〜1234年)の義勇武安王像がある。この大興寺像は足利尊氏(1305〜1358年)が祀ったとされているため、信仰が発展していく時期の像であろう。また現在のような財神の性格は持たず、武神・護国神としての性格を持っていたと考える。

これまで日本各地の関帝像を調査してきて、その中でも大阪・四天王寺黄檗宗白駒山 清壽院像(1764年頃)や奈良県大和郡山市黄檗宗惠日山 発志院像(1711年頃)が特に古い像であった。そのことを踏まえると、それらよりも約500年も以前に将来した大興寺像は日本最古の関帝関羽)像であり、また世界的にも非常に古くそして貴重な像になり得よう。
リーフレットの「関羽像は薬師如来を祀る寺に置かれることが多いようです」という一文は正確ではなく、関帝像を置く寺院のほとんどには釈迦如来像が置かれている。


拝観後に足利尊氏との関係について調べるために文献を漁ってみると大島武好(1705〜)『山城名勝志 愛宕郡部 十三下』や栗原信充 編(1848)『先進繍像玉石雑志』に以下の記述があった。

尊氏卿、ある夜の夢に女来告て云、今汝に百戦百勝の術を教えん。大元国に軍神を求て信仰すべし、と。霊夢の如く元朝に求むるに、王関羽将軍の像を贈らる。尊氏卿此寺の傍に安置し給ふと見えたり。

つまり、足利尊氏の夢に現れた女が『百戦百勝の術を教えましょう。大元国の軍神を信仰しなさい』と告げたことから元に求めたところ関羽像を贈られた、とのことだ。しかし鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱期を舞台に足利尊氏の活躍を描いた『太平記』や江戸時代以前の史料には像に関する記述が皆無であった。意外なところから手掛かりを掴めるかもしれないので、これからも調べていきたい。



最後に。この大興寺像は真贋も含め様々な問題を孕んでいる。伝承と扁額によって関帝とされる像が何百年も大切に保管され祀られている。疑うことは容易であるが、現段階では肯定も否定もできるような判断材料がないためどうなのか断言はしない。この関帝像について非常に謎なことばかりなので「とても貴重な像が日本にある!」という認識を持っていただけると幸いである。


【参詣日】
・2014年9月14日(日)
【寺院情報】
・建立年 1196年(建久7年)
・本尊 薬師如来
・所在地 京都府京都市左京区浄土寺真如町17