崇福寺護法堂にもう一躯。そして…

昨日は崇福寺の護法堂の関帝像について取り上げた。

崇福寺関帝像」の霊験 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170215/1487137325

その像を調べている中で、崇福寺にはそれとは異なる別の関帝像らしき倚像が、同じ護法堂内の、しかも韋駄天を祀る天王殿の沙弥壇上に安置されているようである。

韋駄天の腰程までしかない像高の小さな諸像が並ぶ。先に記したように崇福寺へはまだ足を延ばせていないため、直接見たりお寺の方に取材を行なう等の確認は出来ていない。ネットに投稿されている画像を見る限り、天王殿の中央には合掌型の韋駄天像を置き、その左側には五大帝(うち四躯)が、右側には端から順に五大帝(うち一躯)、達磨倚像、誕生仏(?)、そして関帝らしき例の倚像と、前列に緊那羅布袋尊が並ぶ。

さて問題の像であるが、経年により全身の色は薄れてしまっており、右足の脛に金色がわずかに残るだけで、本来の姿を想像することができない。顔は白面で幘をかぶっており、朱然もとい鬚髯を蓄えて、両手は右腿の付け根あたりで組んでいる。聖恩寺像(伏見区)や発志院像(大和郡山市)に近いポーズである。

韋駄天像の右隣にあるこの像は関帝像か?


この像に関する記述が長崎市 編『長崎市史 地誌編仏寺部 下』(長崎市,1923-1925)にあったため以下に該当箇所を引用する。

この堂(護法堂)は享保十六年(1731)の鼎建に係り、嘗て韋駄天、五方五帝、緊那羅伽藍神等の像を安置せし故に天王堂、護法堂、伽藍堂、關帝堂等の稱が有つたが、禪堂の廢毀されし時其の本尊觀世音菩薩像を當堂内に移し、緊那羅王像は之を庫裡に移した。この堂は建立以来大破せし事なく、時に小修理を加へたるのみにて今日に至つた。

ここにある「伽藍神」が例の像を指すようである。黄檗宗寺院に達磨像とともに安置される伽藍神と言えば関帝か華光菩薩像程度しかない。よってこの像は三つ目で無髯ではないため、関帝という認識でよさそうだ。

崇福寺に訪れられる際には、関帝堂の関帝像だけでなく護法堂に安置されている関帝像も是非拝観して欲しい。




以下、余談。
上述した通り崇福寺には関帝像が二躯存在する。このことからひとつの寺院に同じ像が複数体存在する可能性が考えられる。

長崎市史 地誌編仏寺部 下』には寺院の建坪変遷表が掲載されている。なお3ページにまたいでいたため、1つに合わせた。

この表には寳永四年(1707)、天明年間(1781〜1789)、明治八年(1875)、大正十年(1921)での建物の建坪がどのように変化したのかまとめられている。禅堂を例に上げると寳永四年では奥行六間・横幅が七間半もの大きさであったが、天明年間では増減築等の変化はないものの、明治八年にはそれがなくなった、ということがわかる。
おそらく現在の護法堂であろう天王殿は、全ての年において大きさに変化が生じている。また天明年間には韋駄天と関帝、そして五帝が合祀されたとする記述は非常に興味深い。關帝堂や五帝堂が天明年間までになくなったため、そこで祀られていた諸像が天王殿に移されたのかもしれない。この関帝堂は、以前にゃもさんが触れられたシーボルトと日本人画家の川原慶賀が描いた関帝像が祀られていた堂と同一であろう。

シーボルトが見た関羽? - 三国与太噺
http://d.hatena.ne.jp/AkaNisin/20140925/1411581709

上のブログ記事でにゃもさんが指摘されているように現在、護法殿内の関帝堂に祀られている関帝周倉関平像と描かれた像それとは全く異なるように見える。また今回取り上げた韋駄天像の隣に坐す関帝像の容姿とも違う。現存する関帝像二躯とは別の像が、かつてこの崇福寺にあったのではないだろうか。それが関帝堂の廃毀とともに消えたのかもしれない。


シーボルト『NIPPON V』TAB.L Ⅷより


川原慶賀の見た江戸時代の日本1より