黄檗宗分紫山 福濟寺

フーコの振り子がある「萬国霊廟長崎観音」で有名な長崎市筑後町の「福済寺」。「長崎三福寺」のひとつに数えられ、福建省泉州府出身の覚海によって寛永五年(1628)に開創した。
開創当時は、幕府がキリシタン禁止令を発令し、南蛮伴天連や日本のキリシタン教徒を取り締まっていた。貿易等の理由で在日している唐人らは、自分はキリシタンではないことを証明するために、寺院の檀家になる必要があった。その流れで、唐人らは自身が所属するための唐寺を建てようとする動きが出始めた。南京地方が出身の人々は元和六年(1621)に興福寺(南京寺)を建立し、寛永五年(1628)には泉州出身者により福済寺(泉州寺)が、そして翌年の寛永六年(1629)には福建省出身者によって福済寺(福州寺)が相次いで建立していったのである。

福済寺は本堂や大雄宝殿、護法堂、斎堂、青蓮堂、鐘楼などを構えており、本堂や青蓮堂などが明治四十三年(1910年)に国宝に指定された。しかしながら昭和二十年(1945)に投下された原爆に被爆したため完全に焼失してしまい、現在は万国霊廟長崎観音がその跡に建てられている。


余談ではあるが、長崎総合科学大学 村田明久教授が監修し再現された福済寺の模型が長崎歴史文化博物館の2階に展示されている。そこではパネルに次の説明がされている。

寛永5年(1628)、明僧覚海を開基とする黄檗宗寺院。向かって左が本堂(大雄宝殿)を中心とした護法堂、開山堂の一画、右が青蓮堂(観音堂)を中心とした大観門、鐘楼の一画で、いずれも廻廊のある石敷中庭を囲む。書院、方丈、庫裏が間にある。本堂は慶安2年(1649)建立、重層入母屋造本瓦葺。青蓮堂は翌慶安3年(1650)に建立、単層入母屋造瓦葺。山門は万治元年(1658)建立、八脚門、入母屋造本瓦葺。明式を主として日本的手法を加えた意匠で、装飾のきわめて豊富なものであった。

さて、例のごとく長崎市 編『長崎市史 地誌編仏寺部 下』(長崎市,1923-1925)を参照すると、青蓮堂に関帝像が安置されていたようである。

逭蓮堂
 一に観音堂と云ふ。(中略)堂内は佛殿中央及び経蔵室左右に区分されている。佛殿の結界内正面壇上高四尺前幅壹丈四尺六寸には観世音菩薩、善財童子、龍女、韋駄天、毘沙門等が祀ってある。而して左壇には天后聖母とその侍女脇立の像が安置してある。右壇には関帝関平周倉等の像がある。

この青蓮堂についてビジュアル資料が残されていないか探したところ、こちらのサイト様に絵葉書「福済寺青蓮堂(特別保護建造物) 及其内陣」が紹介されていた。転載等についての規約が掲載されていなかったので、以下にその画像を引用する。


向かって左側に置かれているのが関帝像である。少し粗いが拡大してみると、関帝像を中心に、左側には青龍刀を手にした周倉に、左小脇に印を抱えている関平像が確認することができる。
これらが現存していないことが非常に残念である。