宮田安『長崎崇福寺論攷』(1975年8月)

崇福寺に置かれる関帝像について調べるために、福岡県立図書館が所蔵する宮田安『長崎崇福寺論攷』(307/500部,長崎文献社,1975年8月)を閲覧する。

崇福寺に関しては、長崎市が刊行した『長崎市史地誌編佛寺部』が基礎資料である。しかしながら『長崎市史』に記載されている内容は、準拠した史料や出典などの情報が明記されておらず、それに記述されている事柄を鵜呑みにすることができず、必要に応じてその都度裏取りする必要がある。本書は宮田氏によって可能な限り判明したソースが示されており、崇福寺について調査・研究する上ではなくてはならい一冊である。構成は次の通りである。

長崎崇福寺論攷総目録

まえがき
凡例

第一章 論文と史料
 第一節 崇福寺の古絵図 3
 第二節 崇福寺の創建 11
 第三節 崇福寺住持世代 29
 第四節 即非禅師略年譜 59
 第五節 范道生 89
 第六節 崇福寺に秘蔵される仏舎利塔と唐僧大衡禅師略年譜 97
 第七節 大成の唐僧請待 139
 第八節 寶林禅師年譜 157
 第九節 所蔵書画目録 187
 第十節 史料目録 203

第二章 建造物
 第一節 崇福寺三門(竜宮門) 重要文化財 247
 第二節 第一峰門 国宝 263
 第三節 大雄宝殿 国宝 275
 第四節 釈迦三尊 295
 第五節 崇福寺十八羅漢 301
 第六節 護法堂 重要文化財 309
 第七節 鐘鼓楼 重要文化財 325
 第八節 梵鐘銘 333
 第九節 大釜 339
 第十節 媽祖堂および媽祖堂門 重要文化財 341
 第十一節 開山堂 359
 第十二節 壽山即非和尚舎利墖銘 369
 第十三節 祗樹林開基唐僧雪广禅師 373
 第十四節 祠堂 383
 第十五節 方丈・書院・庫裏 389

第三章 石碑と墓碑
 第一節 鄭幹輔の碑 399
 第二節 穎川重寛の碑 403
 第三節 三塔 405
 第四節 唐僧墓碑 411
 第五節 著名な墓碑 413

第四章 開創期の大檀越と家系
 第一節 何高材の事蹟と何氏家系 421
 第二節 兪(河間)家の墓の発見と兪氏家譜・林氏家系 463
 第三節 鉅鹿家の墓地 521

今回の目的である関帝像に関してであるが、第二章 第六節の護法堂の項にしか記述がなく、またそれは像自体の考察や由来ではなく、かつて取り上げた霊験についてであった。

崇福寺関帝像」の霊験 - 尚書省 三國志http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170215/1487137325

以下に本書のP.310-312に記されている霊験について引用する。

 むかし関帝のお供えを鼠が食べるので、ある日即非禅師が、関帝像の右の頬を打ったら、像の漆が剥げ落ち、翌朝韋駄天の剱が鼠を刺していた。その後、何度関帝の頬を漆で修理してもまた剥げ落ちたという。

 右の話は、長崎圖誌(正徳五乙未一七一五年著作)に載らないで、増補長崎圖誌に『文竜按ずるに』として記載されている。長崎名勝圖繪もこの話を載せているが、長崎名勝圖繪は饒田喩義*1が野口文龍藏や打橋竹雲らと共に編纂したといわれているので、文化年間頃の言い傳えた話なのだろう。福濟寺の関帝の赤免馬*2の話の方がむしろ古く、正徳御念の長崎圖誌にすでに載っている。(注3)*3

「赤免馬の話」とは、かつて福濟寺にあった石兎馬の塑像の伝承についてである。

・福濟寺「石兎馬」伝説 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170312/1489278040

 関帝に対する華僑の尊信は厚く、現在でも年二回、旧暦正月十三日と五月十三日に関帝祭をしている。
 享保十六年(一七三一年)に護法堂が新築される前は、宝永五年(一七〇八年)の聖壽山十二景図によって窺う外に手段がない。この図では海天門に向かって右に、小さな建物とすこし大きい建物が連なっている。

 宝永四年長崎寺社帳および宝永六年本寺歴代主法并渡海唐僧来由簿の建物はその名稱順序まで殆んど一致するが、大雄八間四面、天王殿壱間半 貳間、廊下貳間 六間、禅堂六間 七間半、鐘樓三間四面、齊堂三間 四間、庫裏五間 九間、唐門貳間半 三間、媽祖堂五間 六間、同門三間 五間、傳法堂六間 七間、祖師堂貳間半四面、関帝堂貳間半四面、祠堂三間四面、書院四間 八間半、方丈三間 五間、副司寮六間 四間、五帝堂貳間半四面、山門四間 六間但西向、看門舎三間 四間、浴室貳間半 五間、經堂四間 五間 本尊毘盧舎那佛、裏門貳間 三間、以上は寺社帳の記録である。
 聖壽山十二景図の海天門に向かって右に画かれた建物は、天王殿と関帝堂であろうか。にわかに決しがたいところである。

*1:にぎた ゆぎ

*2:ママ

*3:3 長崎市立博物館所藏の『長崎圖誌 全』と、『増補 長崎圖誌 全』による。コウシャに、文竜按として関帝傳説が出るが、前者には出ていない。