吉元昭治『日本伝説紀行ガイド』の関帝編(1/2)

昨日の記事に記載したように今回と次回の2回に分けて、吉元昭治『日本伝統紀行ガイド』(勉誠出版,2001)の関帝に関する記述をメモとして引用する。本文は一字一句そのまま引用する。文中に住所が記載されているが、文字だけではその所在が分かりにくいため位置情報を明らかにするため地図を挿入した。
また、気になる点があれば、引用後の枠外に誤りの指摘や感想、補足等を記述する。

・吉元昭治『日本伝説紀行ガイド』(2001年7月10日) - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170515/1494815385

関羽
 『三国志演義』で有名な関羽(一六二―二一九)は、蜀漢の建国に貢献。劉備張飛と義兄弟の契りを結び、共に活躍した。関羽は東奔西走、席も温まる暇のないくらい戦いに明け暮れるが、武運つたなく、呉軍に捕らえられ、長子の関平と共も斬られる。彼は義に殉じた事から、義理に厚い―商売の神様に崇められ、中国民衆の中に深く根をおろし、次第に万能神になっていった。
 関羽関帝または関聖帝君といわれ、いろいろな民間宗教の経典にも関帝を冠したものが多い。

上述した説明文を読むと、関羽の来歴について演義をベースにした内容になっている。歴史上の事柄として誤認しているのか、参照元がそのように表記してあったかは不明であるが、おそらく筆者は三国志作品をあまり読まれていない印象を受ける。

長崎市 崇福寺
 長崎県長崎市鍛冶屋町
 市電正覚寺下車、東北の方向に徒歩約二〇〇メートルも歩くと、聖寿山崇福寺の中国風の門前につく。【写真251】この寺は寛永六年(一六ニ九)中国福建省出身の中国人が幕府に願い出て建立したので福建寺ともいわれる。石段を昇ると本殿(大雄宝殿 国宝)の前に護法堂(重要文化財)があって、【写真262】右から関帝堂、観音堂、天王殿となっている。関帝の右に関平、左に周倉関羽の部下、関羽父子が呉軍により殺されると、のちに自ら命をたつ)がひかえている。【大雄宝殿】の右奥に媽祖堂が独立してある。


〒850-0831
長崎県長崎市鍛冶屋町7−5

護法堂の関帝堂の沙弥壇上に関帝像がある、ということ以外の情報は皆無である。崇福寺黄檗宗寺院で山号は聖寿山。崇福寺に伝わる関帝の霊験や、同じ護法堂内の天王殿の沙弥壇上に関帝像がもう一躯安置されていること、さらに年に二度(1月15日・5月15日)も関帝の祭りが催されている。また国内で唯一の媽祖のみを安置した媽祖堂がある。

崇福寺関帝像」の霊験 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170215/1487137325

崇福寺護法堂にもう一躯。そして… - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170216/1487230055

崇福寺の年間行事 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170224/1487866840

長崎市 興福寺
 長崎市寺町。崇福寺を出て右に曲がり、次の角をまた右に曲がり、道なりに徒歩約十分で右側に興福寺を見る。寛永九年(一六三二)南京地方の人が建てたので南京寺ともいう。本堂大雄宝殿は重要文化財、この左側の建物が媽祖堂であるが、この中の右側にも関聖大帝菩薩として関帝が祀られている。
 その他長崎では原爆で潰滅した福済寺(福建省漳洲州の人が建てたので漳洲州寺という)があった。以上の三寺を三福寺または唐三箇寺ともいう。また、あとでできた聖福寺を加えて唐四箇寺ということもある。


〒850-0872
長崎県長崎市寺町4−32


〒850-0052
長崎県長崎市筑後町2−56

興福寺黄檗宗の寺院で、山号は東明山。媽祖堂の中央沙弥壇上に媽祖とその従者が、向かって右沙弥壇上に関帝関平周倉像が、左沙弥壇上には三帝大帝を置く。本寺の関帝像は、他の黄檗寺院に安置されている関帝像と異なり、全身に金箔が施されており、文官風の服装で身を包む。

福済寺も黄檗宗の寺院である。山号は分紫山。本堂や大雄宝殿、護法堂、斎堂、青蓮堂、鐘楼などを構えていたが、昭和二十年(1945)に投下された原爆に被爆した完全に焼失。現在はかつて本堂があった跡地に万国霊廟長崎観音が建てられている。青蓮堂の中央沙弥壇には観世音菩薩、善財童子、龍女、韋駄天、毘沙門が、向かって右沙弥壇上には天后聖母とその侍女の像が、そして左沙弥壇上に関帝関平周倉像があった。

黄檗宗分紫山 福濟寺 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170311/1489195833

・福濟寺「石兎馬」伝説 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170312/1489278040

・福濟寺の年間行事 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170313/1489331044

和歌山県 滝見寺
 【写真264】和歌山県那智勝浦町
 徐福のところで、でてきた滝見寺に関帝を祀った堂がある。

※徐福の項(P.26)で記載されている文章を以下に引用する。
和歌山県那智勝浦町 滝見寺
 那智大社青岸渡寺をお詣りして県道四十六号線を下る途中に「滝見寺」がある。一寸見逃しそうな中国式寺院である。中国人の方が建てたという。テラス状の広い場所に三つの独立した中国風の廟があり、左から関帝廟観音堂、【写真45】徐福廟となっている。【写真46】この徐福廟の中に徐福像が祀られている。余り名は知られていないが、訪れる価値はあるだろう。


〒649-5301
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山168

滝見寺の正式名称は臨済宗妙心寺派那智山瀧見寺、通称奥ノ院。現在は廃寺のため、立ち入りが禁止されている。『那智勝浦町史』によると、弘安三年(1280)に法燈円明国師により帰峯山観音寺奥之院として開基し、本尊は如意輪観世音菩薩を置いた。おそらく昭和の頃(遅くとも1972年8月まで)には、当初の姿とは全く掛け離れた現在のコンクリート造りの道観へと変貌を遂げた。

那智勝浦「関帝廟」について - Togetterまとめ
https://togetter.com/li/723453

兵庫県 神戸関帝廟
 兵庫県神戸市中央区中山町七町目。神戸市営地下鉄県庁前駅下車、県庁をすぎ、下山手通りの信号を右折、さらに次の信号を右折すると、左側に中国風の赤い柱の門がある。【写真265】ここが神戸関帝廟である。【写真266】今は阪神大震災で本堂が倒壊し現在修復中である。仮本堂には関聖帝君が中央に立ち、脇侍として関平、【写真267】周倉を伴っている。その向かって右には観世音菩薩、左に天后聖母(媽祖)が並んでいる。震災前も訪ねているが、早くもとの姿にかえるよう願っている。


〒650-0004
兵庫県神戸市中央区中山手通7丁目3−2

神戸「関帝廟」の前身は大阪府中河内郡布施村にあった長楽寺である。やはり長楽寺も黄檗宗寺院であった。明治25年(1892)に現在の地へ移され、昭和14年(1939)に関帝と天后像を迎え安置する。昭和20年(1945)に戦災によって完全に焼失した。昭和22年(1947)に華僑の有志により跡地に関帝廟が造営され翌年に完成し、現在に至る。

大阪市 清寿院関帝廟
 大阪市天王寺区勝山通二丁目。通称南京寺、四天王寺の東大門前の大通りを渡り、東に二本目の通りを右に曲ると、中国風の門が左側に見える。【写真268】
 ここは初め禅宗黄檗寺の末寺であったのだが、明治以後大阪居留の中国人が関帝像を祀った。その後、戦災にあい焼失したが漸次復興している。
 中央に関聖帝君が関平周倉を供とし祀られ、正面右側に財神翁、左に天上聖母が祀られている。【写真269】


〒543-0043
大阪府大阪市天王寺区勝山2丁目6−15

清寿院も黄檗宗寺院で、山号は白駒山。明和元年(1764)に大肩によって中興開山され、早くとも明和年間(1764〜1772)に、関帝内裏にて祀られている関帝周倉関平の三尊が本尊として置かれたのではないかと考える。本殿には中央に経文を手にした関聖帝君が関平周倉を供とし祀られ、正面右側に財神翁、左に天上聖母が祀られている。