京都芸苑巡礼会 編『黄檗山芸術案内』(1927年7月17日)

京都・宇治に所在する黄檗宗大本山 萬福寺。そこがの所蔵する仏像や絵画、建築等の概略を簡潔にまとめたガイドブックが京都芸苑巡礼会 編『黄檗山芸術案内』(黄檗山万福寺,1927年7月17日)である。その序文に「明治末〜大正にかけて仏教芸術の各分野の研究が進んだが、それを踏まえた総合的な芸術案内がないためこの小冊子を作成した」という主旨が述べられている。

さて幸いなことに本書はNDLのデジタルコレクションで公開されている。今回はこれを用いたい。

国立国会図書館デジタルコレクション - 黄檗山芸術案内
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1110061

まず本書の目次は以下の通りである。なお旧字体や旧仮名遣いが用いられているが、引用するにあたりいずれも新字体と現代仮名遣いに改めて記す。

黄檗山芸術案内目次

一、黄檗山芸術案内を編みて…巻頭
一、黄檗山略誌…1
一、黄檗山建築物…8
一、黄檗の書と画…13
一、黄檗山蔵書画目録…18
一、黄檗式彫刻…23
一、鉄源禅師開刻一切蔵経…29

今回は「黄檗式彫刻」の項より笵道生が作成した仏像に関する記述を引用する。

黄檗山に笵道生作として伝えられるものは
○大雄宝殿安置木造釈迦坐像一躯、同迦葉尊者像一躯、同阿難尊者像一躯、同十八羅漢像十八躯
○法堂―紙張観音大士坐像一躯、木造財善龍女立像弐躯
○祖師堂―木造達磨大師坐像一躯
○天王殿―木造弥勒菩薩坐像一躯、木造韋駄天立像一躯
○伽藍堂―木造華光大士坐像一躯
○斎堂―木造緊那羅王立像一躯
等である。此のほか天王殿の四天王立像、法堂の毘盧遮那佛坐像をはじめ数多の諸佛像は笵道生系と見るも差し支えなきもの、全佛像を通じて極彩色の細密彫塑である。かかる様式は明末から清初にかけての傾向であったが、同山の建築が日本化されて居るにもかかわらず、彫刻は日本化されて居らぬ。即ち明末の直写であって創作的な処は少ないのである。

小冊子発行にあたり萬福寺が大きく関わっているため、仏像をはじめとする所蔵品の名称が明記されている。その中でやはり気になるのが伽藍堂に安置されている華光菩薩像である。伽藍堂が建立されておよそ40年後に無著道忠によって記された『禅林象器箋』(1715年)には、「萬福寺関帝は通常と違って三目であるが、その所以は分からない(原文:忠曰。日本黄檗山伽藍堂神。三目。問之則云。關帝也。關帝見智者時。始言三目。未知唐人何據矣。)」という指摘がある。この三目の像は関帝ではなく華光菩薩像であり、早い段階で誤認が生じていたことが伺える。『黄檗山芸術案内』では関帝像の記述は見えず、上に記したように伽藍堂に「木造華光大士坐像」があると記される。すなわち遅くとも1927年までには萬福寺では誤認が解消され華光菩薩像として認識されていたようである。
華光菩薩像を置く黄檗寺院末寺が大本山に追従してその像を「関帝」として安置したため、現在も国内各地でその誤認による影響が見られる。それはまた頁を改めて紹介していきたい。

本書がまとめられるまでには誤認が解消されていたと述べたがその時期はいつなのかは未明である。どのくらいの期間関帝としていたのかを明らかにするためにも、まずはその時期を特定していきたい所存である。