福濟寺護法堂の諸像について

先日Twitterにて松岡さん(@mokujiki2)が投稿された次の引用ツイートに目がとまった。引用元は黄檗宗分紫山 福濟寺に関するモノであった。

半年程前に言及したが、福濟寺は原爆に被爆し焼失したため、現在はかつての堂宇は存在しない。そのためこのような絵葉書や絵画等は当時の様子を知ることができる極めて貴重なビジュアル資料である。しかも福済寺の絵はがきを掲載したサイトに掲載されていない種類であったり、私事であるが初めて見るものでもあったため非常に収穫のある情報であった。

黄檗宗分紫山 福濟寺 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170311/1489195833

・ 長崎名所唐寺福済寺絵はがき
http://hrp.mad.buttobi.net/fukusaiji.html

やはり気になるのは韋駄天とともに祀られている像である。果たしてこれらは何なのであろうか。
まず長崎市 編『長崎市史 地誌編仏寺部 下』(長崎市,1923-1925)で確認を行う。大雄宝殿や青蓮堂等の特徴やその堂内の様子について詳細に記されていたが、護法堂に関する独立した項や、記述を探すもそこには記述がされていなかった。先述した絵はがきのサイトに「福濟寺護法堂の一佛布袋像 寛永十年佛工林高龍及吳眞君之作になる大素像」と印字された絵はがきがあることから、おそらく中門の天王殿・弥勒殿の別称が護法堂、もしくはその建物内部に護法堂(という名の須弥壇か)があったものと思われる。
長崎市史』に「弥勒殿に布袋尊が安置されている」と記述があるため、このことから韋駄天と布袋像はおそらく黄檗宗大本山 萬福寺の天王殿内部と同様の配置(韋駄天像と布袋尊像が板1枚、もしくは壁を隔てて背中合わせで安置)されていたのではないだろうか。

とりあえず祀られていた場所は推測することができた。しかしながら掲載されている仏像・什物記録にすら眷属に関する情報がなかった。ゆえに後に新たに作られた、あるいは華僑の檀家により寄贈等でもたらされたものではないだろうか。

さて記述がないということで、画像に映る像の特徴を踏まえて以下のツイートを投稿した。

その根拠は次の通りである。
まず両端の像(1・9)は顔が人ではなく鬼のように見えるため、1は千里眼、9は順風耳である。2番目の像は冠や腹部の装飾から華光菩薩のように見えるが、冠から肩に垂れている布と、千里眼・順風時が置かれていることからその中尊である媽祖(天后聖母)倚像だと推測できる。
続いて3番目の像についてである。この像は手に長柄の武器を持っており、7番目の像と服の模様や色彩や濃淡が非常に類似している。7番目の像は両手で左胸部あたりに四角い持物を掲げている。よって、これらは青龍刀を手にする周倉と「漢壽亭侯」印を持つ関平であろう。これらの中尊は関帝(関聖帝君)一択である。この2躯の服装より、最も模様等が共通しており、加えて有髯の像と条件を絞ると、8番目の像が最も有力であろう。
残るは4番目と6番目の像である。まず4番目の像は髯を蓄え棒状の「何か」を手にしている。一方後者は無髯で両手を左腰付近で組んでいる。これらは服の濃淡が同じように見える。韋駄天には特定の脇侍はないため、三尊形式からこれらの特定・推測はすることができない。またこの2躯は関帝関平像のようにも見えるが、他に手がかりとなるような特徴がないため、今回はその可能性がある、ととどめておきたい。

よってツイートで述べたように、これらの像は左より順に1.千里眼、2.媽祖、3.周倉、4.?、5.韋駄天、6.?、7.関平、8.関帝、9.順風耳と推測する。やはり情報が限られているため胸にモヤモヤ感が残る。もし他に意見等があればコメントにてご教授いただきたい。


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