永平寺 まとめ

今回はこれまで永平寺について投稿した記事の内容と、調べたことの情報を整理していきたい。あれこれ手を広げ過ぎては収拾がつかなくなるため、例のごとく仏殿のみに絞る。

永平寺福井県吉田郡永平寺町に所在する曹洞宗の寺院で、横浜市鶴見の總持寺と並び大本山の寺格を持つ。山号は吉祥山。広大な境内に山門、仏殿、法堂、僧堂、大庫院、浴室、東司、承陽殿、鐘楼堂、勅使門、祠堂殿、吉祥閣等の伽藍を構える。

明治三十五年(1902)に道元の650回大遠忌記念で改築されたとされる仏殿には本尊の釈迦牟尼佛像(像高87.8cm)を祀る。仏殿には3つの須弥壇が設けられており、中央須弥壇の上部には縦書きで「祈祷」と書かれた扁額を掲げ、壇上には釈迦牟尼佛像を中尊に、向かって左側には阿弥陀如来坐像(像高88.8cm)を、向かって右側には弥勒菩薩坐像(像高87.3cm)を安置する。左より順に過去、現在、未来の三世を現わす所謂「三世仏」である。

左右の須弥壇はそれぞれ三つに区切られている。またそれらの上には「列聖」「護灋」と横字で記された扁額が掲げられる。両者ともに玄透即中禅師の筆である。
向かって左壇上には「列聖」の扁額の下に、左より順に道元禅師の師である如浄禅師像、達磨大師像、そして位牌を置く。この「列聖」には「代々の天子」という意味を持つ(そうだ)が、ここでは「尊く聖なる代々の祖師方」という意らしい。如浄禅師像の前には「明州天奮長萌如浄天和尚禅師」と記された牌が、また達磨大師像の前には「震且初祖圓覺大師菩提達磨大和尚」と記された牌を置く。
右壇上には「護灋」と記した扁額の下に、同じく左より順に寺伝「大権修利菩薩」像、「土地護伽藍神」像、そして位牌を置く。なお「護灋」の灋は法の旧字体のため現代字で表すと「護法」となる。
こちらも左壇上と同様に、大権修利菩薩像の前には「招寶七郎大権修利菩薩」と金字で書かれ牌が、また土地護伽藍神像の前には「佛勅護持護法伽藍善神王」と記された牌を置く。

達磨像と大権修利像と牌は、仏師・江里康慧氏によって造られ、2008年に納入されたものである。おそらく仏殿の中で最も新しいものであろう。非常に失礼な言い方であるが、永平寺は1躯ずつではなくこの2躯を同時に納入した事より、やはり曹洞宗寺院において達磨・大権修利の関係や重要性を窺いしることができる。
これまで仏殿に置かれていたその二躯(以下、旧達磨像・旧大権像とする)は、現在永平寺内の宝物殿「瑠璃聖宝閣」にて保管・展示されている。
浅見 龍介(東京国立博物館)「調査報告 永平寺の中世彫刻」(『MUSEUM』第629号,2010.12)に拠ると、旧達磨像(像高64.3cm)の像底に朱漆で「〜京都四条□□ 法眼七条 康□ 倅法橋七条□□六〜」と銘文が、また旧大権像(像高57cm)の下腿部裏側に同じく朱漆で「〜神破損 福井住 河瀬勝成判 四十六世代 安永三午四月日 五社神潤色 京四条大仏職 法眼七条左□(京)康伝 法橋七条大弐康朝」と銘記される。旧達磨像は鎌倉〜南北朝期の院派仏師の作、旧大権像もこの頃の作と浅見氏は指摘する。

さて、一方の華光像は像自体の状態は非常に良いものの、牌が全体的に退色や剥離等の損傷が見られ、作られた当初のまま現在に至ると思われる。後世に残すためにも何とか修復等の対策を講じて欲しいところだ。前述した通り、永平寺では華光像を伽藍を護る神様「土地護伽藍神」という名称で認識されていることから、「華光菩薩」を祀っているという意識はないようである。またその前方の牌に「佛勅護持護法伽藍善神王」とあるため、広瀬良文「中世禅宗の土地伽藍神について――建長寺永平寺像を中心に――」(『印度學佛教學研究』62(2),pp723-726,2014)でも指摘されているように土地龍神祭祀を継承して(その祭祀の延長上に)「龍天護法大善神」として置いているように思われる。
各方面の方々より「曹洞宗はかつて黄檗宗との関わりを消すために、仏具や資料が処分された(反黄檗運動)」「黒歴史なので文献資料が残されていない」とご教示いただいた。江戸時代以降の仏像や彫刻研究もあまり行われていないため、いつ・どのような経緯で、なぜ華光が永平寺が置いたのか等、その詳細のほとんどが不明である。
今後の自身の調査や、この分野の全体の研究が進むことによって、1つでも多くの「なぜ」が明らかになることを願うばかりである。