黄檗宗神護山 先聖寺 其の二

先聖寺の華光像の足元には何故か達磨像のモノと思われる履が一組置かれている、と以下のように言及した。

参詣するまでは1.達磨像の足元に履を置くスペースがないため華光像の前に置いたのか、2.元来より華光のアイテムとして置かれているのか等とその理由を考えていた。実際にその二躯の確認を行う。


それぞれの像が腰掛ける彔の形状が全く同じである。現在は左右非対称(達磨像は中央須弥壇上に本尊の釈迦牟尼仏像向かって左に、華光像は右須弥壇上に単体)で安置されているが、当初は対に置かれていたと思われる。耳の形状や顔の表情も共通することから同じ仏師が手掛けたものであろう。安置、および制作時期については定かではないが、開山した直後の17世紀末〜18世紀初頭にかけての作であろうか。
さて、例の履についてであるが、他の寺院の達磨像の例を踏まえるとやはり達磨像のものである。達磨像の足元にはそれを置くスペースは十分にある。どうやら空間的な問題が要因ではなさそうである。先の記事でも記したが、当日は住職さんにお会いすることができなかったため、なぜそこにそれが置かれているのかは今回は明らかにすることができなかった。既に華光は履を履いているにも関わらず、お寺の方は何を思って華光像の前に置かれたのだろうか。


本堂の北側には現在も



さて先聖寺はかつては熊野町にあったが、後に外町に移され現在に至る。かつての場所には熊野神社がたたずむ。そのすぐそばに次の立て看板が設置されていた。

この右側の開けた場所に堂宇があったのだろうか。

熊野町
 町内に熊野神社があることからこの町名が起こった。以前、神社境内には、熊野山・先聖寺があった。(現在の外町にある先聖寺)
 この町内は、寛永の頃(一六二四〜一六四四)には、魚屋町に属していた。町の南端には、江戸時代に「薬師口」という木戸があり、城下町と外部との境をなしていた。町内には「住吉白楽天」のからくりで知られる犬山祭の車山「住吉台」がある。

犬山駅のすぐ近くに犬山市立図書館があったため、帰りに先聖寺に関することを調べてみるも「所蔵する郷土資料に先聖寺に関する記述を掲載する図書がない」ということが判明した。非常に遺憾である。