足利尊氏の霊夢

今回は三国志研究会(全国版)にて、ぼるどさん(@Bolxfoy)よりご指摘をいただいたことを以下に記したい。お話しを伺うと確かにそうだ、と腑に落ちる点があったためおそらくそうであろうと考える。
足利尊氏関帝像を祀った」という伝承の情報源としてよく挙げられる資料『山城名勝志』宝永二年(1705)。先行研究では以下に引用する記述を、当然の事であるがそのまま論文等に掲載されている。
なお濁点と句読点は適宜補い、変体仮名はひらがなで表記する。

尊氏ある夜の夢に女来告て云、今汝に百戦百勝の術を教えん。大元国に軍神を求て信仰すべし、と。霊夢のごとく元朝に求るに、関羽将軍の像を送らるる。尊氏此寺の傍に安置し給ふ。
『山城名勝志』巻十三下 愛宕郡

おそらく上の資料を基にして記されたと思われる天明七年(1787)成立の秋里籬島,竹原春朝斎 画『拾遺都名所図会』では次のように記される。

将軍尊氏公ある夜の夢に女来り告て云、今汝に百戦百勝の術を教えん。大元国に軍神を求て信仰 すべし、 と。霊夢の如く元朝に求むるに、王関羽将軍の像を贈らる。尊氏卿此寺の傍に安置し給ふ。
『拾遺都名所図会』巻之二 左青龍尾

最後に栗原 信充 編(1848)『先進繍像玉石雑志』 の記述である。

山城國愛宕郡芝薬師縁起に尊氏卿ある夜の夢に女来告て云、今汝に百戦百勝の術を教えん。大元国に軍神を求て信仰すべし、と。霊夢の如く元朝に求むるに、王関羽将軍の像を贈らる。尊氏卿此寺の傍に安置し給ふ。
『先進繍像玉石雑志』巻第八

まずは以前より引っかかっていることを2点紹介したい。1点目、なぜ「女」が霊夢に登場しているのか、しかも一切の説明がされていない。霊夢の多くは神仏や動物が登場し、夢を見ている人物に予言をもたらしたり吉凶を表したりする。例えば三国志における霊夢では、樊城の戦いの時に関羽が猪に足を噛まれる夢を見たものが有名であろう。内容は呂蒙関羽を攻めるということを示唆する予知夢である。つまり呂蒙の「蒙」の字には、いのししやぶたを表す「豕」を含んでいるため、関羽を攻撃するということを示唆する。
2点目は夢に「現れて」ではなくなぜ「来たりて」と記されているのかである。文脈的にもこの一文が浮いているように思われる。

前置きが少し長くなってしまったが本題へ。
ぼるどさんより頂いたご指摘は「女」ではなく「如」ではないか、ということである。『山城〜』における「女」の三画目とそのすぐ後の「汝」の六画目を比較すると、筆の運びが若干異なるようにも見える。推測の域を脱するためにもそれに記述されている「女」及び「女を含む字」の用例を確認するつもりである。

もし仮に女ではなく「如」であった場合、「ある夜の夢に如来告て云、今汝に百戦百勝の術を教えん」と大きく内容が変わる。このように解釈すれば先述した2点の違和感も解消される。ひとまず確認作業が終わるまで仮説としてこのように理解しておきたい。

先行研究では狩野 直禎(1985)『「三国志」の知恵』講談社現代新書,pp.19-37や山田 邦和「まちかど歴史散歩(31)京都の関羽さま―芝薬師大興寺」」(『歴史街道』平成 13 年 11 月号, PHP研究所)の他、満田先生も「女来告て〜」と紹介される。やはりいずれも「如来」と解釈はされない。


『山城〜』以降に刊行されたガイドブックでは、いずれも「をんな」とルビが振られているため、これまで各先生方がその読みをされていた。そのため当然のことながら何の疑いもなくそのように「女来たりて」と読むものだと認識していた。

すっかり先行研究に騙されてしまっていたじゃないか
原点を当たるのは本当に大切である、