孫堅の忌日(193年1月7日)

初平三年,術使堅征荊州,擊劉表。表遣黃祖逆於樊、訒之間。堅擊破之,追渡漢水,遂圍襄陽,單馬行峴山,為祖軍士所射殺。
典略曰;堅悉其衆攻表,表閉門,夜遣將黃祖潛出發兵。祖將兵欲還,堅逆與戰。祖敗走,竄峴山中。堅乘勝夜追祖,祖部兵從竹木間暗射堅,殺之。
吳錄曰:堅時年三十七。

英雄記曰:堅以初平四年正月七日死。又云:劉表將呂公將兵緣山向堅,堅輕騎尋山討公。公兵下石。中堅頭,應時腦出物故。其不同如此也。

陳寿三國志』呉書巻一 孫堅傳】

孫堅傳に拠ると、初平三年(193)に劉表を攻めた際に、対峙した黄祖軍の兵により孫堅が射殺された、とする。陳寿の本文の後に付けられた注釈に拠ると、まず『典略』ではその経緯と孫堅の最期に関する情報が補完されており、『吳錄』では孫堅が三十七歳で亡くなった、『英雄記』では初平四年(193)1月7日に、黄祖軍ではなく劉表の配下の呂公が忍ばせた伏兵の落石によって討ったと異なる説を掲載する。