(咸熙元年春正月)是月,鍾會反于蜀,爲衆所討;訒艾亦見殺。
(景元五年一月)十八日日中(略)姜維率會左右戰、手殺五六人、衆既格斬維、爭赴殺會。會時年四十,將士死者數百人。
咸熙元年正月,鍾會作亂於成都,璿為亂兵所害。
(景耀)六年,與維咸在劒閣,共詣降鍾會于涪。明年正月,隨會至成都,為亂兵所殺。
(咸熙元年春正月)鍾會遂反於蜀,監軍衞瓘、右將軍胡烈攻會,斬之。
【房玄齢 他『晋書』巻二 文帝紀】
魏と蜀で用いられている年号が異なり、しかもその年に改元されるためるため少しややこしいが、これらの記述を以下にまとめると、鍾会に幽閉されていた胡烈らが、264年1月18日に反乱を起こし、姜維と鍾会、劉璿、張翼や彼らの家族を斬った。新暦では同年3月3日にあたる。
姜維は63歳で、鍾会は40歳、劉璿は39歳、張翼に関しては年齢の記述が皆無のため不明である。
姜維が散った際の逸話「世語曰:維死時見剖,膽如斗大。」は非常に有名である。