「関帝」扁額の作者考

昨日の記事の続き。「関帝」扁額の裏側、つまり「関羽大将軍」の面に記されている人物名を手掛かりに調べた結果、作者であろうと思われる人物がひとり浮上したので、その備忘録を…。

・「関帝」扁額について - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180601/1527812798


関羽大将軍」面にある落款には篆書体で「吉幹之印」と書かれていた。その落款と署名「南窓幹」を手掛かりに調べたところ、ある人物が該当した。

その人物は武村南窓という人物である。彼の来歴は未明であるが、著名な書家だったようで、安永四年(1775)および天明二年(1783)に刊行された京都に住む様々な文化人の情報をまとめた『平安人物志』の書家の項に彼の個人情報が見える。

姓名、字、号、住所、俗称の順で以下に引用する。

『安永四年』本
 【姓名】武 吉幹
 【字】 君貞
 【号】 南窓
 【住所】釜座二条上ル町
 【俗称】武邨新兵衛  

天明二年』本
 【姓名】武 吉幹
 【字】 君貞
 【号】 帰一
 【住所】釜座二条上ル町
 【俗称】武村南窓

住所の「釜座二条上ル町」は現在の京都市中京区大黒町界隈だと思われる。


京都府立総合資料館が所蔵する『初稿草體選』(年代未明)に、扁額と同じ彼の落款が捺されていた。



扁額印


『初稿草體選』印


完全に同一のモノである。さらにこの書の扉には所有者によるものと思われる南窓の来歴を簡潔に記したメモがあり「寛政七年(1795)五月十三日没 齢米弱」とある。
もしこのことが事実であるのであれば、1707年生まれになる。しかしながらその事を肯定できる判断材料がないため、ひとまず置いておきたい。なお文化十年(1813)に刊行された『平安人物志』に彼の名前が見えないことには理解ができる。


川上新一郎(1999)「古今和歌集版本考 : 前稿の補訂をかねて」(『斯道文庫論集 』pp.347-366)のp.352に拠ると武村南窓は「書肆武村新兵衛(四代目)」であったと触れられる。ここでも武村南窓は「寛政七年五月十三日没」と上と同様の事が記されているため、没年はこの日で間違いないようであろう。
また以下のサイトでも武村南窓は書家ではなく書肆であったと以下のように述べられる。兼業しているのだろうか…

寛政三年(1791)に白蛾が加賀藩に召し抱えられる時の身元保証人は、書肆・武村吉幹(南窓)、武村嘉兵衛であった。武村嘉兵衛は宝暦六年(1756)の『古易一家言』の板元として関わって以来、白蛾の晩年に至るまで三十年以上も出版に関わっている。『非白蛾』の翌年に『非白蛾辨』を博厚堂(武村嘉兵衛)から出版しているのも信頼関係があってのことであろう。武村嘉兵衛は寛政元年の『史記評林』紅屋板と八尾板の差構に「挨拶」をして、調停に加わっている所から見ると、大坂書林仲間でも発言力のあった人物だったようだ。

・新井白蛾の基礎的研究 : 江戸の易占(ブログ版)
http://blog.livedoor.jp/narabamasaru-ekigaku/archives/1007679087.html

大きく反れてしまったが、「関羽大将軍」の扁額を作成した南窓幹は、二階堂先生が予測された通りやはり号であった。彼の来歴は未明のため様々な可能性を考えることができるが、例の扁額は彼が存命中(1795年まで)に作成されたものと考える。

よって足利尊氏が「関帝」像と同時期にこの扁額も取り寄せたとされていたが、扁額は足利尊氏の死後350年以上経った江戸時代に造られたものであろう。