黄檗宗少林山 達磨寺(再訪)

・北関東三国志ツアー - Togetter
https://togetter.com/li/1207807

北関東三国志ツアーその3。

聖天宮 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180314/1520957334

・中華 孔明 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180316/1521126939

北関東三国志ツアーの敢行に伴い、計画当初の2017年の年末より「神怡館は絶対に、もし可能であれば達磨寺も行きたい」という旨をUSHISUKEさん(@USHISUKE)に伝えていた。目的は関帝像の拝観である。2016年の大型連休を利用して参詣したももの、この時はあいにく拝観することが叶わなかった。「今回こそは」と思いUSHISUKEさんに無理を言ってツアーのプランに組み込んでいただいた。

黄檗宗少林山 達磨寺 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20160508/1462677148


中華 孔明にて昼食を取り、13時過ぎに出発する。孔明から達磨寺までは50kmほど距離があるものおの、廣瀬住職に16時よりお約束を取っていたため、時間的にはかなり余裕があった。途中で深谷城址公園にも拠りつつ高崎線に沿って達磨寺を目指した。

特に渋滞や事故に巻き込まれることなく、15時半頃に達磨寺の駐車場に到着。
先の記事でも紹介したが、今回も達磨寺の縁起を以下に引用する。

黄檗宗禅宗)少林山達磨寺 縁起
昔、碓井川のほとりに観音様のお堂がありました。ある年、大洪水のあと川の中に光る物があるので、里人が不審に思って見ますと香気のある古木でした。これを霊木としてお堂に納めて置きますと、延宝年間(一六八〇頃)一了居士という行者が信心を凝らして一刀三礼、この霊木で達磨大師坐禅像を彫刻してお堂にお祀りしました。まもなく、達磨大師の霊地少林山としてしられると、元禄十年(一六九七)領主酒井雅楽頭は、この地に水戸光圀公の帰依された中国の帰化僧心越禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じ、少林山達磨寺(曹洞宗)を開創しました。
享保十一年(一七二六)水戸家は、三葉葵の紋と丸に水の徽章を賜い永世の祈願所とされました。
のち、隠元禅師を中興開山に仰ぎ、黄檗宗に改め以来法灯連綿として今日に至っております。

まずは廣瀬住職にお会いする前に、最上層の本殿(霊符堂)にてお参りする。前回は曇天であったが、この日は天気にも恵まれ快晴であった。天気によって伽藍が見せる表情が全く異なっており面白く感じた。その後、本殿隣の達磨堂へ。ここでは古今東西各種各様の達磨像や資料等が所狭しと展示されており、中には中曽根元総理の達磨等が展示されていた。規模は小さいものの、非常に見応えのある展示内容であった。

廣瀬住職を訪ねに二層下にある寺務所へ向かう。受付にて「関帝像の拝観しに来た」旨をお伝えし、取り次いでいただいた。廣瀬住職に挨拶をし、関帝像を安置しているお堂に案内していただく。その向かう途中、自分が行っている関帝・華光研究の概要をお話すると「この辺(群馬県では)関帝像はうちしか知らないが、華光菩薩像でしたら寳林寺にある」と教えてくださった。以前、達磨寺へ来た際に海野住職にお会いし、寳林寺の華光像を拝観したことをお伝えする。
そういったお話をしている間に、関帝像が安置されている観音堂に到着した。

これまで調査した寺院のほとんどは、関帝像は本堂にお祀りされており、本尊に向かって右須弥壇上に関帝像が達磨像と対にして置かれていた。しかしながら達磨寺では関帝像は観音堂に置かれていたため、つい驚いてしまった。

廣瀬住職のお話に拠れば、観音堂は達磨寺の中でも最も古い建物で、達磨寺が創建された当時の姿を残すそうである。
この観音堂は、もとは一切経を納める「無尽法蔵」という経蔵であった。明治三十二年に造られた十一面観音像が置かれたことを機に、観音堂に名称が改められたと思われる。


観音堂 外観

さて観音堂の内部には須弥壇が三つあり、中央の壇上には十一面観音像が、向かって左壇上には厨子や牌が置かれ、向かって右壇上には厨子が二つ並べて置かれていた。この厨子秘仏だそうで一般公開していないとのこと。


観音堂 内陣と本尊の十一面観音像

まず左側の厨子について。内部が著しく破損しているため、長年扉を閉めているそうである。また状態が酷いため尊名も定かではないらしい。翌日、仏像文化財修復工房の松岡誠一さん(@mokujiki2)にご意見を伺うとどうやらこの像は「弁財天・十五童子像」ではないかとご教示いただいた。以前、別の「弁財天・十五童子像」の修復を手掛けられたそうで、大変ありがたいことに画像もご提示してくださった。この場を借りて改めてお礼を申しあげます。本当にありがとうございました。

・仏像 修復・修理・修繕「仏像文化財修復工房」
http://syuuhuku.com/

厨子入り弁財天十五童子の修復|「仏像文化財修復工房」
http://syuuhuku.com/page/rei2/butuzou/benzaiten/benzaiten.top.html

もう一つの厨子には関帝像(19cm)のみが置かれていた。厨子の大きさは高さが約40cm、幅は約30cm、奥行きが約18cmと少し小さく、まるで念持仏の印象を抱いた。像容について。全身を金色一色で塗られており、幅の広い額飾りが幘に現されており、後頭部から肩まで垂れ下がっていた。表情は太く釣り上がった眉に目尻が釣がった細い目、鼻は髭と鬚は欠けており僅かしか見えない。また右髯は人または動物の毛が見受けられるも経年劣化によるものか数cmほどしか残っていない。鎧の上から袍を纏っており、右手は右腿の上で袍を握る。左手は表現されず。足は例の如く片浜まで広げ椅子ではなく台座に腰かける。他の関帝像には見られない特徴を持つ。
先の弁財天像が入った厨子も大きさほぼ同様であった。関帝像は達磨像と対にして置かれることがほとんどであるが、この関帝像は財神の性格から弁財天・十五童子像と対にして置かれていたのではないかと考える。


さて関帝像を拝観しながら廣瀬住職に何点か疑問を伺うと、以下の事をお話してくださった。火災等で資料が逸しているため多くの事が「分からない」ということであった。

1.関帝像には墨書が見えず、資料が残されていない(現存していない)ため、作成時期や仏師はもちろん、いつ・どのような経緯で達磨寺に置かれたのか不明。
2.当初より関帝だけだったのか、関平周倉像が脇侍像に存在していたか定かではない。
3.心越が達磨寺の開山に携わっているが、大阪・亀林寺のように心越が「寿亭侯印」を達磨寺にももたらしたのか不明。
4.関帝像が入る厨子の底板の裏に「丸山」の二字が見えるが、何を示しているのか不明。この厨子の作者の署名だと考える。
5.厨子内に突き出た二本の釘の用途は不明。蝋燭を挿していたいた可能性も否めない。
6.関帝像と対に達磨像が置かれていたのか不明
7.観音堂は毎年、年始に一度扉を開けるが堂内の厨子の扉は開けることはない。今回数十年ぶりにあけた。(弁天象や関帝像等は原則公開していない≒秘仏として扱っている)

達磨寺蔵 関帝像(※像はモノクロにするなど一部画像処理を行っております)

達磨寺に関帝像が伝わったのは黄檗宗に開宗する前で、心越が開山したタイミングだと考える。まず達磨寺像は他の黄檗宗寺院の関帝像とは像容が少し異なっており(黄檗様式ではない)、また心越が関羽の末裔であると自称していること、亀林寺に関帝像と壽亭公印をもたらしていること、さらに祇園寺(茨城県水戸市)にも壽亭公印をもたらしており、心越の没後関帝と関わりのある人物(黄檗僧や華僑)と達磨寺が接点が見受けられないためである。


やはり「資料が現存しない」というのは非常に悩ましい点ではあるが、廣瀬住職より大変貴重な数々のお話を伺えた。今回の訪問は実りのあるものになった。

今後は心越について、また黄檗宗以外の寺院でお祀りされている関帝像について調べたい所存である。



【参詣日】
・2018年3月10日(土)
【寺院情報】
・建立年 1697年(享保11年)
・本尊 千手観音像
・所在地 群馬県高崎市鼻高町296