伝足利直義画「三国志」について

三国志ニュースの2019年8月13日(火)付の記事において、「足利直義筆(滋賀県米原市 清瀧寺徳源院)」と題する記事が更新された。タイトルの割には記事のほとんどが個人の日記的な記述が占めており、残念ながら肝心の「三国志」画に関してはたった数行程度しか、しかも漠然としか触れられていなかった。その記事の補足として以下に「三国志」画について記したい。

 

足利直義筆(滋賀県米原市 清瀧寺徳源院) - 三国志ニュース

 

 滋賀県米原市に所在する天台宗霊通山 清瀧寺徳源院(以下「徳源院」とする)は鎌倉時代から江戸時代まで栄え、北近江を支配した京極氏の菩提寺である。京極家初代の京極氏信が弘安六年(1283)に草創。境内には本堂、位牌殿、三重塔などを有する。その位牌堂に「足利直義画(尊氏の弟)三国志室町時代)」という手書きのプレートとともに、3人の人物が描かれた「三国志」画が公開されている。

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足利直義足利尊氏の異母弟で、徳治元年頃(1306?)から文和元年(1352)にかけて活躍した人物である。亀田先生の『観応の擾乱』(中公新書)が世間的に大流行していることもあり、その名前に聞き覚えがある方も多いのではないだろうか。この時代は演義がまだ成立しておらず、「三国志」といえばまだ正史しか将来していない時代である。

 

閑話休題。画の右下には幘を被り、赤ら顔でつり目の人物が、中央部には白い面の烏帽子のようなものを頂く人物が、そして左下には浅黒い顔で丸く大きな眼が特徴的な人物が描かれる。右下の人物の特徴より、これは関羽の持つ容姿と一致することから関羽と比定する。また関羽と共に描かれることがあり、上述の特徴を持つ人物と言えば劉備、そして張飛に限定されよう。よってこの「三国志」画は劉備関羽張飛を題材に描かれていると考える。

 

また画の右脇には「自笑齊藤原直義 畫」の署名と、その下に2つの落款(いずれも解読不明)が捺されている。徳源院 位牌堂の所蔵品のページにおいて「足利直義筆」という一文とともに画像が掲載されているが、厳密に言えば「筆」ではなく「足利直義画」もしくは「藤原直義 畫」である。

徳源院 位牌堂

 

足利直義は源姓であるが、藤原姓ではない。加えて「自笑斎」と号した記録が見つかっておらず、足利直義が作品時代がそもそも発見されていない。仮にこの「三国志」画が足利直義が描いたものとするならば、署名の後に落款ではなく花押が続くのではないだろうか。この画は南北朝期ではなくかなり後の時代に。直感的に江戸時代の作風のように見える。ではこの藤原直義という人物が足利直義ではないとするならば、一体は何者なのだろうか。

 

調べうる限りであるが、「花字柄鏡」を作成した松村稲葉守藤原直義、そして浄土真宗本願寺派龍口山 正順寺(広島県広島市)や同宗派十王山 明顕寺(広島県安芸郡海田町)の「梵鐘」を手掛けたと伝わる植木源兵衛藤原直義なる人物の2人が浮かんだ。

花字柄鏡|センチュリー文化財団 オンラインミュージアム

 

龍口山正順寺 | 浄土真宗本願寺派 龍口山正順寺

 

明顕寺の梵鐘 安芸郡海田町 - 通じゃのう

 

彼ら関して生没年や活動時期をはじめとする経歴などの情報は不明である。まず前者の藤原直義の「花字柄鏡」についてであるが、江戸時代作ということしか明らかになっていない。また後者の藤原直義の鐘は、正順寺鐘が享保五年(1720)作、明顕寺鐘が宝暦二年(1752)作と銘文に見える。いづれも江戸時代作であるが、彼らが同一人物なのか否かは定かではない。従って彼らと三国志」画を描いた藤原直義の関係も未明であるが、彼らのうち一方が描いた可能性を肯定や否定する判断材料がまだないため、言及するにとどめたい。

 

なぜこの「三国志」画が足利直義と結びついたのか。結論から述べると不明である。何らかの理由(例えばお寺の関係者がプレートを作ったタイミング等)において、署名の直義を誤って足利直義と同一視してしまったことにより紐付いてしまったのではいかと考える。