張松について

毎月東京都港区の三国軒にて開催されている「三国志義兄弟の宴」。その第51回目の宴が2019年9月15日(日)に開催される。今回のテーマはまさかの張松!彼にスポットが当たるなんて思いもしなかった…

 

張松については「劉備の入蜀する前後のストーリーで活躍する人物」という程度でしか認識しておらず、これまで一度も掘り下げて考えたことがなかったこともあり、張松についてより理解を深めるために、また宴の予習として以下に記していきたい。

 

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張松劉備の入蜀の際に活躍した人物で、身体的にかなり個性的な特徴を有している。近年では「おそ松くん」に登場するイヤミを彷彿させるようなビジュアルで描かれることが増えてきている。さて張松について演義の次の一文が簡潔に表されている。訳は立間祥介『三国志演義』を参照にした。

劉璋視之。出進言者。益州成都人也。官帯益州別駕。姓張、名松、字永年。其人生得額钁頭尖,鼻偃齒露,身短不滿五尺,言語有若銅鐘。

演義』嘉靖本第119回「張永年反難楊脩」】

 

卻說那進計於劉璋者,乃益州別駕,姓張,名松,字永年。其人生得額钁頭尖,鼻偃齒露,身短不滿五尺,言語有若銅鐘。

【『演義』毛本第60回「張永年反難楊脩 龐士元議取西蜀」】

 

この時劉璋に献策したのは、益州の別駕、姓は張、名は松、字は永年である。この人、生まれつき顔が出て頭はとがり、鼻はひしゃげて歯が反りかえり、身長は五尺に満たず、声は銅の鐘のようであった。

 

史書における張松を見よう。『後漢書』では「劉焉袁術呂布列傳」、また『正史三國志』においては蜀書では「劉焉傳子璋」「先主傳」「法正傳」「黃權傳」「馬忠傳」、呉書では「吳主傳」に彼の名が見える。記述を統括すると1.対張魯の策として劉璋張松曹操のもとへ遣わすが、2.劉璋曹操ではなく劉備を頼ることを勧め、3.劉備に入蜀の手引きを行った、という。

 

張松の身体的描写については陳寿の本文ではなく、先主傳が引く『益部耆舊雜記』に触れられる。この箇所が「孟徳新書」のくだりのネタになったのであろう。

張肅有威儀,容貌甚偉。松為人短小,放蕩不治節操,然識達精果,有才幹。劉璋遣詣曹公,曹公不甚禮松;主簿楊脩深器之,白公辟松,公不納。脩以公所撰兵書示松,松飲宴之間一看便闇誦。脩以此益異之。

【『三國志』蜀書巻二「先主傳」引『益部耆舊雜記』

 

張松の兄の)張粛には威儀があり、容貌は甚だ雄偉であった。張松はひととなりは短小で、放蕩にして節操を治めず、しかし見識に達して果断であり、才幹があった。劉璋が遣って曹操に詣らせた処、曹操は甚だしくは礼遇しなかった。曹操の主簿楊脩が深くこれを器重し、曹操張松を辟すよう白したが、曹操は納れなかった。楊脩は曹操が撰述した兵書を張松に示した処、張松は宴飲の間に一たび看てたちまち闇誦した。楊脩はこれによって益々これを異とした。

 

正史では張松は「身長が低いく、性格には難がある」とする。演義にあるように「額钁頭尖」「鼻偃齒露」「言語有若銅鐘」ということではなさそうだ。記されていない=特筆すべき点ではないということもあるので、張松は平均的な容貌をしていたのではないだろうか。

 

さて演義に記述があり、正史にはない記述されていないことがもう一点ある。それは字である。演義では「永年」とあるが、正史にはそれが見えない。某百科事典やwebページに拠れば出典が明記されず「字は子喬、演義では永年」と記載されている。前者はどこに拠る情報なのか。

 

東晋の永和十一年(355)に常璩によって編纂された『華陽國志』附「益梁寧三州先漢以來士女目録」に次の記述が見えた。

 安南將軍張表字伯逺

成都人伯父肅廣漢太守兄松字子喬州牧劉璋别駕從事

 

安南将軍 張表 字は伯逺

成都の人。伯父張肅は肅廣漢太守。その兄は張松、字は子喬で州牧の劉璋别駕從事。

張松の字は「子喬」で、本貫は演義と同じく蜀郡成都県である。『演義』から張松を知り、加えて横山『三国志』をはじめとする三国志作品でも張松の字は永年で表記されていたため、そうだと思い疑ってこなかった。「益徳」「翼徳」と同様に歴史上では「子喬」、演義では「永年」とゆらぐことについて頭の片隅に入れておきたい次第である。