日吉神社

以下の記事の続き。

平野神社を後にしファミレスで朝食を摂った後、続いては日吉神社へ向かった。

 

那珂川市のほぼ中心に位置する日吉神社は、市の中央を南北に貫流し流れる那珂川のほとりに鎮座する。特筆すべき点として村で最も低い位置に祭られていることであろうか。多くの寺社は平地か、むしろ周囲より一段高いところに建っているが、日吉神社はその真逆で低い位置に配置することで結界を作っているようである。

 

国道385号から西へ一直線上に伸びている参道は長さがおよそ150mもあり、その途中には第一、第二の鳥居が配置される。第二の鳥居より先が低地となっており、境内には社殿、絵馬殿他などが点在する。

f:id:kyoudan:20200816221414j:plain

 

f:id:kyoudan:20200816221512j:plain
f:id:kyoudan:20200816223751j:plain
一の鳥居

 

f:id:kyoudan:20200816221627j:plain
二の鳥居

 

f:id:kyoudan:20200816221824j:plain
社殿

 

日吉神社の由緒は以下の通りである。

祭神

天御中主神 大己貴神 彦火々出見命

大山祇神・八雷神・菅原神・埴安神・宇賀魂神・高淤加美神闇淤加美神田心姫命迦具土神手力雄命表筒男命底筒男命中筒男命須佐之男命・天照大御神

 

由緒

不詳。正徳三年(1713)十月神殿、拝殿改造。

明治五年(1872)十一月に村社に定めらる。

 

猿田彦命は乞食の天尊降臨の条に最初に現れる国津神であります、天照大神から授けられた斎庭の稲穂を育てるべき水田を開拓して待ち給うた神と語られます。〝さるた〟とは今も津島と種子島に僅かに保存されている陸稲の一品種なる赤米のことであります。春に浅瀬の多い皮を留めて湖を作り、これに苗を植え夏の日照時に水を引いて秋の収穫まで欲し挙げる古式栽培のことでもありました。

弥生より後の氏神の鎮守の社は部落を見わたす高台にあるのが普通でありますが、本社が低い川原にあるのは、日夜田廻りに生きてきた古代の農耕の本質を今に伝えているからであります。祭日は四月三十日の水籠、八月三十一日の風籠、十二月三十一日の大晦がありました。氏子一同が神前で会食する式例で、一年を三季に分ける珍しい暦法の名残でありますが、縄文時代の冬のない亜熱帯気候の風土もよく忍ばせます。これに一月一日の年始祭、七月三十一日の輪越祭、十一月二十三日の注連縄祭が加えられております。猿田彦を祭神とする社は、伊勢二見の興玉神社で、夏至にするが藤の朝日を配するところから、伊勢暦の編纂をもあつかった神であります。本社の拝殿の天井に描かれた十二月十二支に方位月日の神としての一面をうかがうことが出来るかもしれません。伝教大師最澄は、延暦二十四(八〇五)年唐から帰朝の折に筑紫で最初の天台宗派寺院たる背振山東門寺を会期いたしました。そして、これを比叡山延暦寺に遷したときに、その守護神としてここの山王神猿田彦命を勧請して彼の地に日枝神社を創建したと言う伝説が残っております。

f:id:kyoudan:20200816222622j:plain

 

今回参詣したのが年末ということもあり、日吉神社を管理する地元の方々が新年を迎える準備を行っていた。その作業の合間にお邪魔したため、写真はあまり撮れなかった。

 

さて日吉神社の「三国志」は拝殿に見ることが出来る。社殿は拝殿~幣殿にかけて四方に壁板が設けられておらず、まるで神楽殿のような板間造りになっている。

その内部に大小様々な奉納絵馬が掲げられるが、そのほとんどは環境と経年により割れや、顔料の剥離もあり酷い損傷が著しい状態であった。

境内には絵馬殿もあったが、そこに掲げられる絵馬の状態は拝殿のものより良くなく、文字や画が認識できなかったり、額下辺のみが額受けに引っかかっていたりという有様であった。

 

さて本題へ。日吉神社の「三国志」絵馬の大きさは縦およそ2.5m、横およそ3mの巨大なもので、先の平野神社とほぼ同様のサイズである。

f:id:kyoudan:20200816224228j:plain

 

額の左右には「明治廿七(1894) 南畑村/午四月吉日 大字市ノ瀬」、下辺には真鍋や神代などの15名の姓名が彫られていた。地元の方にお話を伺ったところ、この当時の村の有権者の名前で、特に真鍋姓は名士的な家であったそうだ。

f:id:kyoudan:20200816224310j:plain

 

この絵馬は三つの場面採られており、右上、左上、下半分に描き分けられていた。三国を上下逆さにした配置である。 

各場面の近くには例の如く題字が、また絵馬の右下には筆者の署名と落款が記される。なんとこの絵馬も平野神社を手掛けた「龍雲」によるものであった。

f:id:kyoudan:20200816224647j:plain

 

 

f:id:kyoudan:20200816224308j:plain

以下、順にそれぞれの場面を見ていきたい。剥離により欠落している文字は( )で補う。

 

 

右上(ピンク)「玄徳 天地(を)祭(りて)桃園に義(を結ぶ)圖」

お馴染みの名場面。左より順に張飛劉備関羽、侍女の四人が描かれる。名前は「張(飛)字翼(徳)」「蜀帝劉備字玄徳」「關羽字(雲長)」と正しく当てられているが、色彩や文字などが剥離により読めなくなりつつある。

この場面は劉備がしっかりと描かれており、また侍女の姿も見える。そのため『絵本通俗三国志』初編巻之二「祭天地桃園結義」の挿絵と、嘉永六年(1853)三月に刊行された一勇斎国芳歌川国芳)画「通俗三国志之内 桃園義結図」を組み合わせて描かれたのではないかと考える。 

f:id:kyoudan:20200816224222j:plain

 

f:id:kyoudan:20200816224814j:plain
一勇斎国芳歌川国芳)画「通俗三国志之内 桃園義結図」

 

 

左上(黄緑)「玄徳 風雪訪孔明

左より順に「諸葛亮孔明」、童子、「蜀帝(劉備)字玄徳」、「關羽字雲(長)」「(張)飛(字)翼徳」の計五人が描かれる。上の「桃園結義」の場面に描かれる三人の姿と比較すると、容姿等の描かれ方に揺らぎはない。

人物の配置や構図より、こちらも嘉永六年(1853)四月に刊行された一勇斎国芳歌川国芳)画「通俗三国志之内 玄徳三雪中孔明訪図」が参照にされたのではないかと思われる。

f:id:kyoudan:20200816224251j:plain
f:id:kyoudan:20200816224901j:plain
一勇斎国芳歌川国芳)画「通俗三国志之内 玄徳三雪中孔明訪図」

 

 

下(水色)「(趙)雲 孫夫人を(追うて)幼(主を奪)圖」

左の小舟には「張飛字翼徳」とその周りには三人の兵士が、中央部には「趙雲字子龍」「阿斗君」「周善」、中央部から右側にかけて四人の侍女と兵士、孫夫人の計十三人が描かれる。

国芳 画の浮世絵や、他の浮世絵作家の作品、そして『絵本通俗三國志』などの絵馬の制作年以前に登場した作品を確認したが、この場面のみ何が参照されたのか特定するに至らなかった。

f:id:kyoudan:20200816225034j:plain

 

 

今回忘年会翌日に平野神社日吉神社に納められる「三国志」を題材にした絵馬を巡り、幸運なことに実物を間近で拝観することができた。

3点のうち2点が龍雲の手によるものであり、彼は制作時に『絵本通俗三國志』と浮世絵などのを参照に描いていたことが分かった。しかしながら、この龍雲は出自や手掛けた作品等についての情報はほとんど残されておらず、謎の多い人物である。おそらく活動時期と活動地域より龍雲は石橋龍雲であると思われる。

 

龍雲は短い期間で2点もの巨大絵馬を描き奉納した。共通する題材を描いたためなのか、参照する資料に恵まれたからためかその要因は推測の域が出ないが、彼の画風は目を見張るほどの変化を遂げる。少なくとも人物の名前を誤ることなく記したのは紛れもない事実である。博多南周辺地域には他にも彼が手掛けた奉納絵馬が眠っている可能性が極めて高い。加えて絵馬を通して当時の三国志受容の一端を窺い知れる資料になり得るため、引き続き神社仏閣に見える「三国志」の調査を行いたい。

 

 〒811-1233

福岡県筑紫郡那珂川市大字市ノ瀬441−1