以下の記事の続き。
海寶寺の西側、南北に横たわる国道24号線に沿って10分ほど南下すると、右手に石垣と白い築地塀が見える。続いての三国志スポットは御香宮神社である。
御香宮と書いて「ごこうのみや」と読む。初見では読めない名詞だ。
御香宮神社は国道24号線と大手通りの交差点北西部に鎮座する。大手筋通りに面して窮屈そうに構える御香宮神社表門は、旧伏見城の大手門と伝わる。
表門
この表門の蟇股には中国二十四孝のうち4つの彫刻が施されている。向かって左より順に、孟宗、唐夫人、郭巨、楊香。うち孟宗は三国時代の呉の人物である。
孟宗
真冬に筍が食べたいという母の為に、泣きながら掘っていたら雪の下から筍が生えて来た、というお話。
唐夫人
歯がなく食べ物を噛む事が出来ない姑に自らの乳を吸わせ親孝行をした、というお話。
郭巨
極貧にあえぐ郭巨夫婦は、母親が食を減らすのを見て、口減らしに赤ん坊を埋めようと決心し、山で穴を掘ると金のお釜が出てきた、というお話。
楊香
山で虎に出くわして、楊香が「私を食べて父を助けて」と天に祈ったら虎はどこかへ行ってしまった、という話。
御香宮神社の由緒や創建などは未明。社伝によれば、はじめ「御諸神社」と称したが、貞観四年(862)に境内より香気漂う清泉が湧き出て、その水を飲むとたちまち病が癒えたため「御香宮」と賜り、以後、伏見の安産神として人々の信仰を集めた、とされる。
由緒
本殿は南を向き、神宮皇后を主祭神に、仲哀天皇・応神天皇などを祀る。境内には拝殿や本殿、能舞台、絵馬堂などを有する。御香宮神社の「三国志」は上述した表門の彫刻の他に、例に漏れずやはり絵馬殿でも見ることが出来る。
本殿前(七五三の儀式が執り行われていた)
絵馬殿は境内奥の拝殿の東側にたたずみ、桁行四間、梁間二間、屋根は切妻造りの桟瓦葺で、建立は宝暦五年(1755)十二月と伝わる。藤森神社の絵馬舎と比べると、桁行が一間だけ大きく、北野天満宮のように所狭しと数多もの奉納絵馬を掲げる。その中に、関羽と周倉が描かれた絵馬が見える。
絵馬殿
七五三の撮影時期に参詣したため、境内各所でその撮影が行われており、絵馬殿ではその家族の休憩スペース兼荷物置き場兼機材の準備などが展開されていた。
大きさは未明。縦1.2m、横1.8mはあろうか。全体的に酷く退色しているものの、はっきりと輪郭線が残っており、漠然とであるが関羽と周倉の2人の姿は確認することが出来る。三国志好きでも、すぐに彼らだと判別が難しい状況である。
よく目を凝らしてみると、関羽は緑の幘、緑の袖口の袍を纏い、赤い卓子に右肘を預け、右手で髯をしごく。一方左手は左膝に置き、胡坐を崩したような恰好で座する。卓子の上に置かれる巻物は『春秋左氏伝』であろうか。この関羽は鎌倉~戦国時代の出家した武士のような印象を受ける。
またその右後ろには鎧を身に着け笠形盔を被り、青龍刀を右手で握りって侍る周倉が描かれる。
絵馬の右下部には筆者の号「■南」と号と思しき墨書が記される。落款や刻印はない。■部は擦れてしまっており判別することが叶わなかった。
墨書
額上辺には右書きで「永代御神樂」、右辺には嘉永元年戊申(1848)四月吉日 取次伏見 吹田屋~/竹屋~」、左辺には「正月 五月/九月 十一月 京都 石川屋儀~/元~」と彫られる。
他の絵馬との配置の問題により、額面の文字を全て確認することが出来なかったが、この「石川屋儀~」とは瀧尾神社の「関羽・周倉図」を奉納した石川屋儀兵衛その人であろう。意外な繋がりが見つかり嬉しいばかりである。
右辺
左辺
屋外に懸かる絵馬はどうしても退色や損傷など避けることが出来ない。ここの絵馬殿にも比較的新しい絵馬がいくつか懸かっていたため、どうやら古い絵馬は降ろされているようである。この「関羽・周倉図」もある日突然…という可能性はゼロではないため、拝観できなくなる前に、是非とも鑑賞していただきたい一枚である。
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