先の記事で取り上げた塩屋別院を後にし、続いては家中天満宮に向かった。
最寄りはJR予讃線 讃岐塩屋駅から1駅隣の多度津駅。そこ北西方向に15分歩くと、周囲は塩屋別院と同様に閑散な住宅地の中に家中天満宮が鎮座する。
この地域は江戸時代、多度津藩の家臣が住む武家屋敷や長屋など、城下町だったそうで、その名残がこの天満宮の周辺に今も観ることができる。
天満宮なので、祭神は菅原道真。境内には第一の鳥居、随神門、注連柱、本殿が一直線に連なり、いずれも南を向く。その参道の西側の脇に小さな3つの祠が並ぶ。
一の鳥居と随神門
参道と注連柱
境内の隅には1992年に設置された天満宮修復記念碑が置かれている。それに拠ると、天満宮の由緒は以下のように記録される。※判別できない文字を■とした。
由緒
古くは堀江村に鎮座ありしや、寛永十二年九月十三日(1635)此の地に遷座せりといふ。勉強の神様、書道の神様(■■■■)古くから近郷近在の方々の信仰あつく、地区の産上(■■■■)多度津藩主、京極家の崇敬もあり、石灯籠一対を奉納(■■■■)
明治五年九月二十一日(1872)本殿再建
明治二十九年九月(1896)拝殿の修復
明治三十五年五月(1902)随神門の新築、道真公一千■祭記念
平成四年八月(1992)本殿、拝殿、随神門の屋根(■■■■)
さて天満宮の「三国志」はその拝殿部に見ることが出来る。大きさは未明であるが、「三顧の礼」を取材した奉納絵馬が懸かる。
拝殿
木枠から拝殿内を覗くと…
この絵馬は板材に直接描かれているのではなく絹本着色で、左より順に草盧で筆を握る諸葛亮、童子、張飛、関羽、騎乗する劉備の5人が描かれる。
真っ赤な衣服を纏う諸葛亮
にくたらしい表情の童子
劉備。特徴はない…
かつて参詣した平野神社(福岡県大野城市)の絵馬堂に懸かる奉納絵馬「三顧の礼」図と同様に、この絵馬のモチーフは月岡芳年(1883)の浮世絵『玄徳風雪に孔明を訪る』が題材であろう。唯一、左右を反転した構図で描かれる。
額の上辺には「奉獻寳前」、右辺には「明治十一年戊寅九月吉祥旦」、左辺には「願主 未ノ年某 南町西岡佐平 神原亀造/■■■治 宮本幸治 高橋文吉 森伊平」と彫られる。このことから明治十一年(1878)に6名の連名に寄って納められたようである。
右辺
左辺
となると、1点矛盾が生じる。月岡芳年の浮世絵の方が、この絵馬よりも5年遅れることとなる。
一体どういうことなのだろうか…
絵馬の左下には「絵馬堂 夢樂」の墨書と落款が見える。
それを手掛かりに検索すると下記の有限会社絵馬洞が該当した。
この会社は、絵馬などの作成や修復なども行っており、2016年にこの絵馬を修復したと紹介される。
かつては、この絵馬は著しく傷んでおり、状態は劣悪。絵馬全体の退色はもちろん、全体の三分の二以上を、特に童子より右側の布地を逸していたことが触れられている。
また絵馬洞のサイトに拠れば、修復する際に「「三顧の礼図」右部分は浮世絵の資料を参考にし」た、と言及されていることから、月岡芳年の画が参照されたようである。
修復前の状態。
何という事でしょう!
大きく欠落してしまい、
目も当てられない状態ではないでしょうか!!
http://www.enmado.com/Enmado/news/detail.php?4
画像は上記サイトより引用
経年とともに、ゆっくりと消えつつある奉納絵馬。この天満宮のものは人知れず朽ち果てる前に、修復という形で救済された。自分のことながらにとても嬉しく思う。