柳成竜『記關王廟』翻刻

成龍(1542 - 1607年6月7日)は、李氏朝鮮の宣祖に仕えた宰相で、文禄・慶長の役に活躍した人物である。

 

さて今回は柳成龍『記關王廟』の翻刻を行う。原文を参照するにあたり早稲田大学の古典籍総合データベースにて公開されている崇禎六年(1633)跋の柳成竜『西厓先生文集(全二十巻)』を用いた。なお句読点などは補わない。

 

西厓先生文集. 巻之1-20 / 柳成竜 [撰](『西厓集』八 収録「西厓先生文集巻之十六」pp.61-62)

西厓集 文集20巻年譜3巻 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(pp.492-493)

記關王廟

余往年赴燕都自遼東至 帝京數千里名城大邑及閭閻衆盛處無不立廟宇以祀漢將壽亭侯關公至於人家亦私設畫像掛壁置香火其前飮食必祭凡有事必祈禱官員新赴任者齊宿謁廟甚肅虔余怪之問於人不獨北方爲然在在如此遍於天下云萬曆壬辰(1592)我國爲倭賊所侵國幾亡 天朝發兵救之連六七載未已丁酉(1597)冬天將合諸營兵進攻蔚山賊壘不利戊戌(1598)正月初四日退師有遊擊將軍陳寅力戰中賊丸載還漢都調病迺於所寓崇禮門外山麓創起廟堂一坐中設神像以奉關王諸將楊經理以下各出銀兩助其費我國亦以銀兩助之廟成 上亦往觀之余與備邊司諸僚隨 駕詣廟庭再拜其像塑土爲之面赤如重棗鳳目髯垂過腹左右塑二人持大劍侍立謂之關平周倉儼然如生自是諸將每出入參拜皆曰爲東國求神助卻賊五月十三日大祭廟中云是關王生日若有䨓風之異則神至矣是日天氣淸明午後黑雲四起大風自西北來䨓雨並作有頃而止衆人皆喜曰王神下臨矣旣而又於嶺南安東星州二邑建廟安東則斲石爲像星州土塑而星州甚著靈異之跡云未幾倭酋關白平秀吉死倭諸屯悉皆撤去此亦理之難測者也豈偶然耶昔苻堅入寇晉謝安以㫌節旗鼓禱於蔣子文廟謝玄以八萬偏師勝强秦六十萬如八公山草木風聲鶴唳說者皆以爲神助况關王以英雄剛大之氣其扶正討賊之志貫萬古如一日死而不滅安知無神應耶嗚呼烈哉京師廟前立二長竿懸兩旗一書協天大帝一書威震華夷字大如椽因風飄拂半空遠近皆仰而見之其帝號亦皇朝所追崇云可見其尊崇之至也

朝鮮において関羽を信仰する文化は壬申の乱を通じて、日本軍を撃退するために韓国へ派遣された明軍が持ち込んだものである、と言われている。ソウル東大門には関羽を祀る東大門が現存し、観光地とのひとつとして広く知られている。

さてこの史料に拠ると、萬曆壬辰すなわち万暦二十年(1592)より起こった文禄・慶長の役において、朝鮮での関王廟の創建と関羽信仰、そして関羽の霊験についてが記される。

要約すると日本軍に進攻されていた朝鮮軍は、嶺南の安東・星州(現慶尚北道安東市・星州郡)の地にて関王の廟を建立し関羽を祀ると、秀吉が死去し日本軍が全軍撤退した、というものである。

 

それを機に関羽は韓国内にて「国家を護る守護神」として認識され、関羽を信仰する文化が伝播し根付いたのであろうか。

東京「媽祖廟」再訪

2019年3月21日(木)に東京「媽祖廟」へ参詣してきた。最後にここへ来たのは2016年4月9日(金)なので、実に約3年前の振りの参詣である。

今回はお礼参りと、以前記事にしたように2017年4月13日(木)に廟内の諸像の配置替えが行われたが、実際にまだ目にできていなかったためその確認のための参詣の意味合いが強かった。

以下の記事で媽祖廟の由来などについて言及したため、今回は軽く像についてのみ紹介する。

 

 

まず配置替えが行われた理由について少し触れておきたい。2016年4月16日(日)は旧暦3月23日にあたり、この日は媽祖の誕生日を祝う「媽祖誕」が執り行われた。その準備のため、13日(木)に台北・行天武聖宮より師父を東京「媽祖廟」へ招き、その際に分霊された媽祖像(金面)や土地公像などの諸像を新たに迎えたようである。

そのためそれらを安置するために2階、3階の像の配置が大きく変更した、というのが一連の経緯である。分霊について台湾新聞がwebニュースで取り上げているため、もし興味があれば以下の記事を参照されたい。

 

行天武聖宮玄微師抵東京 為媽祖廟神明開光安座 | 台湾新聞 BLOG

行天武聖宮玄微師 為東京媽祖廟神明開光安座 | 台湾新聞 BLOG

東京媽祖廟提前為媽祖祝壽 武聖宮佛舞團獻舞 眾人讚嘆 | 台湾新聞 BLOG

 

廟内についてかつて記事でも述べたが、情報を補足して改めて以下にまとめたい。像の順は、須弥壇に向かって左からお祀りされている順に記す。

【1階】

 受付兼事務所:変化なし

 

【2階】名称:朝天宮→関帝殿

変更前:順風耳、媽祖(台湾・北港朝天宮)、千里眼

変更後:月下老人、福徳正神、関帝、済公禅師、武財神(趙公明

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f:id:kyoudan:20190326002328j:plain↑日本で最も若かった関帝像(2013年10月~)
↓現在最も若い関帝像(2017年3月~)f:id:kyoudan:20190326002345j:plain
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【3階】名称:本殿→媽祖殿

変更前:武財神(趙公明)、順風耳、媽祖(泉州・天后宮)、千里眼関帝

変更後:金面媽祖(台湾・南天宮)、粉面媽祖(泉州・天后宮)、黒面媽祖(台湾・北港朝天宮)、順風耳、千里眼、他小さい媽祖像が数躯

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【4階】名称:観音殿(変更なし)

※この階のみ像の配置変更なし

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また参拝順路も若干ではあるが一部変更があった。これまでは1階外の香炉→2階→3階→4階の順に線香をあげていたが、1階外の香炉→1階外「五營将軍」祠→2階→3階→4階の順となっていた。

 

新たに順路に追加された五營将軍について、媽祖廟のスタッフさん複数人に「どのような神様をお祀りしているのか」と伺ったところ、異口同音に「何の神様か分からない・知らない」というお返事をいただいた。メジャーな神仏ではないからなのか、それとも生活に深く溶け込んでしまっていてそこまで気にしたことがなかったのだろうか。

祠内は五営旗とともに、左より順に黒:趙元帥(趙公明)、白:馬元帥(華光大帝)、黄:中壇元帥(哪吒)、赤:康元帥、緑:雷振子の首を祀る。東西南北を祀る元帥神として「馬 趙 温 関」以外にも「温 康 馬 趙」などの組み合わせがあるのは有名であるが、そこに雷震子が加わるようになったのだろうか。

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これまで様々な国内の華光菩薩像を目にしてきたが、華光菩薩ではなく馬元帥(華光大帝)を見たのはここと聖天宮ぐらいだけ。仏教に取り込まれた華光の姿ばかり見てきたため、道教神としての華光を見るのは非常に新鮮に感じる。

 

また都内へ上京する機会があれば、また参詣しに行きたい所存である。

 

来月4月27日は媽祖誕を行うそうだ。台湾人コミュニティの方々が集うそうだが、もちろん日本人の参加も大歓迎だそうなので、もし拝観してみようとお考えの方は、そのタイミングに東京「媽祖廟」に行くことを強く勧めたい。

 

東京都新宿区百人町1丁目24−12

 

馬岱の字を考える2

思い付きです。

 

三年前に作成した上の記事において若干触れたが、馬岱の字が「伯瞻」とする説があり、その出典が『陜西省扶風縣郷土志』に見える、ということは一部の三国志ファンの間では知られている。陳寿三國志』や『三国志平話』、そして『三国志演義』各版本において、馬岱の字はいずれも記されていない。

しかしながら19世紀になり、長年不明であった馬岱の字が突如判明する。しかも諡も何故か明らかになっているのである。今回は字のみに焦点を当てる。

 

まずは嘉慶二十三年(1818)に刊行された『扶風県志』に見える馬岱の記述を見たい。

馬超字孟起、騰之子、兼資文武、勇烈過人。初在涼州、與曹操拒蒲阪、曹曰、馬兒不死、吾無葬地矣。後與從弟岱歸昭烈、拜左將軍。卒諡威侯。

嘉慶二十三年(1818)刊『扶風県志』巻十一「人物」

馬岱については馬超の項に「馬超が従弟の馬岱とともに劉備に帰順した」と記される。

 

時代が少し下り、今度は光緒三十二年(1897)刊の『扶風県郷土志』の記述を見ると次のように馬岱について記す。

馬超字孟起、騰之子、兼資文武、勇烈過人。初在涼州、與曹操拒於蒲阪、操曰、馬兒不死、吾無葬地矣。後與從弟岱歸昭烈、章武元年拜驃騎將軍領涼州牧封斄鄉侯。謚威侯。馬岱字伯瞻、騰之從子。蜀漢拜平北將軍、封陳倉侯、諡曰武侯。

光緒三十二年(1897)刊『扶風県郷土志』巻四「耆旧篇」

ベースとなる記述は先述した『扶風県志』に拠るものであるが、赤字箇所「馬岱、字は伯瞻といい、馬騰の甥である。蜀漢の平北將軍を拝し、陳倉侯に封ぜられる。武侯と諡された」が増補されている。この記述が馬岱の字は伯瞻とする典拠となっているのである。

正史を見ると、馬岱は実際に平北将軍に至り、陳倉侯に進爵したため、『扶風県郷土志』の記述は合致する。上述したように馬岱の字と諡は長年不明であり、ソースも明記されていないため、突如現れたこの情報は信憑性に欠ける。では「伯瞻」はどこから来たのであろうか。

 

清代に周學曾らによって編纂された泉州(現福建省 泉州市)の郷土志『晉江縣志』が「伯瞻」の来源ではないかと考える。

馬岱字伯瞻,江都人。成化二年進士,初任戶曹,識監精明。及知泉州,民有數世不葬者,岱諭以禮,旬月葬者千計。僧以尼為下院,岱罪其尤者,餘以配平民。內艱解任,行李蕭然。岱剛峭,好面折人過,不避權貴,多招怨憚,守正嫉邪,世人比於古矜。《閩書》。

『晉江縣志』巻三十二「封蔭志」

記述されている時代は専門外のため意訳はしないが、どうやら成化二年(1466年)に科挙の進士科に合格した江都出身の馬岱 字を伯瞻という人物が存在したようである。

『扶風県郷土志』を作成する上で各地の郷土志を参照し、たまたま『晉江縣志』目にした蜀漢馬岱と明代の馬岱を混合してしまい、蜀漢馬岱の字を伯瞻として記してしまったのではないかと妄想する。

程順則『琉球国創建関帝廟記』翻刻

程順則1663 - 1735年)は江戸時代中期の琉球の士族で儒学者である。

琉球における関帝廟の建立に関してまとめた彼の著書『琉球国創建関帝廟記』が、周煌『琉球国志略』巻十五 藝文に収められている。

 

周煌は乾隆帝琉球王国第二尚氏王朝の尚穆王冊封した際に副使を務めた人物で、彼が琉球で見聞した事柄を『琉球国志略』に記録した。全十六巻。

 

 

さて今回は『琉球国創建関帝廟記』の翻刻を行う。原文は近代書誌・近代画像データベースにて公開されている 神戸大学附属図書館・住田文庫蔵の周煌『琉球国志略』を用いた。

 

琉球国志略 (巻一〜巻十六)::近代書誌・近代画像データベース

http://school.nijl.ac.jp/kindai/SUMI/SUMI-00204.html#330

琉球国創建関帝廟記 程順則

   予至中華見所在神祠血食鄕土者甚多獨關帝

   廟貌淸肅莊嚴上自公卿大夫下至建兒牧豎莫

   不凛然起敬聸禮恐後也帝果何以得此於人哉

   蓋吾嘗聞英雄之生也其氣足以凌霄漢其節足

   以激怒濤夫當漢獻孱弱羣雄割據有一才一技

   者孰不思有所依附以成功名而帝獨識昭烈爲

   帝室之胄委心事之間關勞苦百折不囘且其時

   江東有權許都有操亦足稱一代人傑乃顚倒賢

   豪駕馭一世而獨有帝在其眼中蓋吳雖得地理

   而不知輔漢魏則挾天子令諸侯均非光明磊落

   之所爲視帝之忠義奚啻天壤也其心折於帝也

   宜哉且熟讀春秋手不釋卷舉凡二百四十二年

   之事瞭然於胸所以一舉一動皆本麟經而出之

   予當讀帝廟聯有云後文宣而聖山東一人山西

   一人由此觀之中朝以帝爲聖其尊帝可謂至矣

   茲琉球國已建孔子廟而獨於帝缺其祀典豈帝

   之聲名止洋溢於中夏而不能遠播於海外歟予

   謂不然歲癸亥爲

 

今上御極之二十有二年

 册封正使翰林院檢討汪公楫副使內閣中書舍人林

  公麟焻知吾國有欲爲帝立廟意乃捐俸五十金

  以爲之倡我王喜爲立像祀之從此爼豆馨香帝

  之靈爽實式憑焉然或則疑之謂琉球王位世及

  相傳弗替小心恭順兵革不興祝帝之意果何爲

  也者不知帝之正氣可以塞天地帝之大義可以

  貫古今能使後之爲臣子者靡不知有君父焉豈

  獨廉頑立懦寬鄙敦薄已哉若止論其武功則古

  今戰勝攻取號稱萬人敵者夫豈無人而何以獨

  帝之聲名至今存也然則立廟之意固在此而不

  在彼

 

福岡「関帝廟」・福岡空港「関帝像」

 これまで何度か福岡「関帝廟」およびこの関帝像を幾度か参詣しに足を運んだが、これまでこの像に関して詳細な記事を作成していなかった。昨年末にも関帝像を詣でに行ったので、この機に福岡「関帝廟」の設置当初から現在に至るまでの概要を以下にまとめたい。

 

福岡「関帝廟」の設置

 福岡市は東アジアを舞台に活躍した中世の博多豪商、日本最初のチャイナタウンなど、アジア大陸に最も近いという地理的特性を活かし、国際商業都市として長い歴史を持つ。その特性を活かし、九州やアジアにおける経済活動の拠点都市づくり「ふくおか都市圏まちづくりプラン(福岡都市圏広域行政計画)」*1地域再生計画「九州・アジアの賑わいの都『福岡』」*2を策定してきた。

 その計画が遠因か定かではないが、2002年6月以前より「親不孝通り発展奇成会」が中心となり、天神地区(親富孝通り界隈)にアジア系の飲食店や雑貨、衣料品店を集中させアジアンストリートにするための地域活性化プロジェクト「親富孝通りアジアタウン基本構想」が発足した。そのプロジェクトの一環に、アジアタウンのシンボルとして、またアジアンタウンの守護神、そして財神として、同年内に舞鶴1丁目のトラストパーク AQUA PARKINGのすぐ脇に福岡「関帝廟」を建立し、同年12月22日(日)に除幕式が盛大に行われた。

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上の画像はこちらより引用*3

 この関帝廟に祀られる関帝像は立像で、像容は左手で鬚をしごき、右手には青龍刀を提げる。なお脇侍の関平周倉像はなく関帝像1躯のみが廟内に祀られる。この像は台湾桃園市の鄭 来枝氏により頭部から台座までを1本の樟で彫られたそうだ。*4関帝像の足元には像を説明する案内板が設置されており、以下の解説文を記す。

福岡関帝廟

 福岡関帝廟三国志で有名な武将「関羽」を「関聖帝君」としてお祭りしています。

 「精忠・守義」の将軍として、「護国の神様」さらに昔の中国の簿記の発明者として、「商売繁盛の神様」として信仰されており、家内安全・入試合格・学問の神様としても崇められております。

 神前にひざまずいて合掌し、住所・氏名・生年月日を告げて、願い事をしてください。

 この関帝廟にはスティーブン・セガールや市川 猿之助(三代目)などの有名人が参詣されたと記録が残る。先述した計画自体が頓挫してしまい、親不孝通り界隈の街づくりやそれに伴う環境の整備されなかった結果、先行して関帝廟が建てられたのものの、周囲の環境が整わなかったために、その存在が違和感を覚える形で残ることとなってしまう。

 

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2014年2月22日(土)に撮影。序幕式当初と比べ、両側面と背面に柵が設けられたり、廟内部には拝礼用の座布団や香炉、そして式の様子を撮影した画像のパネル等が置かれている。また親孝行神社の真っ赤な籠も塗装が剥げ落ち、金属の鈍い色になっている。

関帝廟」の消滅

 福岡市に拠点を置き活動されている北伐さんが2015年6月に次のブログ記事を投稿される。

関帝廟へ |北伐ブログ:力漲る三国志手ぬぐい・Tシャツ(2015年6月15日 リンク切れ)

http://hokubatsu.blog.fc2.com/blog-entry-1225.html

 

福岡関帝廟が… | 北伐ブログ:力漲る三国志手ぬぐい・Tシャツ(2015年6月28日 リンク切れ)
http://hokubatsu.blog.fc2.com/blog-entry-1235.html

 

 2015年6月15日(月)の記事に拠れば、関帝廟に行かれた13日(土)当時は廟はもちらん、像も従来通り健在であったようだが、2週間後の6月28日(日)には関帝像がそこにはなく、廟も柱を残すばかりであった、とのことだった。

 同年8月2日(日)に九州へ行く機会があったため、なぜ廟が撤去されたのか、像が消えたのか等その真相を確かめるべく関帝廟のあった場所へ足を延ばし調査を行った。

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廟があったその場所には、周囲のタイルより比較的白く綺麗な四角い跡と、親孝行神社の金属格子が残されるのみであった。 

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 福岡「関帝廟」の入り口を案内していたマスコットキャラクター的存在であった河童像も、関帝廟の撤去に併せてかその場に姿が残されていなかった。駐車場に勤務されていた方にお話を伺うも、関帝廟は移転のため解体されたのではない、との証言を得ることができた。

 2002年12月22日(日)の序幕式から撤去が確認された2015年6月28日(日)まで4571日。およそ12年半もの期間、この場所で日本人や華僑をはじめとする外国人を見守り続けた。

 

関帝像」空港へ移設

 人や文化などを特集する雑誌『きらめき+』のHPに2015年8月17日(月)付の日にちで「 白木塾執筆者・白木大五郎さんより残暑見舞いが届きました。」というページが公開された。 

白木塾執筆者・白木大五郎さんより残暑見舞いが届きました。 | 人、文化、世代をつなぐ「きらめきプラス」

  上記ページに拠れば、2015年は戦後70年の節目の年のため、世界平和と日中友好を祈念して、福岡空港ビルディング株式会社に関帝像のみを寄贈。同年8月10日(月)に福岡国際空港国際線到着ロビー2階にて贈呈式を実施。正式展示は8月末を予定、とのことである。

 関帝像を寄贈したこの白木大五郎氏は何者なのか。 企業リスク研究所*5の代表で、講演会の開催や研究成果に基づいた出版物の発行、個別コンサルティングなどを主に行っている人物のようである。また有限会社柏屋の代表取締役会長も務めているとプロフィールに記載する。

 福岡関帝廟管理委員会を擁していた会社こそが、この柏屋である。つまり関帝像は柏屋の所有物であり、間接的にその代表である白木氏の物でもあった。しかしながら経緯は定かではないが、何らかの事情により関帝像を手放すことになるも、福岡空港が引き取ることで落ち着いたようである。

 さて、白木氏のメッセージ文において誤りがあったため、ここで言及したい。

『天神リクルートビル』の敷地内に設置し、日本に三つしかない『関帝廟』の一つとして長年に渡りアジアンタウン福岡の観光スポットの一つとなっていました『博多関帝廟』の『関羽立像』を戦後70年の節目の今年、世界平和と日中友好を祈念して、福岡空港ビルディング株式会社(社長は前福岡県知事麻生渡氏)に寄贈させていただきました。(中略)尚、寄贈は建屋は除いて『関羽立像』のみです。

企業リスク研究所代表 白木大五郎

 白木氏のメッセージの冒頭部における国内の関帝廟の数であるが、2019年1月9日現在において、日本国内に存在を認識している関帝廟は1.函館「関帝廟」(函館中華會舘)、2.横浜「関帝廟」、3.難波「関帝廟」、4.神戸「関帝廟」(長楽寺)、5.氏が挙げる福岡「関帝廟」の5箇所ある。四天王寺黄檗宗白駒山 清寿院(通称「南京寺」)も関帝廟として広く知られており、これを加えると6箇所となる。ゆえに「日本に三つしかない」ということは決してない、ということだけ指摘したい。さて氏が想定する関帝廟は福岡「関帝廟」以外の2箇所は果たしてどこであろうか。

 

 最後に福岡空港に移設後何度か詣でる機会があった。その際に撮影した関帝像の画像を以下に掲載して終わりとしたい。 

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 移設後も関帝像を解説したパネルが設置されており、日・英・中・韓の4ヵ国語で関帝像について簡潔に紹介がされていた。以下に日本語箇所のみを全文引用する。

関羽

中国の三国時代(184年~280年)、勇猛果敢に活躍した関羽は、武に商に秀で、その才覚は多くの民衆に称えられ、皇帝でも王でもなかったのに中国全土で「関帝」として崇められています。

この像は、日中友好を願う福岡市内の白木大五郎氏より寄贈され、此処に設置致します。

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 上の画像3枚は2016年8月6日(土)に撮影した画像である。関帝像の周囲にはロッキードシリウス機1/4模型のみしか設置されておらず、非常に閑散としていた。また何もないからこそ関帝像がかなり浮いた存在になっていた。

 

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 2018年12月29日(土)に再詣。2年も経過すると、上の画像のように関帝像の位置がシリウス機と入れ替わっており、像の四方にはベンチが設置された。そこに腰掛けると背中に青龍刀に先が当たってしまったり、手を延ばせば触れることが出来る至近距離である。もちろん触れないでくださいという注意書きがない。

 2016年の時よりも周囲が賑わい、利用者が0人になる時間はなく絶え間なく人がロビーを往来していた。また関帝像自体が信仰の偶像から、モニュメント的な存在に役割がシフトしていたように思われる。
 

〒812-0851 福岡県福岡市博多区大字青木739

黄檗宗少林山 達磨寺(再訪)

・北関東三国志ツアー - Togetter
https://togetter.com/li/1207807

北関東三国志ツアーその3。

聖天宮 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180314/1520957334

・中華 孔明 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180316/1521126939

北関東三国志ツアーの敢行に伴い、計画当初の2017年の年末より「神怡館は絶対に、もし可能であれば達磨寺も行きたい」という旨をUSHISUKEさん(@USHISUKE)に伝えていた。目的は関帝像の拝観である。2016年の大型連休を利用して参詣したももの、この時はあいにく拝観することが叶わなかった。「今回こそは」と思いUSHISUKEさんに無理を言ってツアーのプランに組み込んでいただいた。

黄檗宗少林山 達磨寺 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20160508/1462677148


中華 孔明にて昼食を取り、13時過ぎに出発する。孔明から達磨寺までは50kmほど距離があるものおの、廣瀬住職に16時よりお約束を取っていたため、時間的にはかなり余裕があった。途中で深谷城址公園にも拠りつつ高崎線に沿って達磨寺を目指した。

特に渋滞や事故に巻き込まれることなく、15時半頃に達磨寺の駐車場に到着。
先の記事でも紹介したが、今回も達磨寺の縁起を以下に引用する。

黄檗宗禅宗)少林山達磨寺 縁起
昔、碓井川のほとりに観音様のお堂がありました。ある年、大洪水のあと川の中に光る物があるので、里人が不審に思って見ますと香気のある古木でした。これを霊木としてお堂に納めて置きますと、延宝年間(一六八〇頃)一了居士という行者が信心を凝らして一刀三礼、この霊木で達磨大師坐禅像を彫刻してお堂にお祀りしました。まもなく、達磨大師の霊地少林山としてしられると、元禄十年(一六九七)領主酒井雅楽頭は、この地に水戸光圀公の帰依された中国の帰化僧心越禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じ、少林山達磨寺(曹洞宗)を開創しました。
享保十一年(一七二六)水戸家は、三葉葵の紋と丸に水の徽章を賜い永世の祈願所とされました。
のち、隠元禅師を中興開山に仰ぎ、黄檗宗に改め以来法灯連綿として今日に至っております。

まずは住職さんにお会いする前に、最上層の本殿(霊符堂)にてお参りする。前回は曇天であったが、この日は天気にも恵まれ快晴であった。天気によって伽藍が見せる表情が全く異なっており面白く感じた。その後、本殿隣の達磨堂へ。ここでは古今東西各種各様の達磨像や資料等が所狭しと展示されており、中には中曽根元総理の達磨等が展示されていた。規模は小さいものの、非常に見応えのある展示内容であった。

二層下にある寺務所へ住職さんを訪ねに移動し、受付にて関帝像の拝観しに来た旨をお伝えし住職さんに取り次いでいただいた。住職さんに挨拶をし、関帝像を安置しているお堂へ移動する。移動中に、自分が行っている関帝・華光研究の概要をお話すると「この辺(群馬県では)関帝像はうちしか知らないが、華光菩薩像でしたら寳林寺にある」と教えてくださった。以前、達磨寺へ来た際に海野住職にお会いし、寳林寺の華光像を拝観したことをお伝えする。
そういったお話をしている間に、関帝像が安置されている観音堂に到着した。

これまで調査した寺院のほとんどは、関帝像は本堂にお祀りされており、本尊に向かって右須弥壇上に関帝像が達磨像と対にして置かれていた。しかしながら達磨寺では関帝像は観音堂に置かれていたため、つい驚いてしまった。
住職さんのお話に拠れば、観音堂は達磨寺の中でも最も古い建物で、達磨寺が創建された当時の姿を残すそうである。
この観音堂は、もとは一切経を納める「無尽法蔵」という経蔵であった。明治三十二年に造られた十一面観音像が置かれたことを機に、観音堂に名称が改められたと思われる。


観音堂 外観

さて観音堂の内部には須弥壇が三つあり、中央の壇上には十一面観音像が、向かって左壇上には厨子や牌が置かれ、向かって右壇上には厨子が二つ並べて置かれていた。この厨子秘仏だそうで一般公開していないとのこと。


観音堂 内陣と本尊の十一面観音像

まず左側の厨子について。内部が著しく破損しているため、長年扉を閉めているそうである。また状態が酷いため尊名も定かではないらしい。翌日、仏像文化財修復工房の松岡誠一さん(@mokujiki2)にご意見を伺うとどうやらこの像は「弁財天・十五童子像」ではないかとご教示いただいた。以前、別の「弁財天・十五童子像」の修復を手掛けられたそうで、大変ありがたいことに画像もご提示してくださった。この場を借りて改めてお礼を申しあげます。本当にありがとうございました。

・仏像 修復・修理・修繕「仏像文化財修復工房」
http://syuuhuku.com/

厨子入り弁財天十五童子の修復|「仏像文化財修復工房」
http://syuuhuku.com/page/rei2/butuzou/benzaiten/benzaiten.top.html

もう一つの厨子には関帝像(19cm)のみが置かれていた。厨子の大きさは高さが約40cm、幅は約30cm、奥行きが約18cmと少し小さく、まるで念持仏の印象を抱いた。像容について。全身を金色一色で塗られており、幅の広い額飾りが幘に現されており、後頭部から肩まで垂れ下がっていた。表情は太く釣り上がった眉に目尻が釣がった細い目、鼻は髭と鬚は欠けており僅かしか見えない。また右髯は人または動物の毛が見受けられるも経年劣化によるものか数cmほどしか残っていない。鎧の上から袍を纏っており、右手は右腿の上で袍を握る。左手は表現されず。足は例の如く片浜まで広げ椅子ではなく台座に腰かける。他の関帝像には見られない特徴を持つ。
先の弁財天像が入った厨子も大きさほぼ同様であった。関帝像は達磨像と対にして置かれることがほとんどであるが、この関帝像は財神の性格から弁財天・十五童子像と対にして置かれていたのではないかと考える。


さて関帝像を拝観しながら住職さんに何点か疑問を伺うと、以下の事をお話してくださった。火災等で資料が逸しているため多くの事が「分からない」ということであった。

1.関帝像には墨書が見えず、資料が残されていない(現存していない)ため、作成時期や仏師はもちろん、いつ・どのような経緯で達磨寺に置かれたのか不明。
2.当初より関帝だけだったのか、関平周倉像が脇侍像に存在していたか定かではない。
3.心越が達磨寺の開山に携わっているが、大阪・亀林寺のように心越が「寿亭侯印」を達磨寺にももたらしたのか不明。
4.関帝像が入る厨子の底板の裏に「丸山」の二字が見えるが、何を示しているのか不明。
5.厨子内に突き出た二本の釘の用途は不明。蝋燭を挿していたいた可能性も否めない。
6.関帝像と対に達磨像が置かれていたのか不明
7.観音堂は毎年、年始に一度扉を開けるが堂内の厨子の扉は開けることはない。今回数十年ぶりにあけた。(弁天象や関帝像等は原則公開していない≒秘仏として扱っている)

達磨寺蔵 関帝像(※像はモノクロにするなど一部画像処理を行っております)

達磨寺に関帝像が伝わったのは黄檗宗に開宗する前で、心越が開山したタイミングだと考える。まず達磨寺像は他の黄檗宗寺院の関帝像とは像容が少し異なっており(黄檗様式ではない)、また心越が関羽の末裔であると自称していること、亀林寺に関帝像と壽亭公印をもたらしていること、さらに祇園寺(茨城県水戸市)にも壽亭公印をもたらしており、心越の没後関帝と関わりのある人物(黄檗僧や華僑)と達磨寺が接点が見受けられないためである。


やはり「資料が現存しない」というのは非常に悩ましい点ではあるが、住職さんより大変貴重な数々のお話を伺えた。今回の訪問は実りのあるものになった。

今後は心越について、また黄檗宗以外の寺院でお祀りされている関帝像について調べたい所存である。



【参詣日】
・2018年3月10日(土)
【寺院情報】
・建立年 1697年(享保11年)
・本尊 千手観音像
・所在地 群馬県高崎市鼻高町296

第24回例会のレジュメ

昨日龍谷大学の竹内先生が主催されている「三国志研究会(全国版)」第24回例会にて「足利尊氏の「関帝」像について」と題してお話をさせていただきました。

まずはご清聴くださりありがとうございました。

これまでの研究会にて報告したことを踏まえて、今回は扁額より角度を変えてアプローチを行いました。結果はまだまだ核心には至ることができませんでしたが…


さて、今回の例会にて配布したレジュメをGoogle Driveにアップしましたので、ご興味のあるかたは以下のリンクよりご自由に閲覧・保存をしてください。

https://drive.google.com/file/d/1Ddg39PsVARtE14Fu_yMascu7N6ZW-lFG/view

【告知】三国志研究会(全国版)第24回例会で発表します

龍谷大学竹内真彦教授が主催されている「三国志研究会(全国版)」。2018年6月10日(日)に龍谷大学大阪キャンパスにて開催される第24回例会にて「足利尊氏の「関帝」像について」と題して報告をします。

・第24回 三国志研究会(全)例会のお知らせ - 三国志研究会(全国版)
http://3594rm.hatenablog.jp/entry/reikai024

大興寺に伝わる「関帝」像に関して、今年の3月末より少し進展がありましたので、今回はこれまでの報告内容を踏まえて、その像についてお話したいと思います。
よろしくお願いします。

『絵詞要略 誓願寺縁起』

関帝とは直接関係がないが武村南窓をより知るため、また今後彼について調べる中で手掛かりとなりうる資料があったため今回はそれを取り上げる。


慧明 編・東洲 画『絵詞要略 誓願寺縁起』上下巻(以下『縁起』)。絵詞と書いて「えことば」と読むそうだ。跋に「寛政四年壬子秋八月」とあり、成立は1792年。内容は京都の浄土宗誓願寺の略縁起である。誓願寺天明八年(1788)正月三十日に発生した天明の大火により焼失し、寛政四年七月に綸旨を賜って、文化四年(1807)に本堂が再建される。『縁起』は誓願寺再建の勧進のために刊行されたものと考える。

内容は薄いが本題へ。
『縁起』上巻には無記名の漢文序があり、その最期に「南窗武幹書」と署名がされている。蛇足ではあると思うが「窗」は窓の異体字である。その下には縦に「南」と「窗」の印が捺される。大興寺といい、今回の誓願寺といいお寺と何らかの繋がりがあるのだろうか。

異体字が含まれいたり「武」の字がないものの、「関帝」扁額の表面とほぼ同様の字句が記されている。つまり吉村武幹の署名には「南窗武幹」「南窓幹」の2パターンが存在し、意図的なのかは未明であるが書き分けていたものと思われる。

なぜ『縁起』には「吉幹之印」が捺されていないのか、情報が少なすぎるため掘り下げることができないが、印も複数持っており署名と同様に使い分けているものと考える。
彼が関与する他の作品をまだ確認することができていないため、判断材料が著しく不足しているのが現状であり、いろいろと断言するには少し早計であろう。
まずは今後の課題として彼の手掛けた書や作品を探し、どのように署名を残しているのか、また印はどれを用いているのか等々…傾向が分かる程度に情報を収集し分析を行いたい。

「関帝」扁額の作者考

昨日の記事の続き。「関帝」扁額の裏側、つまり「関羽大将軍」の面に記されている人物名を手掛かりに調べた結果、作者であろうと思われる人物がひとり浮上したので、その備忘録を…。

・「関帝」扁額について - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180601/1527812798


関羽大将軍」面にある落款には篆書体で「吉幹之印」と書かれていた。その落款と署名「南窓幹」を手掛かりに調べたところ、ある人物が該当した。

その人物は武村南窓という人物である。彼の来歴は未明であるが、著名な書家だったようで、安永四年(1775)および天明二年(1783)に刊行された京都に住む様々な文化人の情報をまとめた『平安人物志』の書家の項に彼の個人情報が見える。

姓名、字、号、住所、俗称の順で以下に引用する。

『安永四年』本
 【姓名】武 吉幹
 【字】 君貞
 【号】 南窓
 【住所】釜座二条上ル町
 【俗称】武邨新兵衛  

天明二年』本
 【姓名】武 吉幹
 【字】 君貞
 【号】 帰一
 【住所】釜座二条上ル町
 【俗称】武村南窓

住所の「釜座二条上ル町」は現在の京都市中京区大黒町界隈だと思われる。


京都府立総合資料館が所蔵する『初稿草體選』(年代未明)に、扁額と同じ彼の落款が捺されていた。



扁額印


『初稿草體選』印


完全に同一のモノである。さらにこの書の扉には所有者によるものと思われる南窓の来歴を簡潔に記したメモがあり「寛政七年(1795)五月十三日没 齢米弱」とある。
もしこのことが事実であるのであれば、1707年生まれになる。しかしながらその事を肯定できる判断材料がないため、ひとまず置いておきたい。なお文化十年(1813)に刊行された『平安人物志』に彼の名前が見えないことには理解ができる。


川上新一郎(1999)「古今和歌集版本考 : 前稿の補訂をかねて」(『斯道文庫論集 』pp.347-366)のp.352に拠ると武村南窓は「書肆武村新兵衛(四代目)」であったと触れられる。ここでも武村南窓は「寛政七年五月十三日没」と上と同様の事が記されているため、没年はこの日で間違いないようであろう。
また以下のサイトでも武村南窓は書家ではなく書肆であったと以下のように述べられる。兼業しているのだろうか…

寛政三年(1791)に白蛾が加賀藩に召し抱えられる時の身元保証人は、書肆・武村吉幹(南窓)、武村嘉兵衛であった。武村嘉兵衛は宝暦六年(1756)の『古易一家言』の板元として関わって以来、白蛾の晩年に至るまで三十年以上も出版に関わっている。『非白蛾』の翌年に『非白蛾辨』を博厚堂(武村嘉兵衛)から出版しているのも信頼関係があってのことであろう。武村嘉兵衛は寛政元年の『史記評林』紅屋板と八尾板の差構に「挨拶」をして、調停に加わっている所から見ると、大坂書林仲間でも発言力のあった人物だったようだ。

・新井白蛾の基礎的研究 : 江戸の易占(ブログ版)
http://blog.livedoor.jp/narabamasaru-ekigaku/archives/1007679087.html

大きく反れてしまったが、「関羽大将軍」の扁額を作成した南窓幹は、二階堂先生が予測された通りやはり号であった。彼の来歴は未明のため様々な可能性を考えることができるが、例の扁額は彼が存命中(1795年まで)に作成されたものと考える。

よって足利尊氏が「関帝」像と同時期にこの扁額も取り寄せたとされていたが、扁額は足利尊氏の死後350年以上経った江戸時代に造られたものであろう。