大興寺の関連資料の翻刻『先進繍像玉石雑誌』巻第八

最後は『先進繍像玉石雑誌』天保十四年(1843)の記述を取り上げる。個人的に大興寺関羽像に関する記述を掲載する文献は今回のこれで最後である。これら以外にももしかしたら大興寺が蔵する関羽像に関しての記述があるのかもしれない。もし見つかり次第、随時該当する記述の翻刻を行いたいと考える。

山城國愛宕郡芝薬師縁起尓云。尊氏卿あ累夜乃夢尓女来告天云。今汝耳百戰百勝の術を教えん。大元国尓軍神を求天信仰春遍しと。霊夢の如く元朝耳求むる耳王関羽將軍の像を贈らる。尊氏卿此寺乃傍耳安置し給ふと見え多里。芝薬師ハ者しめ大宮乃西五辻の南尓有志可後ハ京極一条尓移さ連今者吉田山乃東真如堂の傍尓移る。霊芝山大興寺古連奈り。本堂の脇耳關羽乃像あり。

大興寺宝永五年京師災後尓吉田神楽岡の東へ迁さ連多りと。燕石雑志耳云ハ誤奈るへし。其故ハ元禄十年乃京圖宝永二年の名。勝志三累吉田山乃東と有ハ奈里。

山城国愛宕郡芝薬師縁起に云う。尊氏卿ある夜の夢に女来たり告げて云う。今汝に百戦百勝の術を教えん。大元国に軍神を求めて信仰すべしと。霊夢の如く元朝に求むるに王関羽將軍の像を贈らる。尊氏卿此の寺に傍に安置し給うと見えたり。芝薬師ははじめ大宮の西、五辻の南に有りしが、後は京極一条に移され今は吉田山の東、真如堂の傍に移る。霊芝山大興寺これなり。本堂の脇に関羽の像あり。

大興寺宝永五年(1708)京師災後に吉田神楽岡の東へ遷されたりと。『燕石雑志』に云うは誤りなるべし。其故は元禄十年(1697)の京図、宝永二年(1705)の銘。『(山城名)勝志』みる吉田山の東と有はなり。


漢壽亭侯乃印を蔵む。

燕石雑志東北院蔵と云ハ誤奈り。東北院ハ大興寺の西に隣る。和泉式部の寺と云。是即ち関羽乃印あるへき理奈り。

漢寿亭侯の印を蔵む。

『燕石雑志』東北院蔵と云うは誤りなり。東北院は大興寺の西に隣る。和泉式部の寺と云う。是即ち関羽の印あるべき理なり。

関羽ハ盪寇將軍漢壽亭侯たり。漢建安廿四年孫権と戰天克春。之尓死春。

日本の神功皇后十九年尓當る。天保壬寅為(?)天千六百廿四年なり。

関羽は盪寇将軍漢寿亭侯たり。漢建安廿四年孫権と戦いて克す。これに死す。

日本の神功皇后十九年(219)に当たる。天保壬寅(天保十三年:1842)為して千六百廿四年なり。

宋大中祥符七年尓至里神靈を現し玉不耳より祠を立天古連を祀るとかや。

日本三条院の長和三年甲寅尓當る。

宋大中祥符七年(1014)に至り神霊を現し玉うにより祠を立てこれを祀るとかや。

日本三条院の長和三年甲寅(1014)に当たる。

皇朝尓天ハ尊氏卿乃祀ら連し楚始奈累へし。

西出ハ元乃文宗の時尓當る。

皇朝にては尊氏卿の祀られしぞ始めなるべし。

西出は元の文宗の時(1329〜1332)に当たる。

丹波国波見保伊勢国天花寺小野村を關將軍乃供粹尓寄ら連しと也。

丹波国 波見保、伊勢国 天花寺・小野村を関羽将軍の供粹に寄せられしとなり。