『絵詞要略 誓願寺縁起』

関帝とは直接関係がないが武村南窓をより知るため、また今後彼について調べる中で手掛かりとなりうる資料があったため今回はそれを取り上げる。


慧明 編・東洲 画『絵詞要略 誓願寺縁起』上下巻(以下『縁起』)。絵詞と書いて「えことば」と読むそうだ。跋に「寛政四年壬子秋八月」とあり、成立は1792年。内容は京都の浄土宗誓願寺の略縁起である。誓願寺天明八年(1788)正月三十日に発生した天明の大火により焼失し、寛政四年七月に綸旨を賜って、文化四年(1807)に本堂が再建される。『縁起』は誓願寺再建の勧進のために刊行されたものと考える。

内容は薄いが本題へ。
『縁起』上巻には無記名の漢文序があり、その最期に「南窗武幹書」と署名がされている。蛇足ではあると思うが「窗」は窓の異体字である。その下には縦に「南」と「窗」の印が捺される。大興寺といい、今回の誓願寺といいお寺と何らかの繋がりがあるのだろうか。

異体字が含まれいたり「武」の字がないものの、「関帝」扁額の表面とほぼ同様の字句が記されている。つまり吉村武幹の署名には「南窗武幹」「南窓幹」の2パターンが存在し、意図的なのかは未明であるが書き分けていたものと思われる。

なぜ『縁起』には「吉幹之印」が捺されていないのか、情報が少なすぎるため掘り下げることができないが、印も複数持っており署名と同様に使い分けているものと考える。
彼が関与する他の作品をまだ確認することができていないため、判断材料が著しく不足しているのが現状であり、いろいろと断言するには少し早計であろう。
まずは今後の課題として彼の手掛けた書や作品を探し、どのように署名を残しているのか、また印はどれを用いているのか等々…傾向が分かる程度に情報を収集し分析を行いたい。