馬岱の逸話

正史には伝わっていない馬岱に関するちょっとしたネタ。

野馬圪塔在縣東四十五里地、近清澗溝、溝底有石寨、山壁鑱「將軍黄巖」四字。縣志、巖即馬岱也。少孤與母避難、僑黃姓室、因名黄巖。時牧馬於此。長投馬超、復姓。
欽定四庫全書『山西通志』卷二十七 山川十一 平陸縣


山西通志に拠ると、野馬圪塔は平陸県の東に四十五里の場所にあり、その近くの清澗にある溝の低い場所には石城がある。山壁には「将軍黄巌」の四字が彫られていた。県志に拠ると、黄巌は馬岱である。幼くして父を亡くし母と難を逃れ、黄家に身を寄せたため、黄厳と名乗った。時にこの場所で馬を飼った。長じて馬超に身を投じ、姓を元に戻した。


馬岱馬超よりも若い(と考えられている)ため、生年は176年以降と推測することができるが、彼の父親は、馬騰の兄ということ以外全く不明であるため、いつどこで亡くなり、どの時期で馬超に合流したのか残念ながら追及することができない。

しかしながら馬岱は城を持っていたとあるため、演義の古城に居座る張飛軍団のような自警団的集団を馬岱が組織していたのではないかと推測する。