少帝 劉弁の忌日(190年1月12日)

初平元年春正月,山東州郡起兵以討董卓。辛亥,大赦天下。癸酉,董卓殺弘農王。

【范曄『後漢書』巻九 孝獻帝紀

初平元年春正月辛亥,大赦天下。侍中周䑛、城門校尉伍瓊說董卓曰:「夫廢立事大,非常人所及。袁紹 不達大體,恐懼出奔,非有他志也。今購之急,勢必為變。袁氏樹恩四世,門生故吏遍於天下,若收豪傑以聚徒眾,英雄因之而起,山東非公之有也。不如赦之,拜 一郡守,則紹喜於免罪,必無患矣。」卓以為然,乃以紹為勃海太守。
癸丑 範書獻帝紀作「癸酉」。按正月壬寅朔,無癸酉,範書誤。,卓殺弘農王。

【袁宏『後漢紀』後漢孝獻皇帝紀一卷第二十六】

後漢紀』に拠ると初平元年春正月癸丑すなわち190年1月12日に弘農王こと少帝 劉弁董卓によって殺められた。新暦では190年3月6日にあたる。

劉弁の最期については『後漢書』皇后紀下が詳しい。

卓乃置弘農王於閣上,使郎中令李儒進酖,曰:「服此藥,可以辟惡。」王曰:「我無疾,是欲殺我耳!」不肯飲。強飲之,不得已,乃與妻唐姬及宮人飲讌別。酒行,王悲歌曰:「天道易兮我何艱!棄萬乘兮退守蕃。逆臣見迫兮命不延,逝將去汝兮適幽玄!」因令唐姬起舞,姬抗袖而歌曰:「皇天崩兮后土穨,身為帝兮命夭摧。死生路異兮從此乖,柰我煢獨兮心中哀!」因泣下嗚咽,坐者皆歔欷。王謂姬曰:「卿王者妃,埶不復為吏民妻。自愛,從此長辭!」遂飲藥而死。時年十八。

【范曄『後漢書』巻十 皇后紀下】

意訳すると、李儒は楼閣上で「この薬を飲めば邪気を払えます」と毒酒を劉弁に献じた。劉弁は「私は病気ではない。これは我を殺そうとするものであろう」と言いそれを拒んだが、李儒は無理やり飲ませようとした。劉弁はやむなくそれを飲み18歳の若さで亡くなった。
横山『三国志』や『蒼天航路』をはじめとする各三国志作品において、劉弁は幼くそして凡愚に描かれているが、実際は成人男性である。おそらく泣き虫でもない。

劉弁がその最期に詞を歌う場面が、彼の人生の中で最も輝いた唯一の瞬間だと思う。