大興寺の関連資料の翻刻 『再撰 花洛名勝図会 東山之部』巻四

大興寺に関する資料を見付けたので、久々に翻刻を。
今回の資料は木村明啓 編,暁鐘成・四方義休・楳川重寛 画『再撰 花洛名勝図会 東山之部』元治元年(1864)である。

芝藥師
同西ニ隣る霊芝山大興寺と号須旧ハ大宮五辻ニあり今芝薬師甼といふ往昔天台宗今禅寺となる東福寺譚月寂澄禅師中興須

芝藥師
同西(真如堂)に隣る。霊芝大興寺と号す。もとは大宮五辻にあり。今芝薬師町という。往昔(いにしえ)天台宗、今禅寺となる。東福寺 譚月寂澄禅師中興す。

本尊 瑠璃光佛
座像三尺五寸運慶の作 十二神將立像三尺許同作左右尓列須
當寺ハ後鳥羽院の御建立尓し天則勅願所なり叡山ハ女人禁制の山なる由ゑ尓婦人登る事を得ざれバ佛工運慶尓勅あり天中堂の薬師仏を摸し天作らしめ三の宮のため尓禁闕の西の方尓四甼四方尓地をひらき仏殿法堂庫裏僧徒山門鐘楼方丈等を建たまふ其後参議従三位武蔵守源朝臣皈依甚多握しと云云
尚委くハ寺記尓見えたり薬王殿の額ハ朝鮮紫峯筆

本尊 瑠璃光佛
座像三尺五寸、運慶の作。十二神将 立像三尺許*1同作左右に列す。
當寺は後鳥羽院の御建立にして、則ち勅願所なり。(比)叡山は女人禁制の山なるゆえに婦人登る事を得ざれば、佛工運慶に勅ありて(比叡山)中堂の薬師仏を摸して作らしめ、三の宮のために禁闕の西の方に四町四方に地をひらき、仏殿・法堂・庫裏・僧徒*2・山門・鐘楼・方丈等を建たまふ。其後、参議従三位武蔵守源朝臣皈依甚だ握しと云云。
尚、委(くわし)くは寺記に見えたり。薬王殿の額は朝鮮 紫峯 筆。

蜀關羽像
脇壇ニ安須関帝の額をかヽぐ南窓武幹の筆なり寺記ニ云此関羽將軍の像ハ足利將軍尊氏公ある夜の夢尓女来里天告て曰く今汝尓百戦百勝の術を教ん大元国尓軍神を求め天信仰春べしと灵夢の如く元朝尓言送り求る尓関羽將軍の像を送れり尊氏此寺の傍尓安置し玉ふ庄園尓ハ丹州波見保勢州天花寺小野村等を寄せ多る其御教書今尚寺尓あり又家臣師直が狀あり且後鳥羽院御寄附の仏舎利あり什宝と須其初芝薬師甼尓あり天其後京極今出川の南尓移里元禄五年炎焼の後この地尓うつる。

蜀關羽像
脇壇に安ず。関帝の額をかかぐ。南窓*3武幹の筆なり。寺記に云、此の関羽将軍の像は、足利将軍尊氏公ある夜の夢の女来たりて告げて曰く「今汝に百戦百勝の術を教えん。大元国に軍神を求めて信仰すべし」と。霊夢の如く元朝に言い送り求るに関羽将軍の像を送られり。尊氏此寺の傍に安置したまう。庄園には丹州 波見保、勢州 天花寺小野村等を寄せたる。其の御教書、今尚寺にあり。又家臣師直が状あり。且、後鳥羽院御寄附の仏舎利あり什宝とす。其初芝薬師町にありて、其後京極今出川の南に移り元禄五年(1692)炎焼の後、この地にうつる。



『花洛名勝図会』には大興寺を描いた次の画も掲載される。それには現存しない仏殿等の伽藍も描かれており、なんとなくではあるが当時の様子を窺い知ることができる。

さて本書は例言に拠ると、『都名所図會』『拾遺都名所図会』の二書が刊行されておよそ80年をが経ったため、その情報の更新も兼ねて本書が編纂されたようである。なお『都名所図會』には大興寺は取り上げない。先日翻刻をした『拾遺都名所図会』と文章が一部共通することから、おそらく編纂時にそれらが参照されたと思われる。
また誤字がかなり多く、例えば「南宋」を「南窓」としたり、「僧塔」を「僧徒」とする。足利尊氏の霊験に関しては誤字ではなく、単に『山城名勝誌』が用いられていなかった故に、ここでも「如来」ではなく「女来里天告て曰く」とする。

関帝像の項にはこれまで全く記載のなかった扁額「関帝」に関して初めて触れられていることから、1.参照した他の資料に記述されていた、2.情報がなかったので追加したものと思われる。もしかしたらこの「80年」の間に何らかの出来事があったのだろうか。

書名については題簽および扉には「再撰 花洛名勝圖会東山之部」、序題では「東山名所図會」とし、書誌情報は統一されていない。


引き続き大興寺を載せる資料を、特に例の篇額について取り上げている資料がないか探したい。

*1:「計」の誤り

*2:「僧塔」の誤り

*3:南宋」の誤り