大興寺の関連資料『月堂見聞集』巻十八

本島知辰(月堂)が元禄十年(1697)から享保十九年(1734)まで江戸や京都、大坂で見聞きした事を記録した雑録。自身の意見や感想などは全く含まず、ただ淡々と客観的に事蹟を書き記す。

享保十年七月から翌享保十一年九月までの出来事を掲載した『月堂見聞集』巻十八に、僅かではあるが大興寺に係る記録があったため、今回はその該当箇所を以下に引用する。なお原書を直接確認することができなかったため、それを収める国書刊行会 編『近世風俗見聞集』二巻(国書刊行会,1912年3月)を用いた。

国立国会図書館デジタルコレクション - 近世風俗見聞集. 苐二
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1749957

〇(享保十一年)三月三日より、東山眞如堂の内靈芝山大興寺本尊藥師、幷尊氏將軍所持關羽、關平、周倉之像開帳

享保十一年(1726)三月三日に大興寺関帝三尊が公開された」という記録である。どうやら現在と同様にこの当時も秘仏であったようである。残念ながらいつまで開帳されていたのか、その期間は記録がない。
これまで大島武好『山城名勝志』宝永二年(1705)や、坂内直頼(白慧)『山州名跡志』正徳元年(1711)では、関帝像の脇侍について一切触れられていなかったが、ここで初めてその情報が記された、ということは特筆すべき点であろう。しかも現在大興寺では脇侍を「関平関興像」と伝承されているが、「關平、周倉之像」とする。
完全に憶測ではあるが、元来は「関帝像、関平関興像」であった。しかし江戸時代における『三国志演義』の大衆化*1に伴い、関羽の左右を侍るのは関平周倉という認識がより広まった(定着した?)ため「関興」が「周倉」に改められ、後に何らかの理由で「関興」に戻された、という可能性も考えることができよう。
この頃の日本は『三国志演義』の大衆化*2や、中国文化が受容されていく時期とも重なるため、そういった事もあり何らかの影響を受けたないだろうか。

*1:『通俗三国志』は元禄四年(1691)3月より京都の書肆 栗山伊右衛門によって刊行されたことも要因の一つか

*2:このことについては上田望「日本における『三国演義』の受容(前篇) : 翻訳と挿図を中心に」(『金沢大学中国語学中国文学教室紀要』9,pp.1-43,2006年3月)が詳しい