臨済宗東福寺派 景徳山 安国寺
安国寺は臨済宗東福寺派の禅修寺院で、山号は景徳山。足利尊氏生誕の地として伝えられ、またアニメ「一休さん」の舞台にもなったことで広く知られる。8月末に催さた「三国志研究会(愛知版)」の第1回例会後に「綾部にも足利尊氏が祀ったと伝わる関帝像があるよ」と教えていただいたため、今回はその確認と住職さんにお話しを伺えることを期待しながら安国寺へお参りすることにした。
JR大阪駅から最寄駅の舞鶴線梅迫駅へ行くには1.福知山駅を経由するか、2.京都駅・綾部駅を経由する方法がある。しかしながらどちらを選んでも所要時間に大差はなくおよそ3時間10分を要する。大阪〜京都間は新大阪駅があることや観光客等で車内が非常に混み合うため、今回は福知山経由に。なお車だと1時間半ほどで行けるようなので、駐車場も十分に広かったため次回はそちらで行きたい次第である。
舞鶴線梅迫駅。改札や券売機はなくもちろん駅員も不在である。
梅迫駅から道なりに沿って南へ10分ほど歩いたところに安国寺は所在する。春は桜の、秋は紅葉の名所としても知られているが、秋がますます深まるこの時期はちょうど紅葉が見頃を迎えていた。
「足利尊氏生誕の地」石碑
安国寺の伽藍は山門、鐘楼、庫裏、方丈、仏殿、開山堂で構成されており、後述するがこのうち仏殿・方丈・庫裏が京都府の指定文化財、山門と鐘楼が府の登録文化財に指定されている。
安国寺の沿革は次の通りである。
景徳山 安国寺 臨済宗東福寺派
安国寺は、西暦四年(993)ごろ地蔵菩薩を本尊として開創されたと伝えられ、もとは光福寺と称した。
建長四年(1252)勧修寺重房が上杉荘を賜り、これより「上杉」を姓とするようになった。その後、光福寺は上杉氏の菩提寺となり、釈迦三尊を合わせ祀った。
嘉元三年(1305)足利尊氏の誕生によって当寺は上杉氏・足利氏の尊崇を受けるようになった。
暦応元年(1338)足利尊氏は、夢窓疎石の勧めによって、元弘の戦乱以降に亡くなった多くの戦没者の霊を慰めるため、国ごとに安国寺・利生塔を建立するにあたり、光福寺を丹波の安国寺とし、諸国安国寺の筆頭においた。
康永元年(1342)尊氏は、南禅寺に住した天庵妙受禅師を招請して安国寺の始祖とし、多くの寺領を寄進した。それ以降、塔頭十六、支院二十八を有する大寺院であったが、江戸中期に至るまでの間に、大半の寺領は押領されて塔頭・支院は減少したが、今なお多くの重要文化財、府・市指定文化財、重宝等を蔵する名刹である。指定文化財
- 重要文化財木造地蔵菩薩半跏像 一躯
- 木造釈迦三尊座像 一躯
- 絹本墨書天庵和尚入寺山門疏 一巻
- 安国寺文書 五巻三幅
- 府指定文化財
- 絹本著色天庵妙受像 三幅
- 仏殿・方丈・庫裏 各一棟
- 府登録文化財
- 山門・鐘楼 各一棟
- 市指定文化財
- 宝篋印塔 三基
綾部の文化財を守る会・安国寺
山門を潜ると茅葺き屋根に真っ白な外壁の仏殿が目の前に飛び込む。白く漆喰で仕上げられているのであろうか。
つい見入ってしまう茅葺屋根。厚さは80cm以上はありそうであった。
さて仏殿内は石畳が敷かれており須弥壇は3つ。中央壇上には中尊に釈迦如来坐像、向かって左手には象に坐乗する普賢菩薩像が、右手には子師に坐乗する文殊像を置く。住職さんのお話に拠ると、かつては「快慶作」として伝わっていたが、1999年〜の調査により胎内から「暦應二年(1339)三月 円派仏師 豪円作」と墨書が発見されたため、仏師と制作時期が判明したそうだ。また元文四年(1739)八月に行われた釈迦三尊の修復の際に普賢・文殊両像の胴体が取り違えて修復されてしまったらしく、2003年の修復まで入れ替わった状態にあったそうである。
左須弥壇上には厨子と複数の牌が、右須弥壇には左手に宝珠を、右手には錫杖を持つ木造地蔵菩薩半跏像(子安地蔵)を置く。上杉清子はこの地蔵像に祈願して足利尊氏を生んだと伝承が残る。
少し長くなってしまったが本題へ。といっても触り程度に
「足利尊氏が祀ったと伝わる関帝像」であるが、庫裏のとある部屋に設置されているガラスケースの中に「尊氏公 産髪」「尊氏公 陣中所持の姿見」「尊氏公 所持堆朱の香合」等々…足利尊氏にまつわる貴重な品々と共に「陣中持参の関羽像」として大切に保管されていた。
この「関羽像」は座像で像高はおよそ24cm、像容は全体的に剥離・欠損あり。頭には幘を被り、目は切れ長で吊り上がっている。髯は経年劣化のためか欠く。胸元は聖恩寺(京都市伏見区)や発志院(奈良県大和郡山市)、崇福寺(長崎市)護法堂内の関帝像のように甲冑が見え、その上から上衣で身をまとう。そしてその衣の一部が左胸元付近でビス(ボタン)のようなもので固定され開襟する。両脇から鳩尾付近を通る2本合わさった帯が1本、腹部には龍(?)のような何かが描かれていたか。両手は右腿上で組む。足は肩幅よりやや広く開いており、右足が一歩前に出る。目視する限りでは全体が焦げ茶色一色であるが、幘と履は深い緑色で額部の装飾と全身を金色で表されていたように思われる。管見の限りでは国内の関帝像の中では発志院像の彩色が特に近い。この「関羽像」は間違いなく関羽である。
画像右側を明るさ等を補正。左袖や左腿付近に金箔がわずかに残る。
住職さんに何点か質問しお話を伺った。
詳細は来月10日(日)の三国志研究会で紹介したい。
安国寺像に関する文献や資料がないか探さなければ…
【追記:2017年12月11日(月)】
昨日は開催された竹内真彦龍谷大学教授が主催する三国志研究会(全国版)の第18回例会にて、上に記したように安国寺像について報告をさせていただいた。ありがたいことに問題点の指摘(これはすぐに確認できそう)や感想をいただけた。やはり大興寺像の方が他の関帝諸像と比べると「特殊」なように思われる。
・【終了】第18回 三国志研究会(全)例会のお知らせ - 三国志研究会(全国版)
http://3594rm.hatenablog.jp/entry/reikai018
さて今回は以下に安国寺の住職さんに伺ったお話を簡潔ではあるが紹介していきたい。
足利尊氏(1305〜1358年)は関羽像を戦の守り神として中国から入手し、常にそれを戦場に携行していた、という寺伝が残る。ここでも大興寺と同様に念持仏として関帝を信仰していたという伝承が伝わっていた。ただし、いつからこの安国寺にその像が安置されているのか、また「関羽像」の脇侍2躯の存在についても文献や伝承等が残っていないため分からない、とお話しされた。
個人的な研究・調査に関連する質問もいくつかさせていただいた。
まず同じ臨済宗東福派の大興寺の関帝像の存在について伺った。すると安国寺以外にも尊氏が祀ったとされる像が存在することに大変驚かれていた。つまり認識されていない様子であった。次に臨済宗寺院のことではなく、各地の黄檗宗寺院で安置されている関帝像および華光菩薩像の存在についても伺った。やはり宗派が異なるため、関帝像が置かれていることや、ごく一部の黄檗宗・曹洞宗寺院にしかない華光も当然のことながらご存知ではなかった。「華光菩薩はどのような字なのか」と逆にご質問され、また三眼である像容に興味を持たれていた。この点に関しても全くであった。
安国寺には関羽像に関する資料がないため、上の伝承しか情報は分からず、であった。その伝承は大興寺のものと完全に一致するため信憑性は強い。しかしながら肯定も否定もできるような判断材料がここでも見つからなかったため、今後も調査を継続していきたい。