昨年、上の記事を作成した際に、伝承では足利尊氏とする箇所が『西遊草』では三代目将軍 足利義満の名で記されていたり、伝「関帝」像の脇侍二躯に関しても、関平・関興ではなく、関平・周倉と尊名が記されていることから、小山松 勝一郎 校注『西遊草』が誤ったものなのか、清河八郎がそのように記したのか疑問を抱いた。そのためオリジナルを確認する必要があったが、それを所蔵する
さて本題へ。
まずは大興寺に関する記述を改めて以下に翻刻する。なお変体仮名は平仮名に改め、句読点は補った。
清河八郎『西遊草』 巻六 安政二年(1855)六月十二日の条
田間の山園なる真如堂にいたる。(略)
また少し手前に芝薬師/あり。女人の中堂といひて古しへより名高/き本尊にて、叡山にありしに、終此所に帰/し、女人の叡山にいたらざる為に、此所にて/拝さする為とぞ。側仏ともに至て古物/なり。当寺に足利義満の所持せし元朝より/伝来の關羽及關平、周倉の木像あるゆへ、/開扉いたし見るに、關羽は床几にかかり、/両人は戈をたづさへ、左右の前に侍せり。/如何成ゆへにて、元より伝来せしや。住/持の僧留守にて、たしかならず。至て/古風のありさまなりき。
清河は大興寺を訪れた際、理由は定かではないが足利尊氏ではなく「足利義満が元より像を取り寄せた」と知見を得たようである。また両脇侍についても「関平・周倉」と尊名が記されていた。よって小山松本の誤りではないことを確認することが出来た。
両脇侍に関する記述は本島知辰(月堂)『月堂見聞集』にも見ることが出来る。
『月堂見聞集』巻十八 享保十一年(1726)三月三日
ここでも尊名を「関平・周倉」としている。このことから最低でも1726年~1855年までの約130年間は、関羽・関平・周倉として祀られていたことを傍証しているといえよう。
周倉が関興に名が改められた時期は未明であるが、おそらくかなり時代が下ってからではないかと考える。平成25年度(2013)京都春季非公開文化財特別公開にあたり、調査が入っていると思われるのでそのタイミング頃が濃厚ではないだろうか…。