歴史家陳寿の苦悩

今回は満田剛先生の著書『「三国志」万華鏡—英雄たちの実像』を読んだまとめである。※メモのようなもの。


史書を書き残すには命懸けの覚悟が必要である。時の権力者が自分の気に入らない記述を書かれた場合、その文章を記した人物を殺し、その出来事を闇に葬ることがある。

例えば春秋時代の斉にて、大夫の崔杼(サイチョ)が、君主である荘公光(第25代君主。後荘公)を殺してしまう事件が起こった。斉の大史(史官)が、この事件を「崔杼、其の君を弑す」と記録したため崔杼に殺される。その後、彼の後を継いだ二人の弟達も兄と同様に同じことを記し殺害されてしまう。しかし四番目の弟を登用するも「崔杼、其の君を弑す」と記述を目にし、崔杼はそれを改めさせるのを諦めた。

上記の様に崔杼は自分が起こした事件を、編者を殺して闇に葬ろうとした。しかも三回もである。歴史の真実を書き残すには命掛けのことであり、権力者の遠慮して事実を捻じ曲げて書かなければならない。なおこの事を「曲筆」と言う。
唐代の人物で「史通」の著者である劉知幾(661〜721年)は、次の言葉を残している。『直筆すれば罪を得、曲筆すれば罪を得ず』つまりは「真実を歴史書に記せば歴史家は殺され、虚実を記せば生き残る」と、歴史書について言及している。

さて「三国志」を記した陳寿は、司馬炎ははじめとする西晋の権力者らに遠慮し、細心の注意を払い「三国志」を書かなければならない。もし彼らの機に障るような記述があれば、自身の生命が危険に晒されたり、「三国志」の存在自体が闇に葬られるかもしれないためである。そこで陳寿は表現をひねって記したのである。例として曹髦の事例を挙げる。

西晋の初代皇帝である司馬炎の父である司馬昭は当時の魏の皇帝であった曹髦(241〜260年、帝位254〜260年)を殺害した。その後曹髦が皇太后の殺害を企て、その宮殿に乗り込まんとして、逆に衛兵に殺害されたとしたために、彼の葬儀は当初は『庶民』として扱う旨の命令が出すが、司馬懿の弟の司馬孚はこれを聞くと自ら皇太后に談判し、その結果『王』の格式で葬儀を行うことになったとされる。

まず陳寿は曹髦を『皇帝』ではなく、即位前の「高貴郷公」として表現。また上記の事件についての概要や詳細は一切記述をせず、皇帝の死を意味する「(崩御)」ではなく、それより軽い表現「(卒去)」を用いており、また死去の場所を書かないことで事態の異常さを間接的に表現している。

五月己丑,高貴鄉公 卒,年二十。

さらに曹髦が殺害される前の文章には、彼がいかに優秀な人物であったかを示す逸話を並べ、その後にいきなり「卒」の字を使っているのである。このことにより陳寿は曹髦が普通の死に方をしなかったこと程度は推測出来る様に表現したのである。

さて満田剛先生は著書で『陳寿は短期間で編纂できたのはすでに編纂された史書を「切り貼り」して必要最小限にまとめただけである。従って三国志は『三国時代のダイジェスト』」と評されている。その切り貼りした史料を編纂する際に陳寿が知った事実や、それを苦悩の末に散りばめられた数多くの曲筆(問題)を整理し紐解いて読むのが、三国志を理解する上で重要な事であろう。ただし当事者しか真実を知らないため、模範回答はなく、仮説しか導き出すことが出来ないが…