馬岱の字を考える2

思い付きです。

 

三年前に作成した上の記事において若干触れたが、馬岱の字が「伯瞻」とする説があり、その出典が『陜西省扶風縣郷土志』に見える、ということは一部の三国志ファンの間では知られている。陳寿三國志』や『三国志平話』、そして『三国志演義』各版本において、馬岱の字はいずれも記されていない。

しかしながら19世紀になり、長年不明であった馬岱の字が突如判明する。しかも諡も何故か明らかになっているのである。今回は字のみに焦点を当てる。

 

まずは嘉慶二十三年(1818)に刊行された『扶風県志』に見える馬岱の記述を見たい。

馬超字孟起、騰之子、兼資文武、勇烈過人。初在涼州、與曹操拒蒲阪、曹曰、馬兒不死、吾無葬地矣。後與從弟岱歸昭烈、拜左將軍。卒諡威侯。

嘉慶二十三年(1818)刊『扶風県志』巻十一「人物」

馬岱については馬超の項に「馬超が従弟の馬岱とともに劉備に帰順した」と記される。

 

時代が少し下り、今度は光緒三十二年(1897)刊の『扶風県郷土志』の記述を見ると次のように馬岱について記す。

馬超字孟起、騰之子、兼資文武、勇烈過人。初在涼州、與曹操拒於蒲阪、操曰、馬兒不死、吾無葬地矣。後與從弟岱歸昭烈、章武元年拜驃騎將軍領涼州牧封斄鄉侯。謚威侯。馬岱字伯瞻、騰之從子。蜀漢拜平北將軍、封陳倉侯、諡曰武侯。

光緒三十二年(1897)刊『扶風県郷土志』巻四「耆旧篇」

ベースとなる記述は先述した『扶風県志』に拠るものであるが、赤字箇所「馬岱、字は伯瞻といい、馬騰の甥である。蜀漢の平北將軍を拝し、陳倉侯に封ぜられる。武侯と諡された」が増補されている。この記述が馬岱の字は伯瞻とする典拠となっているのである。

正史を見ると、馬岱は実際に平北将軍に至り、陳倉侯に進爵したため、『扶風県郷土志』の記述は合致する。上述したように馬岱の字と諡は長年不明であり、ソースも明記されていないため、突如現れたこの情報は信憑性に欠ける。では「伯瞻」はどこから来たのであろうか。

 

清代に周學曾らによって編纂された泉州(現福建省 泉州市)の郷土志『晉江縣志』が「伯瞻」の来源ではないかと考える。

馬岱字伯瞻,江都人。成化二年進士,初任戶曹,識監精明。及知泉州,民有數世不葬者,岱諭以禮,旬月葬者千計。僧以尼為下院,岱罪其尤者,餘以配平民。內艱解任,行李蕭然。岱剛峭,好面折人過,不避權貴,多招怨憚,守正嫉邪,世人比於古矜。《閩書》。

『晉江縣志』巻三十二「封蔭志」

記述されている時代は専門外のため意訳はしないが、どうやら成化二年(1466年)に科挙の進士科に合格した江都出身の馬岱 字を伯瞻という人物が存在したようである。

『扶風県郷土志』を作成する上で各地の郷土志を参照し、たまたま『晉江縣志』目にした蜀漢馬岱と明代の馬岱を混合してしまい、蜀漢馬岱の字を伯瞻として記してしまったのではないかと妄想する。