張特と張持と張時

以下の続き

・涿郡張氏 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20171124/1510535268

張特については既に記したので今回は割愛する。

まずは張持について。

(赤烏)二年春三月,遣使者羊衜、鄭冑、將軍孫怡之遼東,擊魏守將張持、高慮等,虜得男女。
【『三國志』吳書二 吳主傳】

赤烏二年(239)三月に孫権は遼東に羊衜と鄭冑、そして孫怡を遣わせて張持と高慮等を撃ち破りそこの男女を捕虜にした。この件以外での記述は残されていないため、彼の来歴等の詳細は不明である。

次に張時について。

『魏略』曰:畿少有大志。在荊州數歲,繼母亡後,以三輔開通,負其母喪北歸。道為賊所劫略,衆人奔走,畿獨不去。賊射之,畿請賊曰:「卿欲得財耳,今我無物,用射我何為邪?」賊乃止。畿到鄉里,京兆尹張時,河東人也,與畿有舊,署為功曹。嘗嫌其闊達,不助留意於諸事,言此家疏誕,不中功曹也。畿竊云:「不中功曹,中河東太守也。」

『魏略』曰:初,畿與衞固少相侮狎,固常輕畿。畿嘗與固博而爭道,畿嘗謂固曰:「仲堅,我今作河東也。」固褰衣罵之。及畿之官,而固為郡功曹。張時故任京兆。畿迎司隷,與時會華陰,、畿相見,於儀當各持版。時歎曰:「昨日功曹,今為郡將軍也!」
【『三国志』魏書巻十六 杜畿傳引『魏略』】

『魏略』曰:京兆尹張時,河東人也。與杜畿有舊,署為功曹。常言:「此家疏誕,不中功曹也。」畿竊云:「不中功曹,中河東太守」。【『太平御覽』職官部六十二 功曹參軍】

張時に関しては『三國志』の本文中ではなく『魏略』にその名が見える。張"時"だけに杜畿伝…まだ『太平御覽』の功曹參軍の項にも記述が見えるが、内容は下線で示したようにほぼそれと同様の旨が記される。張時は字が不明、司州河東郡が本貫である。

張持は「斬」ではなく「撃」とあるため、遼東にて敗戦したということであろう。もしかしたら張持は張特と同一人物であるという可能性は十分にありそうである。一方の張時は杜畿よりも年齢が上と読み取れるものの、幽州付近での活躍がないため。こちらは判断材料不足のため、同一人物だと考えるにしてもかなり無理が生じよう。