北野天満宮

北野天満宮は学問の神さまとして菅原道真主祭神として祀り、梅や紅葉の名所としても有名な京都を代表する神社の1つである。旧称は北野神社。京都市上京区に鎮座する。

 

由緒は定かではないが、天暦元年(947)に開創し、社殿が造営されたと伝わる。文安元年 (1444)の文安の麹騒動により焼失するが、慶長十二年(1607)に豊臣秀頼によって再建された社殿は、絢爛豪華な桃山文化を造営当時のまま今に伝え、国宝に指定される。

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三光門
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社殿(拝殿)

 

境内には楼門や三光門、宝物殿、社殿、絵馬所、回廊をはじめ、大小様々な社を配する。 さて北野天満宮には2点もの「三国志」を題材とした作品があり、いずれも絵馬所で観ることが出来る。

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絵馬所

 

絵馬所は楼門を入った西側に位置し、桁行六間、梁間二間の入母屋造りで桟瓦葺となっている。絵馬所については次の説明がされる。

北野天満宮絵馬所

 北野天満宮の本殿を始めとする主要な社殿は慶長十二年(1607)に再建されたもので、その後、元禄十三年(1700)から翌年にかけて大修理が行われている。現在の絵馬所は、元禄の大修理の際に建て替えられたものである。建築当初は、現在の位置より北に、棟を南北に通して建ち、また、屋根も現在は浅瓦葺であるが、当初は木の板で葺いた木賊葺であった。 この絵馬所は、規模が大きく、京都に現存する絵馬堂の中で最も古いものであり、江戸時代中期の絵馬堂の遺構として貴重である。

昭和五十八年六月指定 京都市

 

京都の寺社などを紹介する現在で言うガイドブックとして、安永九年(1780)に刊行された『都名所圖會』を見ると、かつては絵馬所が棟を南北に向いていたことが確認できる。(赤矢印部

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『都名所圖會』北野天満宮 挿絵より

 

時代が少し下り、大正十年(1921)には絵馬所南側に桁行三間が増築された。その結果、京都市の絵馬殿の中で最も大きい規模となり、また少しいびつな形状となった。北野天満宮に奉納された絵馬のほとんどがこの絵馬所に掛けられているが、その多くが雨風に晒されていたり経年による劣化のため図様が損失していたり状態が芳しくない絵馬が多々見える。

 

さて少し前置きが長くなってしまったが、「三国志」作品を順に見ていきたい。残念ながらいずれも題名が不明のため便宜上「仮題」を付ける。

 

 

三顧の礼図」

縦およそ 1.2m、横およそ 2m。左より順に童子劉備関羽張飛の4人が描かれる。言わずもがな諸葛亮の草廬を訪ねるお馴染みの場面である。著しい退色や損傷はなく、全体的に色彩が残るが全体的に白っぽい印象を受ける。

左側には草盧が見えるものの、諸葛亮の姿はない。赤い袍に身を包み烏帽子のような形状の冠を戴く劉備と、緑の幘を被り緑の袍を纏う関羽。そして茶色が基調の袍を身に纏う張飛の姿を観ることが出来る。

署名や落款は見えず筆者は不明。関羽張飛の頭上には右書で「奉納」の二字が、また右端には「寶暦二壬申年(1752)二月吉」と記す。

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三顧の礼図」 
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童子 
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劉備 
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関羽張飛

 

「馬上関羽図」

縦およそ 1.8m、横およそ 0.9m。赤兎馬に跨り青龍刀を手にする関羽が描かれる。先の「三顧の礼図」と比べると著しく退色しており、赤色で着色されていたと思われる箇所は白っぽく、また緑色だった箇所は赤茶色っぽく変化している。幸いなことにまだ輪郭線が薄っすらと見えるため、関羽赤兎馬の表情をはじめとする細部が何となく認識することが可能である。

当初の状態を想像することが難しく、注視しなければ関羽と気付かないであろう。絵馬や額には署名や落款、奉納年などが見えず、詳細は一切不明である。

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「馬上関羽図」

 

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