八坂神社
北野天満宮を後にし、続いては八坂神社へ参詣しに向かった。
八坂神社は京都東山を代表とする観光地として、国内外から多くの参拝者が訪れる。主祭神に素戔嗚尊を祀り、全国の八坂神社の総本社とされる。旧称は祇園社。夏には日本三大祭りのひとつに数えられる祇園祭や、大晦日には 白朮祭 などが行われ、今もなお篤い信仰を集める神社である。
社伝に拠ればその由緒は斉明天皇二年(656)に創祀、貞観十八年(876)に建立されたと伝わる。境内には南楼門や西楼門、本殿、舞殿、絵馬堂、末社が置かれる。承応三年(1654)に徳川家綱によって再建された社殿は、拝殿と本殿を大屋根で覆った「祇園造り」と呼ばれる独特な建築様式となっており、重要文化財に指定される。現在は重要文化財から国宝指定に向けて調整がされているそうである。
さて八坂神社には先の北野天満宮と同様に、2点もの「三国志」作品が伝わっており、やはりいずれも絵馬堂に観ることが出来る。
絵馬堂
絵馬堂は西楼門を入って北側に位置する。建立年は未明であるが、正保三年(1646)から遅くとも安永九年(1780)までには建立されたと思われる。その大きさは桁行七間、梁間三間で屋根は入母屋造りの桟瓦葺。大小様々な絵馬がその内外に懸かるが、外側だけでなく内部も金網が張り巡らされている。また絵馬堂内に立ち入ることが禁止されているため、残念なことに絵馬群の半分すら目にすることが叶わない。
また八坂神社の絵馬は清水寺の絵馬と並んで広く知られていたようで、合川珉和,北川春成 画『扁額軌範』(文政二年(1819)序)に多くの作品が収録される。
絵馬堂外壁
絵馬堂内部
八坂神社の「三国志」は残念ながらいずれも題名が不明であったため、今回も便宜上「仮題」を付けて順に見ていきたい。
絵馬堂内に懸かる。大きさは不明。縦長で横幅が狭い小さめな絵馬に、関羽と周倉の二人の姿が描かれる。全体的に退色しており、加えて木目に沿って塗料が剥落してしまっているものの、まだ鑑賞に堪えうる状態である。
関羽はお馴染みの像容で、緑の幘と緑の袍を纏い、右手には『春秋』と思われる経文を手にする。左手は自身の髯をしごき、椅子に腰を掛ける。『演義』に「面如重棗,唇若抹朱,丹鳳眼,臥蠶眉」とあるように、この関羽も目尻が吊り上がり、眉は太く、髯は腹部にまで届く長さで表される。その左側には、顔や手は浅黒い色で表され、赤い房がついた笠形盔を被り両手で青龍刀を抱く周倉が侍る。
絵馬の右側には「寶暦九己卯歳(1759)正月吉日」、その下に「西本■之■」と個人名が記される。おそらく願い主の名であろうか。また左下部には「高清」と名が見える。落款は欠く。
墨書
墨書「西本■之■」
墨書「高清」
先述したように絵馬堂内に立ち入ることができず、その内部は金網が張り巡らされているため、丹眼鏡などの望遠できるものがあることが好ましい。
撮影するにあたり、絵馬ではなく金網にピントが吸われてしまうため、こちらも要注意である。
「馬上関羽図」
こちらは絵馬堂北側(円山公園側)の後壁部に掲げられる。こちらも距離があり正確な大きさは不明であるが縦 2m、横 1.5m はあろうか。やはり全体を金網に覆われる。
青龍刀を手に赤兎馬に跨る関羽が描かれるが、屋外に懸かり雨風にさらされていたこともあり、色彩はおろか図様を完全に損失しているため、関羽が描かれていることすら気が付かないほど劣化している。
この絵馬の赤兎馬は手綱や馬具しか残っておらず、関羽ですら上半身が何とか分かる程度である。何とか輪郭線は見えるものの、着色されていた部分は白く退色してしまっている。また板材の木目が強く出てしまっているため、本来描かれていたシルエットすら不明瞭。
関羽の左肩部には緑色が見えることから当初はやはり緑の袍に身を包んだ関羽が描かれていたものと思われる。右下部に落款が 2 つ彫られ、その上部には墨書らしき痕跡は見えるが判読不明。
額の上辺には「奉納」、右辺には「日■丸壽組/講元 ○大 市兵衛 越後屋吉兵衛 布屋嘉兵衛 ■■/市田屋忠右衛門 岡 利三郎 大丸/世話方 二文字屋佐兵衛 日和田屋新七目 常 七近江/近江屋利助 大坂屋嘉兵衛 ■」と奉納者の名が連ねられ、左辺には「安政六年未(1858)春 宿坊 寶壽■」と彫られる。
先の「関羽・周倉図」と同様に、望遠できるものがあれば細部まで楽しめよう。
外観
「馬上関羽図」
落款
京都観光などで東山地区や八坂神社を訪れられた際は、絵馬堂にも足を延ばしてはいかがだろうか。
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