仙石知子『毛宗崗批評『三國志演義』の研究』拝受

以下の記事で紹介したように、先月末に仙石知子先生の『毛宗崗批評『三國志演義』の研究』が刊行された。

・仙石知子『毛宗崗批評『三國志演義』の研究』(2017年12月) - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20171226/1514218225

演義』の研究ということで興味を持っていたところ、一昨日大変恐れ多いことに仙石先生よりご恵贈いただいた。誠にありがとうございます。

本書は文学から明清時代の社会情勢についてアプローチをされているため、社会学的な要素が非常に強い。特に関帝信仰を調べている身ということもあり毛宗崗本が書かれた当時の様子を考えるためにも非常に役立つ資料になるものと思う。
ゆっくりと拝読して、修養したいと考える。

ご著書拝受

先日、関西大学教授 二階堂善弘先生の研究室へお伺いした際に、大変嬉しいことに今では絶版となってしまったタイトルも含め、以下に挙げた数々の先生の著書を拝受しました。本当にありがとうございました。

・関西大・二階堂研究室 NIKAIDO Yoshihiro
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/

『明清期における武神と神仙の発展』(関西大学出版部,2009年2月)
『アジアの民間信仰と文化交渉』(関西大学出版部,2012年8月)
『神話から神化へ−中国民間宗教における神仏観−』(関西大学出版部,2015年12月)

道教美術の可能性』(勉誠出版,2010年6月)
日中韓の武将伝』(勉誠出版,2014年3月)
『近現代中国の芸能と社会-皮影戯・京劇・説唱-』(好文出版,2013年11月)


帰宅後はまずは自分の興味を抱いていることに関するテーマを中心に、あちこちベ−ジをたぐりながら読ませていただきました。「伽藍神」やその変遷について、当時大陸における民間信仰の状況や歴史背景について、さらに日本の信仰やその広がり等々…やはり知らないことが非常に多く、まだまだ勉強しなければならないと強く感じました。
今後はこれらを参考にしながら関帝や華光を探求・調査していきたいと考えます。

曹操の忌日(220年1月23日)

(建安二十五年春正月)庚子,王崩于洛陽,年六十六。
陳寿三國志』魏書巻一 武帝紀】

220年1月23日に魏王 曹操が洛陽にて66歳で亡くなった。新暦では220年3月15日にあたる。


そんな訳で、曹操を偲び蒼天航路の「ならばよし!」湯呑で昨日紹介した曹操「梅酒」を、さらにカルビー曹操…もといSOU・SOUがコラボした期間限定「ポテトチップスギザギザ 梅塩こんぶ味」を肴に。これで満点かな。

「桃園の誓い」「梅酒」入手

昨年2017年10月5日(木)〜10月31日(火)に中野ブロードウェイにて開催された横山光輝三国志45周年記念企画展「「げぇっvsむむむ」with 美女図鑑」にて販売されていたオリジナルグッズの1つ「桃園の誓い」「梅酒」を幸運なことに入手することができた。

まず向かって左の「桃園の誓い」。
米焼酎乙類甲類混和で金箔入り。アルコール度数は少し控えめの25度。ラベルにはお馴染みの台詞「我ら天に誓う〜」と盃を掲げ乾杯をする三兄弟と劉備の母が描かれる。

一方の梅酒は「喉の渇きを潤す梅酒-張繍討伐のお供に-」が正式な名称のようである。ラベルには『世説新語』仮譎に掲載される故事「梅林止渇」を基にした遠くを指さす曹操が描かれる。こちらは焼酎仕込みの梅酒で、度数は12度とかなり飲みやすくなっている。
せっかくなので三国志好きの方と一献組み合いたいものである。

【告知】三国志研究会(全国版)で発表します

龍谷大学竹内真彦教授が主催されている「三国志研究会(全国版)」。来週2018年1月28日(日)に龍谷大学梅田キャンパスにて予定される第19回例会にて「地誌に見える大興寺関帝」像について」と題して、地誌をはじめとする記録を通して大興寺像についてご紹介したいと思います。

・第19回 三国志研究会(全)例会のお知らせ - 三国志研究会(全国版)
http://3594rm.hatenablog.jp/entry/reikai019

よろしくお願いします。

姜維・鍾会・劉璿・張翼の忌日(264年1月18日)

(咸熙元年春正月)是月,鍾會反于蜀,爲衆所討;訒艾亦見殺。

陳寿三國志』魏書巻四 陳留王紀】

(景元五年一月)十八日日中(略)姜維率會左右戰、手殺五六人、衆既格斬維、爭赴殺會。會時年四十,將士死者數百人。

陳寿三國志』魏書巻二十八 鍾會傳】

咸熙元年正月,鍾會作亂於成都,璿為亂兵所害。

陳寿三國志』蜀書巻四 太子璿傳】

會既構訒艾,艾檻車徵,因將維等詣成都,自稱益州牧以叛。欲授維兵五萬人,使為前驅。魏將士憤怒,殺會及維,維妻子皆伏誅。

陳寿三國志』蜀書巻十四 姜維傳】

(景耀)六年,與維咸在劒閣,共詣降鍾會于涪。明年正月,隨會至成都,為亂兵所殺。

陳寿三國志』蜀書巻十五 張翼傳】

(咸熙元年春正月)鍾會遂反於蜀,監軍衞瓘、右將軍胡烈攻會,斬之。

【房玄齢 他『晋書』巻二 文帝紀

魏と蜀で用いられている年号が異なり、しかもその年に改元されるためるため少しややこしいが、これらの記述を以下にまとめると、鍾会に幽閉されていた胡烈らが、264年1月18日に反乱を起こし、姜維鍾会、劉璿、張翼や彼らの家族を斬った。新暦では同年3月3日にあたる。

姜維は63歳で、鍾会は40歳、劉璿は39歳、張翼に関しては年齢の記述が皆無のため不明である。

姜維が散った際の逸話「世語曰:維死時見剖,膽如斗大。」は非常に有名である。

大興寺の関連資料『月堂見聞集』巻十八

本島知辰(月堂)が元禄十年(1697)から享保十九年(1734)まで江戸や京都、大坂で見聞きした事を記録した雑録。自身の意見や感想などは全く含まず、ただ淡々と客観的に事蹟を書き記す。

享保十年七月から翌享保十一年九月までの出来事を掲載した『月堂見聞集』巻十八に、僅かではあるが大興寺に係る記録があったため、今回はその該当箇所を以下に引用する。なお原書を直接確認することができなかったため、それを収める国書刊行会 編『近世風俗見聞集』二巻(国書刊行会,1912年3月)を用いた。

国立国会図書館デジタルコレクション - 近世風俗見聞集. 苐二
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1749957

〇(享保十一年)三月三日より、東山眞如堂の内靈芝山大興寺本尊藥師、幷尊氏將軍所持關羽、關平、周倉之像開帳

享保十一年(1726)三月三日に大興寺関帝三尊が公開された」という記録である。どうやら現在と同様にこの当時も秘仏であったようである。残念ながらいつまで開帳されていたのか、その期間は記録がない。
これまで大島武好『山城名勝志』宝永二年(1705)や、坂内直頼(白慧)『山州名跡志』正徳元年(1711)では、関帝像の脇侍について一切触れられていなかったが、ここで初めてその情報が記された、ということは特筆すべき点であろう。しかも現在大興寺では脇侍を「関平関興像」と伝承されているが、「關平、周倉之像」とする。
完全に憶測ではあるが、元来は「関帝像、関平関興像」であった。しかし江戸時代における『三国志演義』の大衆化*1に伴い、関羽の左右を侍るのは関平周倉という認識がより広まった(定着した?)ため「関興」が「周倉」に改められ、後に何らかの理由で「関興」に戻された、という可能性も考えることができよう。
この頃の日本は『三国志演義』の大衆化*2や、中国文化が受容されていく時期とも重なるため、そういった事もあり何らかの影響を受けたないだろうか。

*1:『通俗三国志』は元禄四年(1691)3月より京都の書肆 栗山伊右衛門によって刊行されたことも要因の一つか

*2:このことについては上田望「日本における『三国演義』の受容(前篇) : 翻訳と挿図を中心に」(『金沢大学中国語学中国文学教室紀要』9,pp.1-43,2006年3月)が詳しい

朗読劇『時空NONフィクション 三國戦国 〜曹操 対 信長〜』(2018年2月9日〜2月11日)

昨年、2017年11月22日(水)より出演者のオーディションの募集が始まった本公演。以下のサイトに拠ると、2018年2月9日(金)〜11日(日)に赤坂CHANCEシアターにて三井秀樹朗 脚本の読劇『時空NONフィクション 三國戦国 〜曹操 対 信長〜』(全9ステージ)が公演される。

・オーディションプラス-時空NONフィクション「三國戦国〜曹操対信長〜」
http://audition.nerim.info/audition-201712/audition-2017112297.html

・時空NONフィクション「三國戦国〜曹操対信長〜」
http://www.jat.or.jp/sangokusengoku

残念ながら本公演の情報の詳細は公式サイトが更新等されていないためまともには発信されておらず、出演者のTwitterアカウントからの投稿でしか確認することはできないが、料金は大人・子供一律の3500円(1Drink込み)で、座席は自由席なのか指定席なのかは未明であり公演時間に関しても不明である。公演スケジュールは次のようになっている。詳しくは「#三國戦国」より。



あらすじ及び登場キャラクターは以下の通りである。

本能寺の変にまつわる事象はいくつかの謎がある。
信長の遺体はどこへ行ってしまったのか?
何故明智光秀は謀反を起こしたのか?
秀吉は数日で高松から尼崎まで信じられないスピードで移動出来たのか?
(中国大返しが可能だったのか?)
そして、後年、秀吉はなぜ、中国大陸出兵を行ったのか・・・
その全ての謎が今、明かされる。
天正 10 年 6 月 2 日、深夜、本能寺は突然の炎に包まれた。
明智光秀による襲撃により、織田信長の命はまさに風前の灯火であった。
が、その時現れたのは、すでに死んだはずの信行であった。
信行に導かれて辿り着いたのは後漢時代の中国
そこで遭遇する曹操と意気投合する信長。
実は、光秀は曹操の敵である呂布密教の秘術(!)により、時空を超えて結託していたのだ。
が、信長がこちらの時代に現れ、曹操と意気投合するのは想定外。
そこで、光秀は曹操に、呂布は信長に、互いが疑心暗鬼になるように導いていく。
寝所を襲われる信長と蘭丸。
それは本能寺の再現か。
が、蘭丸が信行から託されたホラ貝を吹く中国大帰り途上の羽柴軍が現れる。
激突する秀吉と関羽
そして黒田勘兵衛と夏侯 惇、許褚
更に信長と曹操が激突する。
果たして、勝利はどちらの手に!?


織田信長
森蘭丸
織田信行(信長の弟)
羽柴秀吉
黒田官兵衛
明智光秀

曹操
関羽
郭嘉
夏侯惇
許褚
呂布


〒107-0052
東京都港区赤坂2丁目6−22

少帝 劉弁の忌日(190年1月12日)

初平元年春正月,山東州郡起兵以討董卓。辛亥,大赦天下。癸酉,董卓殺弘農王。

【范曄『後漢書』巻九 孝獻帝紀

初平元年春正月辛亥,大赦天下。侍中周䑛、城門校尉伍瓊說董卓曰:「夫廢立事大,非常人所及。袁紹 不達大體,恐懼出奔,非有他志也。今購之急,勢必為變。袁氏樹恩四世,門生故吏遍於天下,若收豪傑以聚徒眾,英雄因之而起,山東非公之有也。不如赦之,拜 一郡守,則紹喜於免罪,必無患矣。」卓以為然,乃以紹為勃海太守。
癸丑 範書獻帝紀作「癸酉」。按正月壬寅朔,無癸酉,範書誤。,卓殺弘農王。

【袁宏『後漢紀』後漢孝獻皇帝紀一卷第二十六】

後漢紀』に拠ると初平元年春正月癸丑すなわち190年1月12日に弘農王こと少帝 劉弁董卓によって殺められた。新暦では190年3月6日にあたる。

劉弁の最期については『後漢書』皇后紀下が詳しい。

卓乃置弘農王於閣上,使郎中令李儒進酖,曰:「服此藥,可以辟惡。」王曰:「我無疾,是欲殺我耳!」不肯飲。強飲之,不得已,乃與妻唐姬及宮人飲讌別。酒行,王悲歌曰:「天道易兮我何艱!棄萬乘兮退守蕃。逆臣見迫兮命不延,逝將去汝兮適幽玄!」因令唐姬起舞,姬抗袖而歌曰:「皇天崩兮后土穨,身為帝兮命夭摧。死生路異兮從此乖,柰我煢獨兮心中哀!」因泣下嗚咽,坐者皆歔欷。王謂姬曰:「卿王者妃,埶不復為吏民妻。自愛,從此長辭!」遂飲藥而死。時年十八。

【范曄『後漢書』巻十 皇后紀下】

意訳すると、李儒は楼閣上で「この薬を飲めば邪気を払えます」と毒酒を劉弁に献じた。劉弁は「私は病気ではない。これは我を殺そうとするものであろう」と言いそれを拒んだが、李儒は無理やり飲ませようとした。劉弁はやむなくそれを飲み18歳の若さで亡くなった。
横山『三国志』や『蒼天航路』をはじめとする各三国志作品において、劉弁は幼くそして凡愚に描かれているが、実際は成人男性である。おそらく泣き虫でもない。

劉弁がその最期に詞を歌う場面が、彼の人生の中で最も輝いた唯一の瞬間だと思う。

大興寺の関連資料の翻刻 『再撰 花洛名勝図会 東山之部』巻四

大興寺に関する資料を見付けたので、久々に翻刻を。
今回の資料は木村明啓 編,暁鐘成・四方義休・楳川重寛 画『再撰 花洛名勝図会 東山之部』元治元年(1864)である。

芝藥師
同西ニ隣る霊芝山大興寺と号須旧ハ大宮五辻ニあり今芝薬師甼といふ往昔天台宗今禅寺となる東福寺譚月寂澄禅師中興須

芝藥師
同西(真如堂)に隣る。霊芝大興寺と号す。もとは大宮五辻にあり。今芝薬師町という。往昔(いにしえ)天台宗、今禅寺となる。東福寺 譚月寂澄禅師中興す。

本尊 瑠璃光佛
座像三尺五寸運慶の作 十二神將立像三尺許同作左右尓列須
當寺ハ後鳥羽院の御建立尓し天則勅願所なり叡山ハ女人禁制の山なる由ゑ尓婦人登る事を得ざれバ佛工運慶尓勅あり天中堂の薬師仏を摸し天作らしめ三の宮のため尓禁闕の西の方尓四甼四方尓地をひらき仏殿法堂庫裏僧徒山門鐘楼方丈等を建たまふ其後参議従三位武蔵守源朝臣皈依甚多握しと云云
尚委くハ寺記尓見えたり薬王殿の額ハ朝鮮紫峯筆

本尊 瑠璃光佛
座像三尺五寸、運慶の作。十二神将 立像三尺許*1同作左右に列す。
當寺は後鳥羽院の御建立にして、則ち勅願所なり。(比)叡山は女人禁制の山なるゆえに婦人登る事を得ざれば、佛工運慶に勅ありて(比叡山)中堂の薬師仏を摸して作らしめ、三の宮のために禁闕の西の方に四町四方に地をひらき、仏殿・法堂・庫裏・僧徒*2・山門・鐘楼・方丈等を建たまふ。其後、参議従三位武蔵守源朝臣皈依甚だ握しと云云。
尚、委(くわし)くは寺記に見えたり。薬王殿の額は朝鮮 紫峯 筆。

蜀關羽像
脇壇ニ安須関帝の額をかヽぐ南窓武幹の筆なり寺記ニ云此関羽將軍の像ハ足利將軍尊氏公ある夜の夢尓女来里天告て曰く今汝尓百戦百勝の術を教ん大元国尓軍神を求め天信仰春べしと灵夢の如く元朝尓言送り求る尓関羽將軍の像を送れり尊氏此寺の傍尓安置し玉ふ庄園尓ハ丹州波見保勢州天花寺小野村等を寄せ多る其御教書今尚寺尓あり又家臣師直が狀あり且後鳥羽院御寄附の仏舎利あり什宝と須其初芝薬師甼尓あり天其後京極今出川の南尓移里元禄五年炎焼の後この地尓うつる。

蜀關羽像
脇壇に安ず。関帝の額をかかぐ。南窓*3武幹の筆なり。寺記に云、此の関羽将軍の像は、足利将軍尊氏公ある夜の夢の女来たりて告げて曰く「今汝に百戦百勝の術を教えん。大元国に軍神を求めて信仰すべし」と。霊夢の如く元朝に言い送り求るに関羽将軍の像を送られり。尊氏此寺の傍に安置したまう。庄園には丹州 波見保、勢州 天花寺小野村等を寄せたる。其の御教書、今尚寺にあり。又家臣師直が状あり。且、後鳥羽院御寄附の仏舎利あり什宝とす。其初芝薬師町にありて、其後京極今出川の南に移り元禄五年(1692)炎焼の後、この地にうつる。



『花洛名勝図会』には大興寺を描いた次の画も掲載される。それには現存しない仏殿等の伽藍も描かれており、なんとなくではあるが当時の様子を窺い知ることができる。

さて本書は例言に拠ると、『都名所図會』『拾遺都名所図会』の二書が刊行されておよそ80年をが経ったため、その情報の更新も兼ねて本書が編纂されたようである。なお『都名所図會』には大興寺は取り上げない。先日翻刻をした『拾遺都名所図会』と文章が一部共通することから、おそらく編纂時にそれらが参照されたと思われる。
また誤字がかなり多く、例えば「南宋」を「南窓」としたり、「僧塔」を「僧徒」とする。足利尊氏の霊験に関しては誤字ではなく、単に『山城名勝誌』が用いられていなかった故に、ここでも「如来」ではなく「女来里天告て曰く」とする。

関帝像の項にはこれまで全く記載のなかった扁額「関帝」に関して初めて触れられていることから、1.参照した他の資料に記述されていた、2.情報がなかったので追加したものと思われる。もしかしたらこの「80年」の間に何らかの出来事があったのだろうか。

書名については題簽および扉には「再撰 花洛名勝圖会東山之部」、序題では「東山名所図會」とし、書誌情報は統一されていない。


引き続き大興寺を載せる資料を、特に例の篇額について取り上げている資料がないか探したい。

*1:「計」の誤り

*2:「僧塔」の誤り

*3:南宋」の誤り