「関帝」扁額について

大興寺が蔵する寺伝「関帝」像の制作時期は未明である。またそこには関帝像と共に中国から取り寄せた「関帝」と記された扁額があり、額面に「南宋武幹謹書」と署名があることからその内容を根拠に、同時期に伝わった「関帝」像は扁額と同時期、つまり南宋期(1127-1279年)に作られたのではないかと考えられている。


平井徹「関帝廟を行く(京都・大阪編)」より

現在、大興寺にて配布されているリーフレットにその扁額に関して以下のことが記されている。

関帝像の)作年代および作者は不詳ですが、関帝と刻まれた額には、南宋武幹謹書とあります。縁起に尊氏はこの像を寺の一字に祀るとあり、いわゆる関帝廟であったと考えられます。

さて今年の4月に二階堂善弘先生にお会いする機会があり、そこで先生が撮影された「関帝」像と扁額の画像を見せていただいた。画像をよく見ると上述した情報とは異なる点があった。まず署名が前述した「南宋武幹謹書」ではなく「南窓武幹謹書(落款)」と彫られていた。以前取り上げた元治元年(1864)刊『花洛名勝図会 東山之部』巻四に見える「脇壇ニ安須関帝の額をかヽぐ。南窓武幹の筆なり」という記述が正しいようである。落款は残念ながら解像度に耐えることができず潰れてしまっていたため読解は不能であった。

大興寺の関連資料の翻刻 『再撰 花洛名勝図会 東山之部』巻四 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180111/1515600254

実はこの扁額には知られていない事がある。一言でいうと裏面が存在するのである。以下は裏面に関して情報を整理していきたい。

まず中央に扁額を縦断するように「関羽大将軍」という字が彫られており、その右側には墨書で「奉納 井口忠右衛門 高失清次」が、左側には「南窓幹謹書(落款)」という署名と「吉幹之印」と落款が彫られている。

これまで見てきた地誌では「関帝」像について関羽大将軍と度々記述されていたため、おそらく「関羽大将軍」と彫られた裏面が表面であったと思われる。時代が下り関羽に帝位が贈られたことに因り、扁額の裏面に関帝と施して表面として置くようになったのではないだろうか。

二階堂先生は1.諱を表記していることから製作者は日本人で、2.南窓幹は日本人の号で南 窓幹、3.何らかの理由で既存の額を使わざるを得なかった。4.「関帝」と彫り直した際に誤って署名に「武」の字を加えてしまったのではないか…とお話された。



像に関する手掛かりが皆無であったが、扁額に関する発見があり、加えてそこからアプローチできる可能性が明らかになっただけでも救いである。

大興寺の関連資料の翻刻『西遊草』巻六

幕末の尊攘派の志士である清河八郎が、安政二年(1855)三月二十日から九月十日までの約半年間彼の母親を連れて伊勢・関西・四国・中国地方・江戸を巡る。
今回取り上げる『西遊草』は、彼が旅で見聞きしたこと思ったこと、そして出来事等をまとめた日記である。就寝前に一気に書き上げたらしく、彼の人間性を垣間見ることができる。

『西遊草』巻六の六月十二日の条では京都の吉田山周辺の寺社を巡ったそうで、大興寺も立ち寄った記述がある。オリジナルの『西遊草』は山形県東田川郡に所在する清河八郎記念館に所蔵されており、目を通したりアクセスしたりするのが困難なため、1993年に出版された岩波文庫の小山松 勝一郎 校注『西遊草』よりその箇所を引用する。

正確には翻刻ではないため、完全にタイトル詐欺ですね…

清河八郎『西遊草』 巻六 安政二年(1855)六月十二日の条

田間の山園なる真如堂にいたる。(略)
 また少し手前に芝薬師あり。女人の中堂といひて古しへより名高き本尊にて、叡山にありしに、終此所に帰し、女人の叡山にいたらざる為に、此所にて拝さする為とぞ。側仏ともに至て古物なり。
 当寺に足利義満の所持せし元朝より伝来の関羽関平周倉の木像あるゆへ、開扉いたし見るに、関羽は床几にかかり、両人は戈をたづさへ、左右の前に侍せり。如何成ゆへにて、元より伝来せしや。住持の僧留守にて、たしかならず。至て古風のありさまなりき。

これまで紹介してきた地誌でもたびたび記述されていた本尊に関する情報が前半部に、後半部には関羽像について清河は記す。関羽の由来は『山城名勝志』等にもある通り元朝より伝来したというのは同様である。「足利義満の所持せし」とあるが、1.この当時はこのように伝わっていた、2.清川が尊氏ではなく義満と書き間違えた、3.小山松勝一郎氏が『西遊草』翻刻時に誤った、等々…様々な可能性が考えられるが、先述したようにオリジナルを確認することができないためここでは掘り下げない。


1855年までの間に様々な地誌が刊行されてきたが、いずれも寺の略歴や本尊を取り上げることがほとんどであった。ようやく『西遊草』において、はじめて関羽像の脇侍やその像容等が明らかとなったのである。

現在は脇侍二躯が「関平関興」とされているがこの当時はまだ「関平周倉」とされていたようである。また向かって左脇侍像の持物が逸しており、像容から何か長柄のようなモノを手にしていたと考えてきた。「両人は戈をたづさへ」とあるので、向かって右脇侍像と同様、または類形の長柄の持物を手にしていたようである。


画像はこちらより

清河が参詣した際、あいにくな事に住持が不在であったため、これらの像の詳細は分からないまま大興寺を去ってしまう。あまり「たられば」を言いたくないのだが、「もし」住持がいたのであれば上記の事以外にも多くの事が記されていたのであろう。
清河は文末に本尊の薬師如来像(制作:鎌倉時代)と同様に「至て古風のありさま」と感想をしたためている。
この関羽像にはこの段階ですでにかなり長い歴史を持っていたようである。

大興寺の関連資料の翻刻『日本輿地通志 山城志』巻第五

久々の更新です。
3月から生活環境が大きく変わり、1日の睡眠時間を計4時間確保することができるかどうか…要は多忙を極めていたことに因り、記事の投稿どころかネットサーフィンすることすらままならない状態であったが、ようやく落ち着いてきた。
まずは放置状態であった大興寺関連の史料の翻刻作業の続きを行いたい。


今回は関祖衡『日本輿地通志 山城志』 享保二十年(1735)の記述を取り上げる。
wikipedia等のネット事典に拠ると、『日本輿地通志』は江戸幕府による最初の幕撰地誌で正式名称は『日本輿地通志畿内部』である。当初は日本全国の地誌を網羅する予定であったが、山城・大和・河内・和泉・摂津の畿内五ヶ国のみとなってしまい『五畿内志』の略称で呼ばれる。
享保十四年(1729)から5年にわたり編纂され、享保二十年(1735)に刊行された。漢文で記された61巻からなり、明の地誌『大明一統志』に倣い国内各国の山岳や主要交通路、河川などを漢文で記す。

大興寺
舊在京師大宮五辻南芝藥師町。見薩戒記。再遷在此尚號芝藥師。寺記云 後鳥羽院建。有蜀關羽像。相傳源尊氏公所景仰。又有康永年間將家喜捨文。

大興寺
もとは京師 大宮 五辻の南 芝薬師町に在り。薩戒記に見えるにここに再び遷ってもなお芝薬師と号する。寺記が云うには後鳥羽上皇が建立した。蜀の関羽像を有す。源尊氏(足利尊氏)公が景仰する所と代々伝わる。また、康永年間(1342〜1345)の武家喜捨文を有す。

【告知】三国志研究会(全国版)第22回例会で発表します

龍谷大学竹内真彦教授が主催されている「三国志研究会(全国版)」。再来週、2018年4月8日(日)に龍谷大学大阪キャンパスにて開催される第22回例会にて「達磨寺の関帝像について」と題して報告をします。

・第22回 三国志研究会(全)例会のお知らせ - 三国志研究会(全国版)
http://3594rm.hatenablog.jp/entry/reikai022

こちら関帝像は厨子に入れられてお祀りされている秘仏で、一般公開はされておりません。加えて達磨寺さんもこの像に関する情報を全く発信していませんので、そもそも存在すら知られておりません。今回はそんな関帝像について画像をお見せしながらお話したいと考えています。

よろしくお願いします。

王元姫の忌日(268年3月21日)

(泰始四年)三月戊子,皇太后王氏崩。

【房玄齢・李延寿『晉書』巻三 武帝紀】

(泰始)四年,后崩,時年五十二,合葬崇陽陵。

【房玄齢・李延寿『晉書』文明王皇后傳】

268年3月21日に文明皇后 王元姫が52歳で亡くなり、その後に司馬昭墓所 崇陽陵に合葬された。新暦では同年4月23日にあたる。

曹仁の忌日(223年3月19日)

(黃初四年三月)丁未,大司馬曹仁薨。

陳寿三國志』魏書巻二 文帝紀

黃初四年三月丁未すなわち223年3月19日に大司馬の曹仁が56歳で亡くなった。
新暦では同年5月6日にあたる。

中華 孔明

・北関東三国志ツアー - Togetter
https://togetter.com/li/1207807

北関東三国志ツアーその2。

聖天宮 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180314/1520957334

聖天宮を後にし、続いては腹ごしらえをすべく埼玉県深谷市に所在する中華 孔明へ向かうことに。
孔明」は、ご存知の通り三国志に登場する諸葛亮という人物の字。
そんな三国志に因んだ店名ということもあり、今回のツアーに組み込んでもらいました。

聖天宮からは北へおよそ40kmほどの場所に位置する。
北伐である。

道中は渋滞に遭うこともなく、およそ50分。無事に中華 孔明に到着した。
広い駐車場を備えており、お店は白い建物に赤い「孔明」の文字。「面如冠玉,脣若塗硃〜」という演義の一文を踏襲したのではないか、と思う外観であった。孔明の上にある緑文字の「中華」は綸巾を表しているのだろうか…

お店の入口横には「準備中」という看板が見えるが、慌てるなこれは孔明の罠だ!こうなっている理由は後ほど察することになるが、閉店しているわけではない。初見殺しの罠だろうと思いがなら、いざ店内へ。

店内は、テーブル席にカウンター席、奥には座敷席まであり程よい広さである。
ご主人と奥様の二人で切り盛りされているようであった。入ってすぐのところには漫画ばかりが並んだ本棚があり、横山『三国志』があるかなーと期待しながら覗くと残念ながらそれはなく、代わりにまさかの『龍狼伝』が、しかも最新刊の王霸立国編2巻までしっかりと揃えられていた。スゴい!

4人で訪店だったので、奥様に奥の回転テーブルの座敷席に案内される。着席しメニューを眺めていると、三国志関連の語句が見当たらず、三国志要素は店名と本棚の一角だけのようであった。しばらくすると奥様より「ご飯が切れてしまっている」と宣告を受ける。ランチタイムは14時までなのに12時40分でそうなるのは早すぎるのではないか…、だから看板を準備中にしたのかな、等と邪推しつつ再び視線をメニューに戻す。ご飯がなくては定食すべてがご飯抜きに、丼ぶりモノやチャーハンもオーダー自体が叶わず、まさかの兵糧責めに遭ってしまった。今回は単品メニューで攻めることにして、今度は定食をいただきに訪店したい。


メニュー。左側が「ご飯抜き」の特別仕様

先述したように深谷市にお店がある。せっかくなので深谷で有名なものを…つまり深谷ネギをと考え、「辛口ネギラーメン」を注文した。

ネギも含めて真っ赤であるが、見た目以上に辛すぎず、また刺激も強すぎずで丁度いい辛さであった。ご飯があればベストであろう。次回定食でいただきたいものである。
完食後に気付いたがこれだけ辛くては深谷ネギの持つ本来の味がわからない。そもそも深谷ネギの味すら知らないし、ネギラーメンに使われていたのかさえ分からないが、まあ特に気にすることではなかろう。

会計時に不躾ながら奥様に「なぜ孔明という店名」なのかと伺ったところ、どうやらご主人が三国志が好きで「孔明」になったそうだ。ご主人とゆっくりとお話をしたかったが、厨房で作業をされていたため、あえなく撤退。

今回は不完全燃焼に終わってしまい、少しだけ胸にモヤモヤした気持ちを抱くことになってしまったが、ご縁があれば今度は定食を攻めに訪店したい。

腹ごしらえを無事(?)に済ませたので、次の目的地へと向かうことにした。


〒366-0042
埼玉県深谷市東方町3丁目28−7

孔明 - 深谷/中華料理 [食べログ]
https://tabelog.com/saitama/A1105/A110503/11036123/

聖天宮

2018年3月10日(土)〜11日(日)の2日間にわたって敢行した「北関東三国志ツアー」。そのレポートをいくつかの頁に分けて記したい。ツアーの概要については以下のまとめを参照されたい。

・北関東三国志ツアー - Togetter
https://togetter.com/li/1207807

さて北関東三国志ツアーその1。

埼玉県坂戸市東武東上線 若葉駅より東へ、歩くこと約20分。住宅や工場地帯を抜けた先に広がる田園地域に、極彩色の大型建造物が突如現れる。一瞬にして中国や台湾へ来たしまった…と錯覚を覚えてしまうほどである。この建物は国内最大級の道教施設「聖天宮」で、横浜の関帝廟媽祖廟よりも遥かに規模が大きい。

・五千頭の龍が昇る聖天宮 | 公式ホームページ
http://www.seitenkyu.com/map.html


なぜこの地にこのような施設があるのか。坂戸市と中国や台湾との都市が姉妹都市として、もしくは友好都市として関係があるのではないか、と普通は思うであろう。しかしながらそういった国際的な関係もなければ何一つ縁もないのである。
聖天宮のホームページやリーフレットによると由来は次の通りである。今回は後者より引用する。

聖天宮の建て主は康國典大法師。四十歳半ばにして藤の大病を患い、ご本尊「三清道祖」と演義をもたらされたのを期に一命をとりとめ、完治されました。深謝の念と、何人にも神様のご利益にあやかれるお宮を建てたくて建造の地を探していたところ、なんと生国の台湾ではなく日本国のこの地にとお告げを授かりました。聖天宮の名、佇まいや方角もお告げがあり、当時、正面の道、最寄の若葉駅もなかった雑木林のこの地を一から整地し昭和五十六年より着工に至りました。台湾の一流の宮大工を呼び寄せ、十五年を掛け、平成七年に聖天宮を開廟しました。

神様のピンポイント過ぎるお告げによって建てられたそうだ。とんでもない神様である。偶然にもバブル期と重なったこともあってか、広大な敷地にとんでもなくデカい箱を造ったのであろう。


聖天宮は天門・前殿・鼓楼・鐘楼・本殿・寿金亭を構えており、いたるところに施された龍の彫刻や塑像、彩画に壁画などが目に入る。横浜「関帝廟」では『封神演義』を題材にした像が屋根を飾っていたが、ここでは様々な道教神をモチーフにした像が並んでおり、まさにオールスター状態であった。外見が非常に似通った神仏も多いため、推測はできるが果たしてそれがそうなのか断定には至らない像ばかりであった。
その中でも比較的わかりやすい特徴を持った関羽像だけは何体か発見することができた。



左下に赤兎馬に跨る関羽


本殿には三清道祖元始天尊霊宝天尊道徳天尊)を本尊に、それらの前には等身大ほどの北斗・南斗星君、四聖大元帥が置かれる。残念ながら本殿内の神仏について解説した案内板には四聖大元帥のみと記すだけで、どれが誰なのか言及されていなかった。それぞれの持物や色等より考えるに、三清道祖に向かって左手前、左奥、右奥、右手前の順(時計回り)に殷霊官、馬霊官、趙元帥、そして温元帥であろう。この馬霊官はこのブログで度々取り上げている華光大帝(華光菩薩)である。これまで黄檗宗寺院の華光像しか目にしたことがなかったため、この姿を初めて生で目にできたため、新鮮に感じたとともに、胸が熱くなった。


本殿


本殿内部


本殿内を開設した案内板


王霊官像


馬霊官像(華光大帝)


趙元帥像(趙公明


殷元帥像

本殿を後にして続いては客庁内へ。そこには中華系のインテリアが飾られていたり、聖天宮のお守りや台湾のドリンクが入った自動販売機やペッパーくんが設置されていた。ペッパーくんはチャイナ服に身を包み、辮髪スタイルであった。かわいい!


ペッパーくん。残念ながら稼働しておらず…

そのペッパーくんのほぼ正面の位置に、手の込んだ素晴らしい彫刻の天板を張った円卓が置かれており、よくそれを見ると「三戦呂布」であった。おわかりいただけるだろうか。


「三戦呂布」卓。持って帰りたいほど細部まで作りこまれていた。

他には三国志曹植もとい装飾がないか鐘楼に登ったり、彩画や塑像を穴が開くほど鑑賞しつつ捜したが、先述した関羽像や三戦呂布卓だけしかなかった。他の道教施設は観光地となっているため喧騒としているが、聖天宮はそこにはない落ち着いた雰囲気の中で、まったりとお参りをしたり像等を鑑賞をしたりと非日常的な空間を存分に楽しむことができた。
「一番近い台湾」と宣伝に謳っていることだけはあるな、と次の目的地に向かう車内で実感が湧いた。


〒350-0209
埼玉県坂戸市塚越51−1

三国志研究会(全国版)第22回例会(2018年4月8日)

2018年4月8日(日)14時より龍谷大学梅田キャンパスにて、龍谷大学教授の竹内真彦先生が主催される三国志研究会(全国版)の第22回例会が開催される。

・第20回 三国志研究会(全)例会のお知らせ - 三国志研究会(全国版)
http://3594rm.hatenablog.jp/entry/reikai022

今回のプログラムは現在調整中のため、決まり次第以下に記したい。

参加費は無料で、第1部より参加される方は13時45分にJR大阪駅桜橋口改札前に集合、第2部以降より参加される方は直接開場まで。


〒530-0001
大阪市北区梅田2-2-2 ヒルトンプラザウエスト オフィスタワー14階

「THRee'S」公演DVD入手

半年ほど前に紹介したように、2017年9月15日(金)〜9月24日(日)に渋谷区のCBGK シブゲキ!!にて公演された4S企画「THRee'S」(全14ステージ)。もちろんTwitterにて投稿したように9月16日の公演回を観劇した。

劇場の物販スペースにて本公演を収録した公演DVDの予約受付がされていたため、公演終了後に申し込んだ。2017年末に配送予定とのことであったが、やはり予想していた通り販売時期が延びていたらしく2月中旬にようやく手元に届いた。発送延期になるのであればサイトやTwitter等でその旨をアナウンスしてしかるべきであるが、全くそれがなかったのは非常に遺憾である。

・「THRee'S」公演(2017年9月15日〜9月24日) - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170716/1500170890




DISKは1枚で、本編(02:40:00)のみを収録する。今回はENGではなく4S企画による公演のため残念ながら特典のオーディオコメンタリーはない。本作のあらすじは先述したリンク先の記事に記しているため今回は割愛する。物語はENG第二公演「THRee'S」と同様の内容であるが、出演キャストと舞台装、および演出のみが異なる。