大興寺の関連資料の翻刻『西遊草』巻六

幕末の尊攘派の志士である清河八郎が、安政二年(1855)三月二十日から九月十日までの約半年間彼の母親を連れて伊勢・関西・四国・中国地方・江戸を巡る。
今回取り上げる『西遊草』は、彼が旅で見聞きしたこと思ったこと、そして出来事等をまとめた日記である。就寝前に一気に書き上げたらしく、彼の人間性を垣間見ることができる。

『西遊草』巻六の六月十二日の条では京都の吉田山周辺の寺社を巡ったそうで、大興寺も立ち寄った記述がある。オリジナルの『西遊草』は山形県東田川郡に所在する清河八郎記念館に所蔵されており、目を通したりアクセスしたりするのが困難なため、1993年に出版された岩波文庫の小山松 勝一郎 校注『西遊草』よりその箇所を引用する。

正確には翻刻ではないため、完全にタイトル詐欺ですね…

清河八郎『西遊草』 巻六 安政二年(1855)六月十二日の条

田間の山園なる真如堂にいたる。(略)
 また少し手前に芝薬師あり。女人の中堂といひて古しへより名高き本尊にて、叡山にありしに、終此所に帰し、女人の叡山にいたらざる為に、此所にて拝さする為とぞ。側仏ともに至て古物なり。
 当寺に足利義満の所持せし元朝より伝来の関羽関平周倉の木像あるゆへ、開扉いたし見るに、関羽は床几にかかり、両人は戈をたづさへ、左右の前に侍せり。如何成ゆへにて、元より伝来せしや。住持の僧留守にて、たしかならず。至て古風のありさまなりき。

これまで紹介してきた地誌でもたびたび記述されていた本尊に関する情報が前半部に、後半部には関羽像について清河は記す。関羽の由来は『山城名勝志』等にもある通り元朝より伝来したというのは同様である。「足利義満の所持せし」とあるが、1.この当時はこのように伝わっていた、2.清川が尊氏ではなく義満と書き間違えた、3.小山松勝一郎氏が『西遊草』翻刻時に誤った、等々…様々な可能性が考えられるが、先述したようにオリジナルを確認することができないためここでは掘り下げない。


1855年までの間に様々な地誌が刊行されてきたが、いずれも寺の略歴や本尊を取り上げることがほとんどであった。ようやく『西遊草』において、はじめて関羽像の脇侍やその像容等が明らかとなったのである。

現在は脇侍二躯が「関平関興」とされているがこの当時はまだ「関平周倉」とされていたようである。また向かって左脇侍像の持物が逸しており、像容から何か長柄のようなモノを手にしていたと考えてきた。「両人は戈をたづさへ」とあるので、向かって右脇侍像と同様、または類形の長柄の持物を手にしていたようである。


画像はこちらより

清河が参詣した際、あいにくな事に住持が不在であったため、これらの像の詳細は分からないまま大興寺を去ってしまう。あまり「たられば」を言いたくないのだが、「もし」住持がいたのであれば上記の事以外にも多くの事が記されていたのであろう。
清河は文末に本尊の薬師如来像(制作:鎌倉時代)と同様に「至て古風のありさま」と感想をしたためている。
この関羽像にはこの段階ですでにかなり長い歴史を持っていたようである。