榛名神社と八斗島稲荷神社の彫刻をめぐって

今回は「北関東三国志ツアー」番外編!

 

これまで4回にわたりツアーで巡った群馬県内の寺社の「三国志」作品についてレポートを掲載した。どこにどのような作品があるのか整理すると次の表の通りである。もし行かれる方は参照していただければ幸いです。

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法水寺のみ伽藍神像(関帝像)を祀り、他3神社においては三国志演義を題材とした彫刻を有する。いずれも拝観料などはかからず鑑賞することができる。

さて、それぞれの神社において題材となった場面は少し異なるが、「趙雲救幼主」「張飛大鬧長坂橋」の彫刻が共通して採用されていることから、演義の中でも当時広く知られていた(人気が高かった)場面であり、加えて表現しやすかったため、採用されたのではないだろうか。

当時の三国志文化の一端を垣間見えたような気がする。

 

 

今回のツアーを通して(個人的に)非常に気になった点があった。それは榛名神社と八斗島稲荷神社の彫刻の人物達が非常に類似している箇所がいくつも見受けられた事である。

今回はその類似点について紹介したい。

 

 

まず初めに「三顧茅廬」の場面における関羽張飛像を見たい。

向かって左側が榛名神社 双龍門の胴羽目の関羽で、右側は八斗島稲荷神社の関羽である。比較のため後者の向きを左右反転した。

関羽の像容は幘を被り、細く吊り上がった目、片手で髯をしごくというお馴染みの姿で表されている。髯の流れ方や肩当ての形状とフリルのような装飾、さらに肩当て上に走る2本のライン、鬚をしごく手の袖口の形状や、腰に吊るす佩玉のようなアイテム*1とそれに連なる鎖状の装飾の形状などが酷似する。

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関羽(左:榛名神社、右:八斗島稲荷神社)

 

続いては同場面における張飛である。こちらも比較のため前者を左右反転した。

張飛の表情は驚いたかのように口を開け、片手を前に出し、少し前傾の姿勢である。側頭部にの両者ともに目が丸く、髭が太く表されている。こちらも肩当ての形状とフリルのような装飾はもちろん、張飛が背負う刀状の武器の鞘には、背中から2本の紐が結び付けられており、やはり類似する点が複数見受けられる。 

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張飛(左:榛名神社、右:八斗島稲荷神社)

 

今度は「張飛大鬧長坂橋」である。こちらの画像も向かって左側が榛名神社 双龍門の胴羽目の張飛像で、右側は八斗島稲荷神社 脇障子に施されている張飛像である。榛名神社文化財保護のためか全体を金網で覆われているため、非常に見にくいがあらかじめご了承いただきたい。

 

ここでの張飛は馬に跨り、蛇矛を突き立て大喝している様子が表されている。張飛の後ろから前方に向けて風が吹いているかように、彼の髭や髪の毛が流れる。また手綱を握る左手と左腕の位置、身に纏う鎧類の形状や装飾も酷似する。

馬は両者ともに右前足を軽く曲げた体制をしており、飾りの数は異なるが馬具も張飛と同様に一致する。

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大喝する張飛(左:榛名神社、右:八斗島稲荷神社)

 

特に張飛の得物である蛇矛の穂先が目を引く。なぜか穂先が狼牙棒のようなスパイク状の形状をする。江戸時代以降、日本で登場した「三国志」作品において、蛇矛の穂先は直線的な槍状の刃や、トライデントのような三叉の刃が描かれている。このような狼牙棒状のものは『演義』はもちろん『絵本通俗三国志』をはじめとする「三国志」作品には見えない。我々がよく知る「穂先が曲がりくねった蛇矛」が日本で登場し定着したは比較的に遅く、1980年代初頭であると思われる。

このことについては以下の記事詳しく考察されているので参照されたい。

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蛇矛(左:榛名神社、右:八斗島稲荷神社)
左の動物の顔に耳があるので蛇ではなさそう…

 

今回人物を中心に3点の彫刻を比較し、類似点をいくつか挙げた。このことから1.一方の彫刻を模倣し作成された、2.共通する作品に倣い作成された、3.製作者が非常に親しい関係だったものと考える。

この張飛の特徴的な蛇矛を手掛かりに、制作するにあたり参考にされた「三国志」作品が存在しないか調べることにした。榛名神社 双龍門が竣工したのは安政二年(1855)、三国志ブームのきっかけとなった『絵本通俗三国志』の登場は天保七年(1836)~同十二年(1841)にかけて刊行されたので、期間は1836~1855年までと限定する。

 

 

管見の限りでは、完全に一致した形状を持つ蛇矛を確認することができなかった。しかしながら、それに近い蛇矛を3点見付けることができた。歌川国芳天保年間頃1831~1845)「通俗三國志英雄之壹人」、同じく歌川国芳(1852)「三国志長坂橋の圖」。少し設定した期間より時代が下るが月岡芳年(1872)「燕人張飛」である。

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歌川国芳「通俗三國志英雄之壹人」
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歌川国芳(1852)「三国志長坂橋の圖」
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月岡芳年(1872)「燕人張飛

 

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参考までに葛飾戴斗二世『絵本通俗三国志

 

 少し比べにくいため、それぞれの穂先だけ上から次の順で並べた。

榛名神社 双龍門

・八斗島稲荷神社

歌川国芳「通俗三國志英雄之壹人」

歌川国芳三国志長坂橋の圖」

月岡芳年(1872)「燕人張飛

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この中で唯一、天保年間(1831~1845)頃に描かれた歌川国芳「通俗三国志英雄之壹人」の穂先が、形状や時期が近く、もしかしたら制作する際に参照された可能性が考えられよう。浮世絵における穂先が複雑な形状をしているため、彫刻を作成するにあたりそれが簡略化、記号化されたのではないだろうか。いずれも肯定も否定もできる判断材料が乏しいため、今回は指摘するにとどめたい。

 

もしスパイク状の蛇矛を見掛けられた方はコメント等で教えていただけると嬉しいです!

 

【追記:2019年12月1日(日)】

7月末から「スパイク状の穂先の蛇矛」について、その由来を調べて見たものの、参照に用いられた作品を明らかにすることができなかった。大変ありがたいことに二階堂善弘先生より「『水滸伝』からの影響と考えればいいと考えます。(中略)たぶん、描いた側には手本があって、それが『水滸伝』のほうの絵だったと思います。ポーズとかが一緒で、そして、あとで中身を張飛にしただけでしょう。」と助言をいただきました。

挿絵付きの『水滸伝』作品を確認したところ、秦明が張飛と似た容姿をしていた。また「狼牙棒」を手にしており、この形状が例の蛇矛とも非常近い形状をしていた。よって秦明を参照に彫刻が作成された可能性が考えられるのではないだろうか。

*1:2019年9月1日開催の第38回 三国志研究会にて発表した際に「煙草入れではないか」という意見を頂戴しました。