柳成竜『記關王廟』翻刻

成龍(1542 - 1607年6月7日)は、李氏朝鮮の宣祖に仕えた宰相で、文禄・慶長の役に活躍した人物である。

 

さて今回は柳成龍『記關王廟』の翻刻を行う。原文を参照するにあたり早稲田大学の古典籍総合データベースにて公開されている崇禎六年(1633)跋の柳成竜『西厓先生文集(全二十巻)』を用いた。なお句読点などは補わない。

 

西厓先生文集. 巻之1-20 / 柳成竜 [撰](『西厓集』八 収録「西厓先生文集巻之十六」pp.61-62)

西厓集 文集20巻年譜3巻 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(pp.492-493)

記關王廟

余往年赴燕都自遼東至 帝京數千里名城大邑及閭閻衆盛處無不立廟宇以祀漢將壽亭侯關公至於人家亦私設畫像掛壁置香火其前飮食必祭凡有事必祈禱官員新赴任者齊宿謁廟甚肅虔余怪之問於人不獨北方爲然在在如此遍於天下云萬曆壬辰(1592)我國爲倭賊所侵國幾亡 天朝發兵救之連六七載未已丁酉(1597)冬天將合諸營兵進攻蔚山賊壘不利戊戌(1598)正月初四日退師有遊擊將軍陳寅力戰中賊丸載還漢都調病迺於所寓崇禮門外山麓創起廟堂一坐中設神像以奉關王諸將楊經理以下各出銀兩助其費我國亦以銀兩助之廟成 上亦往觀之余與備邊司諸僚隨 駕詣廟庭再拜其像塑土爲之面赤如重棗鳳目髯垂過腹左右塑二人持大劍侍立謂之關平周倉儼然如生自是諸將每出入參拜皆曰爲東國求神助卻賊五月十三日大祭廟中云是關王生日若有䨓風之異則神至矣是日天氣淸明午後黑雲四起大風自西北來䨓雨並作有頃而止衆人皆喜曰王神下臨矣旣而又於嶺南安東星州二邑建廟安東則斲石爲像星州土塑而星州甚著靈異之跡云未幾倭酋關白平秀吉死倭諸屯悉皆撤去此亦理之難測者也豈偶然耶昔苻堅入寇晉謝安以㫌節旗鼓禱於蔣子文廟謝玄以八萬偏師勝强秦六十萬如八公山草木風聲鶴唳說者皆以爲神助况關王以英雄剛大之氣其扶正討賊之志貫萬古如一日死而不滅安知無神應耶嗚呼烈哉京師廟前立二長竿懸兩旗一書協天大帝一書威震華夷字大如椽因風飄拂半空遠近皆仰而見之其帝號亦皇朝所追崇云可見其尊崇之至也

朝鮮において関羽を信仰する文化は壬申の乱を通じて、日本軍を撃退するために韓国へ派遣された明軍が持ち込んだものである、と言われている。ソウル東大門には関羽を祀る東大門が現存し、観光地とのひとつとして広く知られている。

さてこの史料に拠ると、萬曆壬辰すなわち万暦二十年(1592)より起こった文禄・慶長の役において、朝鮮での関王廟の創建と関羽信仰、そして関羽の霊験についてが記される。

要約すると日本軍に進攻されていた朝鮮軍は、嶺南の安東・星州(現慶尚北道安東市・星州郡)の地にて関王の廟を建立し関羽を祀ると、秀吉が死去し日本軍が全軍撤退した、というものである。

 

それを機に関羽は韓国内にて「国家を護る守護神」として認識され、関羽を信仰する文化が伝播し根付いたのであろうか。