程順則『琉球国創建関帝廟記』翻刻

程順則1663 - 1735年)は江戸時代中期の琉球の士族で儒学者である。

琉球における関帝廟の建立に関してまとめた彼の著書『琉球国創建関帝廟記』が、周煌『琉球国志略』巻十五 藝文に収められている。

 

周煌は乾隆帝琉球王国第二尚氏王朝の尚穆王冊封した際に副使を務めた人物で、彼が琉球で見聞した事柄を『琉球国志略』に記録した。全十六巻。

 

 

さて今回は『琉球国創建関帝廟記』の翻刻を行う。原文は近代書誌・近代画像データベースにて公開されている 神戸大学附属図書館・住田文庫蔵の周煌『琉球国志略』を用いた。

 

琉球国志略 (巻一〜巻十六)::近代書誌・近代画像データベース

http://school.nijl.ac.jp/kindai/SUMI/SUMI-00204.html#330

琉球国創建関帝廟記 程順則

   予至中華見所在神祠血食鄕土者甚多獨關帝

   廟貌淸肅莊嚴上自公卿大夫下至建兒牧豎莫

   不凛然起敬聸禮恐後也帝果何以得此於人哉

   蓋吾嘗聞英雄之生也其氣足以凌霄漢其節足

   以激怒濤夫當漢獻孱弱羣雄割據有一才一技

   者孰不思有所依附以成功名而帝獨識昭烈爲

   帝室之胄委心事之間關勞苦百折不囘且其時

   江東有權許都有操亦足稱一代人傑乃顚倒賢

   豪駕馭一世而獨有帝在其眼中蓋吳雖得地理

   而不知輔漢魏則挾天子令諸侯均非光明磊落

   之所爲視帝之忠義奚啻天壤也其心折於帝也

   宜哉且熟讀春秋手不釋卷舉凡二百四十二年

   之事瞭然於胸所以一舉一動皆本麟經而出之

   予當讀帝廟聯有云後文宣而聖山東一人山西

   一人由此觀之中朝以帝爲聖其尊帝可謂至矣

   茲琉球國已建孔子廟而獨於帝缺其祀典豈帝

   之聲名止洋溢於中夏而不能遠播於海外歟予

   謂不然歲癸亥爲

 

今上御極之二十有二年

 册封正使翰林院檢討汪公楫副使內閣中書舍人林

  公麟焻知吾國有欲爲帝立廟意乃捐俸五十金

  以爲之倡我王喜爲立像祀之從此爼豆馨香帝

  之靈爽實式憑焉然或則疑之謂琉球王位世及

  相傳弗替小心恭順兵革不興祝帝之意果何爲

  也者不知帝之正氣可以塞天地帝之大義可以

  貫古今能使後之爲臣子者靡不知有君父焉豈

  獨廉頑立懦寬鄙敦薄已哉若止論其武功則古

  今戰勝攻取號稱萬人敵者夫豈無人而何以獨

  帝之聲名至今存也然則立廟之意固在此而不

  在彼

 

福岡「関帝廟」・福岡空港「関帝像」

 これまで何度か福岡「関帝廟」およびこの関帝像を幾度か参詣しに足を運んだが、これまでこの像に関して詳細な記事を作成していなかった。昨年末にも関帝像を詣でに行ったので、この機に福岡「関帝廟」の設置当初から現在に至るまでの概要を以下にまとめたい。

 

福岡「関帝廟」の設置

 福岡市は東アジアを舞台に活躍した中世の博多豪商、日本最初のチャイナタウンなど、アジア大陸に最も近いという地理的特性を活かし、国際商業都市として長い歴史を持つ。その特性を活かし、九州やアジアにおける経済活動の拠点都市づくり「ふくおか都市圏まちづくりプラン(福岡都市圏広域行政計画)」*1地域再生計画「九州・アジアの賑わいの都『福岡』」*2を策定してきた。

 その計画が遠因か定かではないが、2002年6月以前より「親不孝通り発展奇成会」が中心となり、天神地区(親富孝通り界隈)にアジア系の飲食店や雑貨、衣料品店を集中させアジアンストリートにするための地域活性化プロジェクト「親富孝通りアジアタウン基本構想」が発足した。そのプロジェクトの一環に、アジアタウンのシンボルとして、またアジアンタウンの守護神、そして財神として、同年内に舞鶴1丁目のトラストパーク AQUA PARKINGのすぐ脇に福岡「関帝廟」を建立し、同年12月22日(日)に除幕式が盛大に行われた。

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上の画像はこちらより引用*3

 この関帝廟に祀られる関帝像は立像で、像容は左手で鬚をしごき、右手には青龍刀を提げる。なお脇侍の関平周倉像はなく関帝像1躯のみが廟内に祀られる。この像は台湾桃園市の鄭 来枝氏により頭部から台座までを1本の樟で彫られたそうだ。*4関帝像の足元には像を説明する案内板が設置されており、以下の解説文を記す。

福岡関帝廟

 福岡関帝廟三国志で有名な武将「関羽」を「関聖帝君」としてお祭りしています。

 「精忠・守義」の将軍として、「護国の神様」さらに昔の中国の簿記の発明者として、「商売繁盛の神様」として信仰されており、家内安全・入試合格・学問の神様としても崇められております。

 神前にひざまずいて合掌し、住所・氏名・生年月日を告げて、願い事をしてください。

 この関帝廟にはスティーブン・セガールや市川 猿之助(三代目)などの有名人が参詣されたと記録が残る。先述した計画自体が頓挫してしまい、親不孝通り界隈の街づくりやそれに伴う環境の整備されなかった結果、先行して関帝廟が建てられたのものの、周囲の環境が整わなかったために、その存在が違和感を覚える形で残ることとなってしまう。

 

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2014年2月22日(土)に撮影。序幕式当初と比べ、両側面と背面に柵が設けられたり、廟内部には拝礼用の座布団や香炉、そして式の様子を撮影した画像のパネル等が置かれている。また親孝行神社の真っ赤な籠も塗装が剥げ落ち、金属の鈍い色になっている。

関帝廟」の消滅

 福岡市に拠点を置き活動されている北伐さんが2015年6月に次のブログ記事を投稿される。

関帝廟へ |北伐ブログ:力漲る三国志手ぬぐい・Tシャツ(2015年6月15日 リンク切れ)

http://hokubatsu.blog.fc2.com/blog-entry-1225.html

 

福岡関帝廟が… | 北伐ブログ:力漲る三国志手ぬぐい・Tシャツ(2015年6月28日 リンク切れ)
http://hokubatsu.blog.fc2.com/blog-entry-1235.html

 

 2015年6月15日(月)の記事に拠れば、関帝廟に行かれた13日(土)当時は廟はもちろん、像も従来通り健在であったようだが、2週間後の6月28日(日)には関帝像がそこにはなく、廟も柱を残すばかりであった、とのことだった。

 同年8月2日(日)に九州へ行く機会があったため、なぜ廟が撤去されたのか、像が消えたのか等その真相を確かめるべく関帝廟のあった場所へ足を延ばし調査を行った。

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廟があったその場所には、周囲のタイルより比較的白く綺麗な四角い跡と、親孝行神社の金属格子が残されるのみであった。 

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 福岡「関帝廟」の入り口を案内していたマスコットキャラクター的存在であった河童像も、関帝廟の撤去に併せてかその場に姿が残されていなかった。駐車場に勤務されていた方にお話を伺うも、関帝廟は移転のため解体されたのではない、との証言を得ることができた。

 2002年12月22日(日)の序幕式から撤去が確認された2015年6月28日(日)まで4571日。およそ12年半もの期間、この場所で日本人や華僑をはじめとする外国人を見守り続けた。

 

関帝像」空港へ移設

 人や文化などを特集する雑誌『きらめき+』のHPに2015年8月17日(月)付の日にちで「 白木塾執筆者・白木大五郎さんより残暑見舞いが届きました。」というページが公開された。 

白木塾執筆者・白木大五郎さんより残暑見舞いが届きました。 | 人、文化、世代をつなぐ「きらめきプラス」

  上記ページに拠れば、2015年は戦後70年の節目の年のため、世界平和と日中友好を祈念して、福岡空港ビルディング株式会社に関帝像のみを寄贈。同年8月10日(月)に福岡国際空港国際線到着ロビー2階にて贈呈式を実施。正式展示は8月末を予定、とのことである。

 関帝像を寄贈したこの白木大五郎氏は何者なのか。 企業リスク研究所*5の代表で、講演会の開催や研究成果に基づいた出版物の発行、個別コンサルティングなどを主に行っている人物のようである。また有限会社柏屋の代表取締役会長も務めているとプロフィールに記載する。

 福岡関帝廟管理委員会を擁していた会社こそが、この柏屋である。つまり関帝像は柏屋の所有物であり、間接的にその代表である白木氏の物でもあった。しかしながら経緯は定かではないが、何らかの事情により関帝像を手放すことになるも、福岡空港が引き取ることで落ち着いたようである。

 さて、白木氏のメッセージ文において誤りがあったため、ここで言及したい。

『天神リクルートビル』の敷地内に設置し、日本に三つしかない『関帝廟』の一つとして長年に渡りアジアンタウン福岡の観光スポットの一つとなっていました『博多関帝廟』の『関羽立像』を戦後70年の節目の今年、世界平和と日中友好を祈念して、福岡空港ビルディング株式会社(社長は前福岡県知事麻生渡氏)に寄贈させていただきました。(中略)尚、寄贈は建屋は除いて『関羽立像』のみです。

企業リスク研究所代表 白木大五郎

 白木氏のメッセージの冒頭部における国内の関帝廟の数であるが、2019年1月9日現在において、日本国内に存在を認識している関帝廟は1.函館「関帝廟」(函館中華會舘)、2.横浜「関帝廟」、3.難波「関帝廟」、4.神戸「関帝廟」(長楽寺)、5.氏が挙げる福岡「関帝廟」の5箇所ある。四天王寺黄檗宗白駒山 清寿院(通称「南京寺」)も関帝廟として広く知られており、これを加えると6箇所となる。ゆえに「日本に三つしかない」ということは決してない、ということだけ指摘したい。さて氏が想定する関帝廟は福岡「関帝廟」以外の2箇所は果たしてどこであろうか。

 

 最後に福岡空港に移設後何度か詣でる機会があった。その際に撮影した関帝像の画像を以下に掲載して終わりとしたい。 

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 移設後も関帝像を解説したパネルが設置されており、日・英・中・韓の4ヵ国語で関帝像について簡潔に紹介がされていた。以下に日本語箇所のみを全文引用する。

関羽

中国の三国時代(184年~280年)、勇猛果敢に活躍した関羽は、武に商に秀で、その才覚は多くの民衆に称えられ、皇帝でも王でもなかったのに中国全土で「関帝」として崇められています。

この像は、日中友好を願う福岡市内の白木大五郎氏より寄贈され、此処に設置致します。

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 上の画像3枚は2016年8月6日(土)に撮影した画像である。関帝像の周囲にはロッキードシリウス機1/4模型のみしか設置されておらず、非常に閑散としていた。また何もないからこそ関帝像がかなり浮いた存在になっていた。

 

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 2018年12月29日(土)に再詣。2年も経過すると、上の画像のように関帝像の位置がシリウス機と入れ替わっており、像の四方にはベンチが設置された。そこに腰掛けると背中に青龍刀に先が当たってしまったり、手を延ばせば触れることが出来る至近距離である。もちろん触れないでくださいという注意書きがない。

 2016年の時よりも周囲が賑わい、利用者が0人になる時間はなく絶え間なく人がロビーを往来していた。また関帝像自体が信仰の偶像から、モニュメント的な存在に役割がシフトしていたように思われる。
 

〒812-0851 福岡県福岡市博多区大字青木739

2019年度三国志関連公演

1月

 

2月

舞台「真・三國無双 赤壁の戦い」(全12公演)

  日程:2月7日(木)~2月17日(日)

  チケット:7,900円(全席指定)

  会場:シアター1010(東京都足立区千住3-92 千住ミルディスⅠ番館

  劇団HP:http://smusou-stage.com/

3月

SPINNIN RONIN「三國志 勇敢なバッタ」(全8公演)

  日程:3月21日(木)~3月24日(日)

  チケット:前売4,500円/当日5,000円/学生割引2,500円(全席自由)

  会場:両国 シアターX(東京都墨田区両国2-10-14 両国シティコア

  劇団HP:https://spinninronin.jp/

 

劇団BraveHearts「朗読ミュージカル 文昭皇后甄氏」(全3公演)

  日程:3月29日(金)~3月31日(日)

  チケット:4,000円+1ドリンク

  会場:北参道ストロボカフェ(東京都渋谷区千駄ヶ谷4-3-10)

  劇団HP:なし

4月

陽project「三國志ライジング」(全7公演)

  日程:4月5日(金)~4月8日(月)

  チケット:前売3,500円/当日3,800円

  会場:ぽんプラザホール(福岡市博多区祇園町8-3)

  劇団HP:https://hizashi001.wixsite.com/info

5月

 

6月

 「ひとり三国志」(全1公演)

  日程:6月12日(水)

  チケット:前売り・当日1,500円

  会場:RAFT(東京都中野区中野1-4-4 1階)

  劇団HP:https://blog.goo.ne.jp/nayuta-gp01fb

 

7月

 

8月

陽project「三國志ライジング2」(全8公演)

  日程:8月2日(金)~8月5日(月)

  チケット:前売3,500円/当日3,800円

  会場:ぽんプラザホール(福岡市博多区祇園町8-3)

  劇団HP:https://hizashi001.wixsite.com/info

 

UDA☆MAP「紙風☆スクレイパー」(全12公演)

  日程:8月21日(水)〜8月28日(水)

  チケット:前売5,300円/当日5,800円 

  会場:池袋シアターKASSAI

  劇団HP:http://bewoodlive.com/

9月

劇団●天八「三国志」(全5公演)

  日程:9月27日(金)~9月29日(日)

  チケット:前売3,800円/当日4,300円(全席自由・税込)

  会場:HEP HALL大阪市北区角田町5-15HEP FIVE 8階)

  劇団HP:http://www.tenpachi.jp/?_fsi=ClXgzjb1

  劇団●天八 三国志 | Confetti [チケット情報満載]

10月

 

11月

 

12月

 

黄檗宗少林山 達磨寺(再訪)

・北関東三国志ツアー - Togetter
https://togetter.com/li/1207807

北関東三国志ツアーその3。

聖天宮 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180314/1520957334

・中華 孔明 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180316/1521126939

北関東三国志ツアーの敢行に伴い、計画当初の2017年の年末より「神怡館は絶対に、もし可能であれば達磨寺も行きたい」という旨をUSHISUKEさん(@USHISUKE)に伝えていた。目的は関帝像の拝観である。2016年の大型連休を利用して参詣したももの、この時はあいにく拝観することが叶わなかった。「今回こそは」と思いUSHISUKEさんに無理を言ってツアーのプランに組み込んでいただいた。

黄檗宗少林山 達磨寺 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20160508/1462677148


中華 孔明にて昼食を取り、13時過ぎに出発する。孔明から達磨寺までは50kmほど距離があるものおの、廣瀬住職に16時よりお約束を取っていたため、時間的にはかなり余裕があった。途中で深谷城址公園にも拠りつつ高崎線に沿って達磨寺を目指した。

特に渋滞や事故に巻き込まれることなく、15時半頃に達磨寺の駐車場に到着。
先の記事でも紹介したが、今回も達磨寺の縁起を以下に引用する。

黄檗宗禅宗)少林山達磨寺 縁起
昔、碓井川のほとりに観音様のお堂がありました。ある年、大洪水のあと川の中に光る物があるので、里人が不審に思って見ますと香気のある古木でした。これを霊木としてお堂に納めて置きますと、延宝年間(一六八〇頃)一了居士という行者が信心を凝らして一刀三礼、この霊木で達磨大師坐禅像を彫刻してお堂にお祀りしました。まもなく、達磨大師の霊地少林山としてしられると、元禄十年(一六九七)領主酒井雅楽頭は、この地に水戸光圀公の帰依された中国の帰化僧心越禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じ、少林山達磨寺(曹洞宗)を開創しました。
享保十一年(一七二六)水戸家は、三葉葵の紋と丸に水の徽章を賜い永世の祈願所とされました。
のち、隠元禅師を中興開山に仰ぎ、黄檗宗に改め以来法灯連綿として今日に至っております。

まずは廣瀬住職にお会いする前に、最上層の本殿(霊符堂)にてお参りする。前回は曇天であったが、この日は天気にも恵まれ快晴であった。天気によって伽藍が見せる表情が全く異なっており面白く感じた。その後、本殿隣の達磨堂へ。ここでは古今東西各種各様の達磨像や資料等が所狭しと展示されており、中には中曽根元総理の達磨等が展示されていた。規模は小さいものの、非常に見応えのある展示内容であった。

廣瀬住職を訪ねに二層下にある寺務所へ向かう。受付にて「関帝像の拝観しに来た」旨をお伝えし、取り次いでいただいた。廣瀬住職に挨拶をし、関帝像を安置しているお堂に案内していただく。その向かう途中、自分が行っている関帝・華光研究の概要をお話すると「この辺(群馬県では)関帝像はうちしか知らないが、華光菩薩像でしたら寳林寺にある」と教えてくださった。以前、達磨寺へ来た際に海野住職にお会いし、寳林寺の華光像を拝観したことをお伝えする。
そういったお話をしている間に、関帝像が安置されている観音堂に到着した。

これまで調査した寺院のほとんどは、関帝像は本堂にお祀りされており、本尊に向かって右須弥壇上に関帝像が達磨像と対にして置かれていた。しかしながら達磨寺では関帝像は観音堂に置かれていたため、つい驚いてしまった。

廣瀬住職のお話に拠れば、観音堂は達磨寺の中でも最も古い建物で、達磨寺が創建された当時の姿を残すそうである。
この観音堂は、もとは一切経を納める「無尽法蔵」という経蔵であった。明治三十二年に造られた十一面観音像が置かれたことを機に、観音堂に名称が改められたと思われる。


観音堂 外観

さて観音堂の内部には須弥壇が三つあり、中央の壇上には十一面観音像が、向かって左壇上には厨子や牌が置かれ、向かって右壇上には厨子が二つ並べて置かれていた。この厨子秘仏だそうで一般公開していないとのこと。


観音堂 内陣と本尊の十一面観音像

まず左側の厨子について。内部が著しく破損しているため、長年扉を閉めているそうである。また状態が酷いため尊名も定かではないらしい。翌日、仏像文化財修復工房の松岡誠一さん(@mokujiki2)にご意見を伺うとどうやらこの像は「弁財天・十五童子像」ではないかとご教示いただいた。以前、別の「弁財天・十五童子像」の修復を手掛けられたそうで、大変ありがたいことに画像もご提示してくださった。この場を借りて改めてお礼を申しあげます。本当にありがとうございました。

・仏像 修復・修理・修繕「仏像文化財修復工房」
http://syuuhuku.com/

厨子入り弁財天十五童子の修復|「仏像文化財修復工房」
http://syuuhuku.com/page/rei2/butuzou/benzaiten/benzaiten.top.html

もう一つの厨子には関帝像(19cm)のみが置かれていた。厨子の大きさは高さが約40cm、幅は約30cm、奥行きが約18cmと少し小さく、まるで念持仏の印象を抱いた。像容について。全身を金色一色で塗られており、幅の広い額飾りが幘に現されており、後頭部から肩まで垂れ下がっていた。表情は太く釣り上がった眉に目尻が釣がった細い目、鼻は髭と鬚は欠けており僅かしか見えない。また右髯は人または動物の毛が見受けられるも経年劣化によるものか数cmほどしか残っていない。鎧の上から袍を纏っており、右手は右腿の上で袍を握る。左手は表現されず。足は例の如く片浜まで広げ椅子ではなく台座に腰かける。他の関帝像には見られない特徴を持つ。
先の弁財天像が入った厨子も大きさほぼ同様であった。関帝像は達磨像と対にして置かれることがほとんどであるが、この関帝像は財神の性格から弁財天・十五童子像と対にして置かれていたのではないかと考える。


さて関帝像を拝観しながら廣瀬住職に何点か疑問を伺うと、以下の事をお話してくださった。火災等で資料が逸しているため多くの事が「分からない」ということであった。

1.関帝像には墨書が見えず、資料が残されていない(現存していない)ため、作成時期や仏師はもちろん、いつ・どのような経緯で達磨寺に置かれたのか不明。
2.当初より関帝だけだったのか、関平周倉像が脇侍像に存在していたか定かではない。
3.心越が達磨寺の開山に携わっているが、大阪・亀林寺のように心越が「寿亭侯印」を達磨寺にももたらしたのか不明。
4.関帝像が入る厨子の底板の裏に「丸山」の二字が見えるが、何を示しているのか不明。この厨子の作者の署名だと考える。
5.厨子内に突き出た二本の釘の用途は不明。蝋燭を挿していたいた可能性も否めない。
6.関帝像と対に達磨像が置かれていたのか不明
7.観音堂は毎年、年始に一度扉を開けるが堂内の厨子の扉は開けることはない。今回数十年ぶりにあけた。(弁天象や関帝像等は原則公開していない≒秘仏として扱っている)

達磨寺蔵 関帝像(※像はモノクロにするなど一部画像処理を行っております)

達磨寺に関帝像が伝わったのは黄檗宗に開宗する前で、心越が開山したタイミングだと考える。まず達磨寺像は他の黄檗宗寺院の関帝像とは像容が少し異なっており(黄檗様式ではない)、また心越が関羽の末裔であると自称していること、亀林寺に関帝像と壽亭公印をもたらしていること、さらに祇園寺(茨城県水戸市)にも壽亭公印をもたらしており、心越の没後関帝と関わりのある人物(黄檗僧や華僑)と達磨寺が接点が見受けられないためである。


やはり「資料が現存しない」というのは非常に悩ましい点ではあるが、廣瀬住職より大変貴重な数々のお話を伺えた。今回の訪問は実りのあるものになった。

今後は心越について、また黄檗宗以外の寺院でお祀りされている関帝像について調べたい所存である。



【参詣日】
・2018年3月10日(土)
【寺院情報】
・建立年 1697年(享保11年)
・本尊 千手観音像
・所在地 群馬県高崎市鼻高町296

第24回例会のレジュメ

昨日龍谷大学の竹内先生が主催されている「三国志研究会(全国版)」第24回例会にて「足利尊氏の「関帝」像について」と題してお話をさせていただきました。

まずはご清聴くださりありがとうございました。

これまでの研究会にて報告したことを踏まえて、今回は扁額より角度を変えてアプローチを行いました。結果はまだまだ核心には至ることができませんでしたが…


さて、今回の例会にて配布したレジュメをGoogle Driveにアップしましたので、ご興味のあるかたは以下のリンクよりご自由に閲覧・保存をしてください。

https://drive.google.com/file/d/1Ddg39PsVARtE14Fu_yMascu7N6ZW-lFG/view

【告知】三国志研究会(全国版)第24回例会で発表します

龍谷大学竹内真彦教授が主催されている「三国志研究会(全国版)」。2018年6月10日(日)に龍谷大学大阪キャンパスにて開催される第24回例会にて「足利尊氏の「関帝」像について」と題して報告をします。

・第24回 三国志研究会(全)例会のお知らせ - 三国志研究会(全国版)
http://3594rm.hatenablog.jp/entry/reikai024

大興寺に伝わる「関帝」像に関して、今年の3月末より少し進展がありましたので、今回はこれまでの報告内容を踏まえて、その像についてお話したいと思います。
よろしくお願いします。

『絵詞要略 誓願寺縁起』

関帝とは直接関係がないが武村南窓をより知るため、また今後彼について調べる中で手掛かりとなりうる資料があったため今回はそれを取り上げる。


慧明 編・東洲 画『絵詞要略 誓願寺縁起』上下巻(以下『縁起』)。絵詞と書いて「えことば」と読むそうだ。跋に「寛政四年壬子秋八月」とあり、成立は1792年。内容は京都の浄土宗誓願寺の略縁起である。誓願寺天明八年(1788)正月三十日に発生した天明の大火により焼失し、寛政四年七月に綸旨を賜って、文化四年(1807)に本堂が再建される。『縁起』は誓願寺再建の勧進のために刊行されたものと考える。

内容は薄いが本題へ。
『縁起』上巻には無記名の漢文序があり、その最期に「南窗武幹書」と署名がされている。蛇足ではあると思うが「窗」は窓の異体字である。その下には縦に「南」と「窗」の印が捺される。大興寺といい、今回の誓願寺といいお寺と何らかの繋がりがあるのだろうか。

異体字が含まれいたり「武」の字がないものの、「関帝」扁額の表面とほぼ同様の字句が記されている。つまり吉村武幹の署名には「南窗武幹」「南窓幹」の2パターンが存在し、意図的なのかは未明であるが書き分けていたものと思われる。

なぜ『縁起』には「吉幹之印」が捺されていないのか、情報が少なすぎるため掘り下げることができないが、印も複数持っており署名と同様に使い分けているものと考える。
彼が関与する他の作品をまだ確認することができていないため、判断材料が著しく不足しているのが現状であり、いろいろと断言するには少し早計であろう。
まずは今後の課題として彼の手掛けた書や作品を探し、どのように署名を残しているのか、また印はどれを用いているのか等々…傾向が分かる程度に情報を収集し分析を行いたい。

「関帝」扁額の作者考

昨日の記事の続き。「関帝」扁額の裏側、つまり「関羽大将軍」の面に記されている人物名を手掛かりに調べた結果、作者であろうと思われる人物がひとり浮上したので、その備忘録を…。

・「関帝」扁額について - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180601/1527812798


関羽大将軍」面にある落款には篆書体で「吉幹之印」と書かれていた。その落款と署名「南窓幹」を手掛かりに調べたところ、ある人物が該当した。

その人物は武村南窓という人物である。彼の来歴は未明であるが、著名な書家だったようで、安永四年(1775)および天明二年(1783)に刊行された京都に住む様々な文化人の情報をまとめた『平安人物志』の書家の項に彼の個人情報が見える。

姓名、字、号、住所、俗称の順で以下に引用する。

『安永四年』本
 【姓名】武 吉幹
 【字】 君貞
 【号】 南窓
 【住所】釜座二条上ル町
 【俗称】武邨新兵衛  

天明二年』本
 【姓名】武 吉幹
 【字】 君貞
 【号】 帰一
 【住所】釜座二条上ル町
 【俗称】武村南窓

住所の「釜座二条上ル町」は現在の京都市中京区大黒町界隈だと思われる。


京都府立総合資料館が所蔵する『初稿草體選』(年代未明)に、扁額と同じ彼の落款が捺されていた。



扁額印


『初稿草體選』印


完全に同一のモノである。さらにこの書の扉には所有者によるものと思われる南窓の来歴を簡潔に記したメモがあり「寛政七年(1795)五月十三日没 齢米弱」とある。
もしこのことが事実であるのであれば、1707年生まれになる。しかしながらその事を肯定できる判断材料がないため、ひとまず置いておきたい。なお文化十年(1813)に刊行された『平安人物志』に彼の名前が見えないことには理解ができる。


川上新一郎(1999)「古今和歌集版本考 : 前稿の補訂をかねて」(『斯道文庫論集 』pp.347-366)のp.352に拠ると武村南窓は「書肆武村新兵衛(四代目)」であったと触れられる。ここでも武村南窓は「寛政七年五月十三日没」と上と同様の事が記されているため、没年はこの日で間違いないようであろう。
また以下のサイトでも武村南窓は書家ではなく書肆であったと以下のように述べられる。兼業しているのだろうか…

寛政三年(1791)に白蛾が加賀藩に召し抱えられる時の身元保証人は、書肆・武村吉幹(南窓)、武村嘉兵衛であった。武村嘉兵衛は宝暦六年(1756)の『古易一家言』の板元として関わって以来、白蛾の晩年に至るまで三十年以上も出版に関わっている。『非白蛾』の翌年に『非白蛾辨』を博厚堂(武村嘉兵衛)から出版しているのも信頼関係があってのことであろう。武村嘉兵衛は寛政元年の『史記評林』紅屋板と八尾板の差構に「挨拶」をして、調停に加わっている所から見ると、大坂書林仲間でも発言力のあった人物だったようだ。

・新井白蛾の基礎的研究 : 江戸の易占(ブログ版)
http://blog.livedoor.jp/narabamasaru-ekigaku/archives/1007679087.html

大きく反れてしまったが、「関羽大将軍」の扁額を作成した南窓幹は、二階堂先生が予測された通りやはり号であった。彼の来歴は未明のため様々な可能性を考えることができるが、例の扁額は彼が存命中(1795年まで)に作成されたものと考える。

よって足利尊氏が「関帝」像と同時期にこの扁額も取り寄せたとされていたが、扁額は足利尊氏の死後350年以上経った江戸時代に造られたものであろう。

「関帝」扁額について

大興寺が蔵する寺伝「関帝」像の制作時期は未明である。またそこには関帝像と共に中国から取り寄せた「関帝」と記された扁額があり、額面に「南宋武幹謹書」と署名があることからその内容を根拠に、同時期に伝わった「関帝」像は扁額と同時期、つまり南宋期(1127-1279年)に作られたのではないかと考えられている。


平井徹「関帝廟を行く(京都・大阪編)」より

現在、大興寺にて配布されているリーフレットにその扁額に関して以下のことが記されている。

関帝像の)作年代および作者は不詳ですが、関帝と刻まれた額には、南宋武幹謹書とあります。縁起に尊氏はこの像を寺の一字に祀るとあり、いわゆる関帝廟であったと考えられます。

さて今年の4月に二階堂善弘先生にお会いする機会があり、そこで先生が撮影された「関帝」像と扁額の画像を見せていただいた。画像をよく見ると上述した情報とは異なる点があった。まず署名が前述した「南宋武幹謹書」ではなく「南窓武幹謹書(落款)」と彫られていた。以前取り上げた元治元年(1864)刊『花洛名勝図会 東山之部』巻四に見える「脇壇ニ安須関帝の額をかヽぐ。南窓武幹の筆なり」という記述が正しいようである。落款は残念ながら解像度に耐えることができず潰れてしまっていたため読解は不能であった。

大興寺の関連資料の翻刻 『再撰 花洛名勝図会 東山之部』巻四 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20180111/1515600254

実はこの扁額には知られていない事がある。一言でいうと裏面が存在するのである。以下は裏面に関して情報を整理していきたい。

まず中央に扁額を縦断するように「関羽大将軍」という字が彫られており、その右側には墨書で「奉納 井口忠右衛門 高失清次」が、左側には「南窓幹謹書(落款)」という署名と「吉幹之印」と落款が彫られている。

これまで見てきた地誌では「関帝」像について関羽大将軍と度々記述されていたため、おそらく「関羽大将軍」と彫られた裏面が表面であったと思われる。時代が下り関羽に帝位が贈られたことに因り、扁額の裏面に関帝と施して表面として置くようになったのではないだろうか。

二階堂先生は1.諱を表記していることから製作者は日本人で、2.南窓幹は日本人の号で南 窓幹、3.何らかの理由で既存の額を使わざるを得なかった。4.「関帝」と彫り直した際に誤って署名に「武」の字を加えてしまったのではないか…とお話された。



像に関する手掛かりが皆無であったが、扁額に関する発見があり、加えてそこからアプローチできる可能性が明らかになっただけでも救いである。

大興寺の関連資料の翻刻『西遊草』巻六

幕末の尊攘派の志士である清河八郎が、安政二年(1855)三月二十日から九月十日までの約半年間彼の母親を連れて伊勢・関西・四国・中国地方・江戸を巡る。
今回取り上げる『西遊草』は、彼が旅で見聞きしたこと思ったこと、そして出来事等をまとめた日記である。就寝前に一気に書き上げたらしく、彼の人間性を垣間見ることができる。

『西遊草』巻六の六月十二日の条では京都の吉田山周辺の寺社を巡ったそうで、大興寺も立ち寄った記述がある。オリジナルの『西遊草』は山形県東田川郡に所在する清河八郎記念館に所蔵されており、目を通したりアクセスしたりするのが困難なため、1993年に出版された岩波文庫の小山松 勝一郎 校注『西遊草』よりその箇所を引用する。

正確には翻刻ではないため、完全にタイトル詐欺ですね…

清河八郎『西遊草』 巻六 安政二年(1855)六月十二日の条

田間の山園なる真如堂にいたる。(略)
 また少し手前に芝薬師あり。女人の中堂といひて古しへより名高き本尊にて、叡山にありしに、終此所に帰し、女人の叡山にいたらざる為に、此所にて拝さする為とぞ。側仏ともに至て古物なり。
 当寺に足利義満の所持せし元朝より伝来の関羽関平周倉の木像あるゆへ、開扉いたし見るに、関羽は床几にかかり、両人は戈をたづさへ、左右の前に侍せり。如何成ゆへにて、元より伝来せしや。住持の僧留守にて、たしかならず。至て古風のありさまなりき。

これまで紹介してきた地誌でもたびたび記述されていた本尊に関する情報が前半部に、後半部には関羽像について清河は記す。関羽の由来は『山城名勝志』等にもある通り元朝より伝来したというのは同様である。「足利義満の所持せし」とあるが、1.この当時はこのように伝わっていた、2.清川が尊氏ではなく義満と書き間違えた、3.小山松勝一郎氏が『西遊草』翻刻時に誤った、等々…様々な可能性が考えられるが、先述したようにオリジナルを確認することができないためここでは掘り下げない。


1855年までの間に様々な地誌が刊行されてきたが、いずれも寺の略歴や本尊を取り上げることがほとんどであった。ようやく『西遊草』において、はじめて関羽像の脇侍やその像容等が明らかとなったのである。

現在は脇侍二躯が「関平関興」とされているがこの当時はまだ「関平周倉」とされていたようである。また向かって左脇侍像の持物が逸しており、像容から何か長柄のようなモノを手にしていたと考えてきた。「両人は戈をたづさへ」とあるので、向かって右脇侍像と同様、または類形の長柄の持物を手にしていたようである。


画像はこちらより

清河が参詣した際、あいにくな事に住持が不在であったため、これらの像の詳細は分からないまま大興寺を去ってしまう。あまり「たられば」を言いたくないのだが、「もし」住持がいたのであれば上記の事以外にも多くの事が記されていたのであろう。
清河は文末に本尊の薬師如来像(制作:鎌倉時代)と同様に「至て古風のありさま」と感想をしたためている。
この関羽像にはこの段階ですでにかなり長い歴史を持っていたようである。