黄檗宗慈現山 観音寺

三重県四日市市の小古曽に所在する黄檗宗慈現山観音寺。本寺は旧東海道のウォーキングコース上にあるようで、ウォーカーの間ではどうやら休憩ポイントになっているようだ。そういった方々が記録のために書かれたブログでは、やはりウォーキングがメインのため「観音寺に寄りました」「観音寺はこんな感じです」と簡単に紹介するにとどまっており、境内内や安置されている像については一切言及されていない。
また本寺はホームページを持っておらず、ネットで調べても寺院の歴史や安置されている像などの詳細な情報を知ることができない。関帝調査を行っていたある時、ここにも関帝像が安置されているという情報を得た。しかし前述したように情報が全く発信されていないため、1/10(日)に関帝像の有無を確認するために現地調査へ赴いた。

JRの最寄り駅から「天王寺」駅で関西本線に乗り換え、「加茂(京都)」、「亀山(三重)」を経由し「南四日市市」駅で下車。そこから徒歩10分程西へ移動し、四日市あすなろう鉄道内部線「泊」駅から乗車し「小古曽」駅で下車する。大阪から三重まで片道4時間近く費やした。この2週間ほど前に黒崎から大阪まで12時間も掛けて鈍行で帰ったため、慣れというものは恐ろしく今回の移動はそれほど苦にならなかった。

さて観音寺には石柱が2本あり、1本は山門前にあり、もう1本は「小古曽」駅ホーム上にあった。後者は山門の延長上にあたる場所にあったため、かつて(何らかの理由で寺院の規模が縮小する以前)山門があった場所に残されているのだろうと推測する。

観音寺の山門前には本寺について簡潔に紹介した案内板があったため、以下に引用する。


戦国時代、信長の人破壊の時に焼失し、その後、元文二年(1737年)の上梁札によると、四日市市浜町の森本長八忠雅の喜捨により建立されたことが知られる。
また、村人たちによって兵火から守られた本尊・千手観音像は、文化三年(1806年)の再建とみられる本堂内に今も安置され、頭体幹部は十一世紀頃の制作であろうと思われている。
山門は、四脚門方式で、屋根の両端に異国風の「マカラ」を上げる点などは、黄檗山宇治萬福寺の諸堂にみられ、黄檗宗特有のもので、棟札より寛政十二年(1800年)の二月と判明し、細部絵様は本堂のものと一致している。(観音寺案内板より引用)

山門を潜ると、仏殿や開山堂などの施設があった。参拝者が少ないためか、仏殿以外は掃除道具などが入れられており、残念ながらまるで物置のような状態になっていた。


仏殿には千手観音像(像高96cm)を本尊に左壇上には厨子に入った達磨像(像高60cm)が、右壇上には同様に厨子に入った関帝像(像高69cm)が安置されていた。これまで訪問した黄檗寺院と同様に、左には達磨像が、右側には関帝像(場合によっては華光菩薩像)が安置されており、やはり安置する位置や場所に決まりがあると改めて認識した。また天王殿がないためか、ここには広目天増長天をはじめとする四天王像や、弥勒菩薩像は安置されていなかたった。

江戸時代、四日市市は港街でもなく、外国との交易が盛んに行われていた場所でもない。なぜ関帝が安置されているのか、その由縁についてお寺の方に伺おうとしたが、あいにく誰もいらっしゃらなかった。

江口論文に拠ると、上述したように観音寺は織田信長の兵火により焼失し、村の山本文右衛門が剃髪し青雲と号して再建した。その後、黄檗宗の僧侶である鎮堂禅師が青雲のもとへ掛錫したことにより、黄檗宗との関係が築かれ、元文二年(1737)に四日市市の富豪である森本長八忠雅や、長崎の穎川(「えいせん」ではなく「えがわ」)氏の外護を得て、本堂や山門、庫裡を新築し開山した、と解説されている。

長崎では頴川氏や林氏、彭城(かさき)氏が名門の唐通事(中国語の通訳)であった。彼らは中国人を祖先に持ち中国の文化や風俗、慣習を重んじ代々受け継ぎ、特に頴川氏は唐通事界のトップに君臨し、経済的にも社会的にも恵まれていた。また隠元の招致運動にも彼ら唐通事が大きな支援を行なったそうだ。

観音寺に関帝像が安置されている由縁は、大陸と大きな繋がりを持つ穎川氏より外護を受け、その際に達磨・関帝両像が将来したのではないかと推測する。

まずは関帝を確認することができたが、関係者の方が不在だったため収穫は少なかったが、観音寺や頴川氏との関係などについて今後も調査を継続し、判断材料を増やしていこうと考える。


【参詣日】
・2016年1月10日(日)
【寺院情報】
・建立年 1726年(享保11年)
・本尊 千手観音像
・所在地 三重県四日市市小古曽2丁目25−5