黄檗宗神護山 先聖寺

犬山城のより南へ2kmほど、名鉄犬山線「犬山」駅より南西へ1kmほどの住宅地の中にひっそりと黄檗宗神護山 先聖寺(せんしょうじ)がたたずむ。

今回の目的は、黄檗宗寺院における関帝像について調べ始めた当初より「先聖寺にも寺伝関帝像がお祀りされている」と認識していたが、愛知県自体にそもそも行く機会がなく足を延ばせずにいた。その状態が何年も続いたが、「いつか書きたい『三国志』」の佐藤ひろおさんが三国志研究会(愛知版)の第1回例会を2017年8月27日(日)に開かれる、ということで、せっかく研究会に参加するのだからこの機に行ってしまおう、ということで、曹洞宗大本山 永平寺福井県吉田郡)に参詣した翌日にその足で向かった。

永平寺仏殿における華光菩薩像 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170827/1503800617

・『永平寺』に見える仏殿 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170830/1504065577

・『永平寺』に見える仏殿 其のニ - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170831/1504144637

・『永平寺の聯と額』にみえる仏殿 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170901/1504229156

永平寺 まとめ - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20170902/1504322736


先聖寺の派手な屋根についつい目がいってしまうが、参道上に設置されている案内板には次のことが記されている。
山門前の案内板。

犬山の唐寺
 さわり布袋(金運、財産保全
 聖観世音菩薩(解難、建康、安全)
 関聖帝君(商売繁盛、入試合格)

「入試合格」ということで、ここでは学問の神様としての性格も持ち合わせているようである。

山門をくぐってすぐ右手には先聖寺の略縁起を記す案内板が設置されている。その由縁は以下の通りである。

先聖寺沿革
 當寺は禅宗黄檗宗(本山宇治の萬福寺開山隠元大和尚)の末寺である。延宝四丙辰年(一六七六年)名古屋竹屋町より浄土真宗泉正寺という潰寺の号譲り受け、開山上州黒龍不動寺潮音道海大和尚とし、開基はその弟子玉堂大和尚<没元禄七甲戌年(一六九四年)>を請け熊野山先聖寺と称した。(現在の熊野町熊野権現之社東)
 玉堂大和尚は博学大徳で城下はもとより近隣より参禅する者多く、町医鈴木玄察、内藤丈草など巨なる者あり蕉門四哲(其角、嵐由紀、去来、丈草)の一人丈草は玉堂大和尚より多大の影響を受け出家までした。
 その時の歌に「身をかくす 浮世の外は なけれども のがれしものは 心なりけり」があり、句碑(昭和二十八年建立)木曽川辺にて「ながれ木や 篝火の空の 不如帰」がある。
 享保御五乙未年年(一七一五年)来鳳和尚が現在の外町天神庵に移転し、神護山先聖寺に改め、諸堂を西向きに造立した。
 享保十三戊申年(一七二八年)より密傳和尚が大施餓鬼を始め、仏殿を東向きにし、大門口を町並へ替え現在の門是なり。
 昭和三十四年(一九五九年)の伊勢湾台風にて仏殿、鐘楼門等を倒壊した。
 平成十六年二月、儒教道教、仏教の三教一致の根拠地となるべく、黄檗風二層平屋建の本堂の建設に至った。
 「三級浪高魚化龍」より登り口、柱、天井(黄光琳画)と散弾の龍を配し、屋根には摩伽羅をのせているのが特徴である。

納骨堂(宗派は問いません)
写経(第三日曜日十時半から十二時)
普茶料理(中国式精進料理)

また岡田啓 編(1880)『尾張名勝図会 後編巻6 丹羽郡』にほ本寺について次のように記す。

 外町にあり。黄檗派にして京都宇治万福寺末。はじめ延宝四辰年熊野町熊野社の社僧となりしが、正徳六申年、変に易比せしなり。本寺正観音立像、開山堂、鐘楼などあり。境内の天満天神社は頗る。古社なるが今は當寺の潰寺の如くなりませり。


画像赤枠部

災害等によって伽藍は当初よりかなり変化しているが、現在の境内には大雄宝殿と寺務所兼自宅、そして大雄宝殿の北側に天神を祀る社があった。
大雄宝殿は以下のページで取り上げられていることから鈴起建設が新築工事を請け負ったようである。

・寺社建設工事 施工例|株式会社 鈴起建設
http://www.10-life.com/cgi-bin/10-life/siteup.cgi?category=1&page=1

大雄宝殿のは桃扉の後ろに設置されている賽銭箱の背面に「さわり布袋」を置く。また中央とその左右の計三つの須弥壇が設けられており、左壇上には開山者である玉堂和尚坐像が、中央壇上は左より順に聖観世音菩薩坐像を本尊に関帝坐像・地蔵菩薩(子供守り本尊)・達磨大師坐像(禅宗の初祖)・本尊 聖観世音菩薩坐像(解難 建康 安全)・文殊菩薩坐像(文殊の知恵)・?、そして右壇上には寺伝「関聖帝君」の華光菩薩坐像を置く。


多くの方にさわられたようで、外装がすっかり剥げている。


左壇上には開山された玉堂和尚像。なぜか名前のプレートが像からかなり離れた位置に置かれている。


中央壇上の左隅に置かれた15cmほどの関帝像。


関帝像とほぼ同様の大きさの地蔵像。


達磨像と本尊の観音菩薩、そして文殊菩薩像。「観音立像」という情報は誤りなのだろうか。


冒頭でも記したように、今回の目的である華光菩薩像。やはりここでも「関帝」として置かれている。華光像の隣にはしっかりと「関帝」について記した説明板が置かれる。その内容を以下に引用する。

関聖帝君
 商売繁盛・入試合格

 関聖帝君は三国志で有名な武将関羽を神格化したものである。西暦百六十年生まれ、享保五十八才で没。
 幼少から「周経と春秋」を学び生涯手放すことなく愛読したという。
 晋唐明清の各朝廷は関羽の精忠主義に感動し帝位の諡を授け、護国の神として祭った。
 関羽は武将として兵站に精通し記帳にもたけて、中国社会で使われていた簿記法(大福帳)を発明した。
 関羽の誠を尽くし約束事を守る精神が商人にとって最も大事であることから商売の神様として祭られ鵜ことになった。

この華光は冠の形状や表情、また上衣にも画が施されておらず他の寺院で祀られている華光像とは異なる点がいくつもある。持物の金磚は欠く。
全身を金色で彩るが腹部に色ムラがあることため、この塗装は作られた当初からのもの(経年とともに塗装が劣化した?)なのか、後世に彩色されたものなのかは不明である。

また胸部にはうっすらと渦巻きの溝を確認することができた。これは他の像には見られない装飾である。もしかしたら他の寺院の華光像にもこれと類似したデザインが施されている可能性はあるが、管見の限りでは先聖寺像のみであろう。

今回住職さんをはじめとするお寺の方が不在であったため、残念ながらなぜ華光を関帝と認識されているか等のお話しを伺うことができなかった。
華光を置く理由については断言することができないが、隠元の弟子である木庵の高弟・潮音道海が開山に携わったためと考える。
木庵が開山した黄檗宗紫雲山 瑞聖寺(東京都港区白金台)や、潮音が中興開山した黄檗宗眞福山 寳林寺(群馬県邑楽郡)にも華光像が置かれる。そしてこの先聖寺は繰り返しになるが潮音が開山している。状況からの推測のため、今後根拠となる資料を見つけ出し、推測の域を脱したい所存である。

黄檗宗眞福山 寶林寺 - 尚書省 三國志
http://d.hatena.ne.jp/kyoudan/20160512/1463062245

参詣後に知ったことであるが、先聖寺の関帝像は住職さんがかつて台湾土産に関帝像を購入し、近年になって須弥壇に置いたそうである。まるで萬福寺関帝像のような背景である。「関帝」として関帝像を祀ってはいないが、関帝像を置く数少ないお寺である。

【参詣日】
・2017年8月27日(日)
【寺院情報】
・建立年 1676年(延宝四年)
・本尊 聖観世音菩薩坐像


〒484-0084
愛知県犬山市犬山南古券47