崇福寺「関帝像」の霊験

崇福寺興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」と総称される黄檗宗寺院の1つである。特に三国志ファンには「関帝像が祀られている」ということで意外と知られている寺院である。
山号は聖寿山。本尊は釈迦如来坐像。脇侍は迦葉、阿難立像の釈迦三尊が、十八羅漢像とともに大雄寳殿にて祀られている。護法堂には天王殿、観音堂関帝堂という沙弥壇が設けられており、関帝堂の壇上に関帝倚像を中心に、向かって左側に青龍刀を持った周倉、右側には印綬を手にした関平像が侍っているおなじみの形で安置されている。特筆すべき点は、関帝像の前に鏡が置かれていることだろうか。

ここへはまだ足を延ばすことはできていないが、今回はその関帝像にまつわる逸話について取り上げる。長崎市 編『長崎市史 地誌編仏寺部 下』(長崎市,1923-1925)の崇福寺の項に次の話が集録されている。

この關聖帝像前に食菓を供すと、毎も鼠がこれを噉ふて了うので、寺僧の一人はこの關聖帝の靈驗なきを嘲笑して居た。當時學紱優長の聞に高かヽりし唐僧即非は恰も當山に在りしが、之を聞き一日像を責め其の右頬を策つて剥蝕せしむるに至つた。するとその翌日韋駄天の劔に一疋の鼠が貫かれて居た。恰も韋駄天が關聖帝の命を奉したものヽやうに思はれた。是に於て衆僧恐を爲して、其の剥蝕の處に修飾を加へ漆工百端すれども、遂に成らず、今に至りてその痕なほ存すと。

つまり、関帝像の前に食べ物や菓子を供えると、よくねずみに食べられるので、寺僧の1人がこの関帝像に霊験がないことを嘲笑していた。当時、学徳が非常に優れていた即非禅師が崇福寺にいた。このことを聞き、関聖像に向かってねずみに供物が食べられている罪を一日中責め、像の右頬を打つとその箇所が剥離してしまった。翌日、韋駄天の剣にねずみが刺さっており、まるで関帝の命令で韋駄天がねずみを退治したようであった。この出来事によって僧侶たちは恐れ、剥離した部分にいくら漆を塗っても剥げ落ちてしまい、今もその痕が残っている。というものだ。

この逸話に登場する即非黄檗宗を日本に広めた隠元の弟子である。彼の経歴を簡潔にまとめると、明暦3年(1657)に来日し崇福寺を開山。寛文2年(1663)に大本山萬福寺へ移り住み、寛文5年(1665)に福聚寺 (北九州市)を開山し、後に崇福寺に隠居し寛文11年(1671)に死去した。
どうやらこの関帝像の出来事は1657〜1663年、または1665〜1671年に起きたようである。