「北関東三国志ツアー」3箇所目。榛名山中腹の榛名神社、伊香保温泉街よりすぐの法水寺と、これまでは多くの参拝者で賑わう寺社を巡ってきた。上越新幹線を東に越えて、今度はいわゆる町の神社とでも言えよう少し閑散とした猿田彦神社へ参詣することに。
猿田彦神社は群馬県道 25号高崎渋川線と、同35号渋川東吾妻線の交差点より南東に1本入ったところに所在する。全てが巨大な法水寺と比較すると、猿田彦神社は非常にこじんまりと、先述したように閑散としている。25号線に参道入口を構え、「猿田彦神社」と彫られた社号標を有するが、玉垣などの社地と道路を区切るものは全くなく、加えて隣接する建設会社の社用車等が境内の端々に駐車されおり、どこからどこまでが境内なのか判然としない神社である。一般的に境内には寺社の由緒や歴史が記された案内板や看板などが設置されているが、そういった類のものもなく、創建時期や沿革をはじめとする一切が不明である。
境内には南向きに構える本殿と、その前には鳥居を構える。それを正面に、向かって左手側には猿田彦大神と天宇受売命の石像が安置される社殿が、また右手には神楽殿を有する。毎年1月にこの神楽殿にて奉納される「大和神楽」は渋川市の重要無形民俗文化財に指定されている。
さて猿田彦神社の「三国志」は本殿に見ることが出来る。本殿の東西の両側壁と北側の後壁には、漆喰で精緻な彫刻が施された幅およそ2m、高さおよそ60cmもの鏝絵(こてえ)計3点が施されている。文化財の保護のためか、ここでも榛名神社と同様に金網で全体が覆われる。
まず西側部の側壁より見ていきたい。ここでは「張飛大鬧長坂橋」が題材にされており、中央には橋が、その右側には騎乗する張飛。そして左側には曹操軍の兵士4人が配される。張飛は丸い眼を大きく見開き、口を開けており、大喝する様子を表しているのではないか、と考える。横山『三国志』でお馴染みの緊箍児のようなものを頭に付ける。頬骨筋に沿って小鼻からこめかみにかけて、まるで隈取のような髭と鬚を蓄える。我々がイメージするような虎髭のようなヒゲではない。左手には蛇矛を持っていたと思われるが、左手首より先が逸しており形状は不明。また袴(?)には薄い青が見えるため、当時は非常に鮮やかな彩色されていたものと思われる。
一方曹操軍の兵士たちは足軽のような恰好に、まるでシャンプーハットのような形状の兜をかぶる。いずれも表情が豊かで、今にも動き出しそうな躍動感のあるポージングがされている。例えば木にぶつかりそうになったり、張飛に驚き転倒していたり、といった具合だ。
北側の後壁の鏝絵にうつる。左側の建物には1人の人物が、中央部右手には蓑笠に身を包む2人の人物が見える。まず前者の人物は横山『三国志』の孫権のような鬚をたくわえ、頭には葛巾をいただく。膝上には板状の何かが置かれ、それに両手が添えられる。この像容より琴を弾く諸葛亮と思われる。また中央部の2人は、西側の曹操軍の兵士たちと顔の造りや、鎧などの類似する点が複数見受けることができたため、おそらく劉備軍と敵対する曹操軍をはじめとする勢力の人物かと推測できる。このことより「空城計」が題材にされた場面だと推測する。
最後は東側部。中央には鎧甲冑で身を包む騎兵と、それから逃げるような兵士たちが配される。騎兵の背面には後光のようなラインが描かれており、胸元には何か塊のようなモノが抱かれており、劉禅を抱く趙雲、つまり「趙雲救幼主」をモチーフにされた鏝絵であろう。
猿田彦神社の各鏝絵の中でもこの趙雲は特に日本化されており、鎧兜姿は日本の戦国武将を彷彿させる。また曹操軍の兵士たちの像容も含め、竹内真彦 龍谷大学教授が主催される三国志研究会(全国版)において「鏝絵は劉備軍=日本の武者・英雄に、曹操軍=敵国人(おそらく中国)と置き換えて表されているのではないか」「雰囲気が元寇ぽい」という意見をいただいた。いつこの鏝絵が作成されたのか定かではないが、三国志を題材にした寺社彫刻と比較すると、猿田彦神社の鏝絵は非常に日本化された人物として仕上げられている、ということは特筆しておきたい。
神社の概略について有益な情報は得ることが出来なかったが、非常に珍しい鏝絵を周囲の目を気にせず、ゆっくりと鑑賞をすることができた。少しアクセスはしにくいが、渋川市へ行かれる際は「しょっかつ珈琲」と合わせて足を運んではいかがだろうか。
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