黄檗宗惠日山 発志院

JR関西本線郡山駅」より西に徒歩30分程度、近鉄橿原線近鉄郡山」駅より西に20分程度歩いたところに位置する。

山門前に続く階段横には、発志院の略縁起について記載された看板が設置されていたため、その内容を以下に引用する。

黄檗宗恵日山 発志禅院 大和郡山市外川町一二八

 大和郡山城の西方、富雄川のほとり、歌ヶ崎丘陵の一角に建つ名刹がこの発志禅院である。恵日山と号し開基を本多忠常、開山を古篆とする。
 当院は宝永七年(1710)春に大和郡山城主本多忠常公の墓所がこの歌ヶ崎に営まれたことに始まる。本多氏は徳川四天王の随一として三ツ葉の家紋を授かり、これに茎を付けて立ち葵を家紋とした。忠常は幕府には忠勤に、領内では心を民政によく傾け、名将・名君の名を高くした。
 宝永六年(1709)四月に卒し、養嗣の忠直が歌ヶ崎に忠常廟を営み、正徳元年(1711)に菩提所として王龍寺(現奈良市二名町)住職古篆に建立させたのが当院である。忠常が生前に姉禄姫の菩提所を計画していたので、その遺志を継いだものである。古篆は本尊に釈迦如来を祀り、当院を黄檗宗大本山萬福寺の末寺とした。
 本多氏のあと、城主は柳澤氏になるが、その名士や領民が当院に墓所を定める者が多く、今も香華は絶えない。歴代住職も寺観の維持管理と法灯の光輝によく努め、市民の崇敬も集まり、年を重ねて平成二〇年(2008)いは開基三〇〇年を迎えた。
 境内地は大和郡山藩主本多家家老田島坦々齋、大和郡山藩主柳澤光教、ほか儒学者城戸月菴、杉山重水ら数多くの名士の塋域となっている。
平成二〇年四月吉日 大和郡山市文化財審議会 会長 長田光男

階段を上がると、そこには入山禁止の柵が置かれていたため、参拝許可を頂くために例のごとくインターホンを押したところ、住職さんが不在であったため奥様が対応して下さった。民放の某スクープハンターのような特殊な交渉術を…という訳ではないが許可を貰い本殿へと招いて下さった。

本殿には珍しいことに祭壇が2つしかなかった。奥様に伺ったところ、もともとは1つであったが本殿を南に拡張した際に祭壇を増設したとのこと。増設した新祭壇をメインとしいているそうだ。

さて、従来の祭壇上には観音菩薩木像1体を安置し、新祭壇には釈迦如来を本尊に、脇侍として右手には達磨(像高32cm)を、左手には関帝(像高39cm)を置く。元来は観音像が本尊にその脇侍に達磨、関帝の三尊形式であった。後に釈迦を迎え入れたことにより本尊を入れ換えたとのこと。また本尊に向かって左に達磨、右に関帝をはじめとする伽藍神像を配置するのが一般的であるが、ここでは姫路の黄檗宗鶴棲山 雲松寺と同様に位置が逆になっていた。おそらく本殿拡張に伴い、像を移動させた際に入れ替わってしまったのではないかと推測する。

また関帝の前には比較的まだ新しい牌が置かれていた。その表面には右から順に縦に南無達磨圓大師、南無護法韋駄天菩薩、南無伽藍聖衆菩薩と彫られていた。関帝を伽藍聖菩薩として扱われていた痕跡が見受けられたため、関帝を以前より伽藍様、または伽藍菩薩などと呼んでいたか、と奥様に質問したところ「ずっと関帝と呼んでいる」と答えられた。なお韋駄天は置いていたが広目天多聞天増長天持国天の四天王像や布袋像、華光菩薩、緊那羅は元から置いていない。

さて関帝を置く由縁についてであるが、寺伝に拠ると開山者の古篆は発志院の建立後すぐに関帝、観音、達磨像を置いたそうだ。その古篆の来歴は未明であるが、隠元隆蒅の一番弟子である福建省出身の中国人僧・木庵性瑫の法孫とのこと。木庵は隠元萬福寺の住職を退いた後、二代目の住職に就いており、実質No.1の弟子であったようだ。福建省出身で隠元に近い人物の弟子ということで、関帝を「関帝」として正しく認識し置いた可能性は非常に高い。しかしどういった由縁でここに迎え、安置するかは資料が残されていないため突き止めることができなかった。


【参詣日】
・2016年3月12日(土)
【寺院情報】
・建立年 不明
・本尊 観音菩薩
・所在地 奈良県大和郡山市外川町128