黄檗宗眞福山 寳林寺

先月、寶林寺のHPとTwitterアカウントが開設されていたことを偶然知った。HPを閲覧すると本殿内部と諸像の画像が掲載されていたため、どのような像が安置されているのか、また華光菩薩像が安置されている可能性についてTwitterにて言及した。

黄檗宗眞福山寳林寺 on Strikingly
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先に掲載した記事の通り達磨寺の寺務所にて、偶然にも寳林寺の海野 宗弘住職さんとお会いすることができた。お話を伺っている中で幸運にも「うちにも華光菩薩像がある」と非常に貴重な情報を教えて下さった。お話している際に出た「ホウリンジ」というワードがすぐには脳内で変換することができず、どこかで聞いたことのあるのだが…とモヤモヤしていたが、「華光菩薩」という単語が出た瞬間に、先月Twitterで話題にしたあの寳林寺ではないか!と気付き、すぐさま華光像を拝観することは可能かと尋ねると、ありがたいことに快諾して下さった。奥さまがお寺にいらっしゃり、連絡しておいてあげる、と申し出て下さったため、達磨寺から急遽寶林寺へ向かうことに。


北関東自動車道「太田桐生」より南へ20分ほどの位置に所在する。徒歩の場合は最寄り駅の東武小泉線「東小泉」駅より南へ40分は要する。

さて寳林寺の由縁は次の通りである。

寳林寺開山の大拙祖能禅師(勅謚 廣圓明鑑禅師)は14歳で仏門に入り、比叡山東福寺天竜寺等に学び、中国へ渡り中峰明本禅師の門をたたいたがすでに寂されており、禅師の弟子千巌元長禅師に就いて修行し、中峰明本禅師の法衣を賜り帰国。足利義満の帰依を受けられました。
徳治元年(1306)の草創で、後に遠州大守を開基として、寳林寺を開創。日本大拙派を築くに至りました。
寛文7年(1667)潮音禅師は中峰明本禅師の禅風を慕って進山し、中興となり館林宰相綱吉公の帰依を受け、直伝覚心居士(須田七郎兵政本、小山市寒川町)・大機宗信居士(吉田六左衛門、熊谷市四方寺)を中興開基として黄檗宗の宗風を振って道俗教化に務め、北関東最初の道場としました。
元禄3年(1690)堂宇は悉く竣工(再建)を遂げたが、慶応2年(1866)に至るまでに再三の火難に遭いましたが、京都七条佛所26代佛師康祐法眼・富小路友学流初祖康倫の造佛や什物等は消失せずに今日に伝えられている。現在の大雄寳殿(本堂)・山門は平成18年(2006)に重興され、本尊釈迦牟尼佛・迦葉尊者・阿難尊者も修復されました。
http://hourin-ji.strikingly.com/#2 より引用

17時40分頃に寳林寺に到着する。海野住職さんが、事前に我々が拝観しに伺うという旨を奥さまに連絡して下さったため、研究内容の説明や撮影許可などの交渉をせずに済んだ。そして奥さまより寳林寺を案内していただき、安置されている諸像などに関して丁寧にご説明までもして下さった。

寳林寺本殿には釈迦を本尊に、脇侍に迦葉、阿難を置く。左壇上には韋駄天、観音、布袋、誕生釈迦仏、達磨(頭部のみ)を、また右壇上には潮音道海禅師倚像、不動明王緊那羅、そして華光菩薩を安置する。

上述したように、2006年に本殿の建て替えと釈迦三尊の修復を行ったため、本殿は萬福寺等で見られる石畳ではなく無垢フローリングが敷かれ、釈迦像らは全身が金色に施され、まばゆいばかりであった。

寳林寺に安置されている諸像で特に目に留まったのが首だけの達磨寺像、両肩より先がない韋駄天、腕のない緊那羅、腰から下を欠いた華光菩薩像である。奥さまになぜこのようになっているのか伺うと「本殿が火災に見舞われた時に本殿の外へ持ち出した。その際に破損してしまった」とのことだ。 達磨寺にて住職より「どの像も萬福寺にある像と同じくらいの大きさがある」と教えていただいたが、まさにその通りであった。華光菩薩像の正確な大きさは不明であるが、管見の限り上体だけで120〜130cmはあり、失った半身を含めると萬福寺像(163.5cm)と同等か、それ以上の像高があったのではないかと推測する。


しばらく拝観していると18時半頃に住職さんより奥様に電話が入った。どうやら19時前後に戻るため時間に問題がなければもう少しだけ待っていて欲しい、とのこと。しばらく時間があるため、寺務所に案内していただき奥さまの群馬トークに耳を傾けながら待たせていただいた。

19時頃に住職さんが戻られる。『月間ムー』を2冊と『黒瀧潮音和尚年譜』1696年(元禄9年)を手にされていた。両者ともに説明をしてくださったが、前者は調査との関係が希薄であったため省かせていただきたい。後者の『黒瀧潮音和尚年譜』には、寳林寺を開山した潮音和尚の活躍について詳細に記されていた。それに拠ると、臨済宗だった寳林寺を寛文七年(1667)に潮音禅師が中興開山し黄檗宗へと改宗、1698年(元禄11年)に釈迦・阿難・迦葉の三躯を京都の仏師・康祐に造らせたとする。また、翌1699年(元禄12年)には尼の榮三が韋駄天を、井上素然が弥勒菩薩を、飯田一空が達磨を、そして神戸長蔵が伽藍神を造らせたとあった。ここにある伽藍神とはすなわち華光菩薩である。残念なことにいつから伽藍神が華光菩薩としなったのかは突き止めることができなかった。
ちなみに本山の萬福寺像は1663年に范道生によって造られたと判明しているため、寶林寺は非常に近い時期に造られた。そのため、萬福寺像を参考にして造られている可能性も考えられよう。

開山者の潮音禅師は渡来して間もない隠元に長崎の黄檗宗東明山 興福寺にて会い、寛文元年(1661年)に彼に参禅した。寶林寺の開山後は黒瀧山 不動寺浅間山 普賢寺を開山し国内各地で活躍を見せる。有名になり佐賀県の小木藩主の鍋島氏が彼に篤く帰依した。その縁で、黄檗宗祥光山 星厳寺に迎えられ開山したそうだ。星厳寺と言えば、今年の3月に市の史跡に認定されたのが記憶に新しい。そんな星厳寺にも寶林寺と同様に華光菩薩像が安置されているが、なぜここにも置かれているかは不明である。やはり開山者がキーなのであろうか。

・星巌寺、小城市史跡に指定 小城鍋島家菩提寺佐賀新聞LiVE
http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10105/166195

最後に海野住職に、華光菩薩と書かれたプレートに括弧書きで「三界伏魔大帝神威関聖帝君」と記されているため、関帝と華光を誤認していた可能性について指摘した。すると「華光菩薩だと名前のインパクトがないのでダサい(大意)」ということであえて書かれたそうだ。なお関帝の称号の1つとはご存知ではなかったようである。よって華光菩薩を華光菩薩として正しく置き、誤認がないことを確認することができた。

海野住職、そして奥様。本当にお世話になりました。

【参詣日】
・2016年5月3日(火)
【寺院情報】
・建立年 1306年(徳治元年)
・本尊 釈迦如来
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町新福寺705