『攝津名所圖會大成』卷之六「關帝堂」翻刻

四天王寺の東側、大阪市天王寺区勝山の住宅地に大阪 関帝廟こと、黄檗宗白駒山 清寿院(通称:南京寺)が鎮座する。関帝廟ということで、本尊は例にもれず関帝像である。その左右は関平周倉が侍る。

 

清寿院の関帝像は古く、おそらく清寿院が浄土宗から黄檗宗に改宗し、中興開山した明和元年(1764)以降のタイミングで将来し、祀られたものだと思われる。清寿院の歴史を調べる上で縁起は必読である。

 

暁鐘成 著,松川半山・浦川公佐 画『攝津名所圖會大成』卷之六に清寿院の縁起は記録される。今回はそれに記される該当箇所(清寿院に関するもの)を以下に翻刻していきたい。

關帝堂

 右同所の北淸壽院あり當寺開山大成和尚唐土より將來の靈像なりとぞ

 且什寶に聖德太子御自作の十一面観觀世音あり長凡六寸五分許

 

本尊 關聖帝君

 長凡二尺餘唐作一木を以て彫刻する所なり

 例年五月十三日祭祀執行伶倫奉納の音樂あり

 

 頂下有赫大成筆

 

 無忠義心何勞景仰有丈夫氣方可瞻依 大成筆

 

 關帝堂 江元燨筆

 

 香(草冠に熱)爐中思漢鼎

 桃閑樹上想名圓 沈草亭筆

 

以下は清寿院の縁起について。句読点等は適宜補った。また片仮名表記は平仮名に改めた。

 抑 關聖帝君と號し奉るは前將軍漢壽亭侯荊州王關羽のことなり。關は姓、名は羽、字は雲長。始は壽長と號す。河東蒲州解梁又は解良とも書といへる所にて誕生あり。其始め、桃園に義を結びてより身を皇叔に委ね、義心忠情 天を貫き、雄略智謀 地を動かし、呉魏と戰ふては、敵將を殺す事 芥蔕の如く五關を屠り、七軍を溺し襄陽を抜て樊城を圍み、天下に横行して周雄艱險を避ず、其 大節江南の諸郡を収め取り、前將軍に拜せられ世に虎臣と稱す。目に呉魏を見下し、漢室を輔け興して天下を漢の一統と爲の中世なりしに、漢の運數盡極るの時なりしや、遂に呂蒙が爲に欺かれ、孫権が前に到といへども、忠節を守りて薨ず。是時後漢献帝建安二十四年巳亥十月某日にして、本朝十五代神功皇后御宇十九年巳亥に相當れり。已に臨沮に身は亡ぶといへども、神靈は四海に彌綸し、天地と共に盡る事なく、千萬年の後も神靈煌々明々とぢて、日月の如く世界を照臨し、上天子より下萬民の善悪を照察し天下國家を守護し靈應利生日々に炳然が故に、漢土にては諸州諸縣諸官所に神廟を建て恭敬し尊信すされば、明の謝肇淛が五雑爼に曰く、今天下の神廟の多き中に於て、諸萬人の皆歸依し、信仰尊信し諸願を祈りて其靈験の炳然なるは、關聖帝君の神廟に勝りたるはなし。其威靈験感應ありし事は、諸の傳記に載せ、及び諸人の耳目に見聞する所の者あきらかにして的據あり、と記せり。右の五雑爼に限らず、諸子百家の書は勿論、石點頭平妖録等の諸の小説に載て、其神験靈應を尊び稱す。夫此關聖帝君の尊號は明の英宗皇帝の勅封にして、猶又三界伏魔大帝と勅封ありし事は、皇明實記に見ゆ。又明の穆宗皇帝は關帝を何曲協天上帝と勅封し給ひ、宋の眞宗皇帝は關公を義勇武安王に封せらる。宋の徽宗皇帝は關公を崇寧眞君と勅封あり。蜀漢の昭烈皇帝は關公を荊州王に封せらる。 是の如く歴代の帝王より下萬民に至るまで、其神靈を尊仰して、或は天尊と稱し、又は關聖或は關帝、關爺々と尊み稱し、漢土四百餘州の各國諸官府・安南・琉球・女眞・朝鮮・呂宋暹羅等の諸外國までも、盡く神廟を建て祭祀尊信す。今の淸朝の天下萬民ことごとく歸依信仰し、天子も猶更尊敬し給ふが故、毎歳の二月と八月には、吉日を擇びて祭り給ふ故に、呉興の沈亮巧が通德類情に曰く、二月擇日祭関帝廟致齋一日と記す。八月も同じ。又清朝の暦五月十三日を關帝暴と記せしは、蓋此日も關帝の祭日ならん。夫神は祈るに應じ、信ずるに験ありて、私なし故に日本にて信じ祈れば、本朝に降臨し漢土外國にて祈り信ずれば、其所に出現すて天下泰平、五穀成就ならしめ、其信仰尊敬し祭る人には、富貴萬福・長命延壽・子孫繁榮・家業繁盛・諸々の災難・重病・横死を除滅さしめ種々の靈験利生あること疑ひ、更に有べからずと云々。